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機械仕掛けのカンパネラ  作者: 瑞原唯子


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第16話 離れゆく心

 俊輔と七海は、拓海が住むマンションの二階に越してきた。

 上司の楠が用意した部屋で、間取りは一階の拓海のものとほぼ同じである。これまで住んでいたアパートより格段に広く、きれいで、親子二人で住むにはもったいないくらいだと恐縮していた。

 それからは、たびたび彼の部屋に遊びに行くようになった。

 遊ぶといってもビールを飲んで何かつまみながら話をするくらいだ。娘の七海が一緒のこともあるが、たいていは寝ているので二人きりである。部外者には言えない仕事の話をすることも少なくなかった。

 ただ、拓海の仕事についてはほとんど話していない。最初のうちは俊輔から興味津々にあれやこれやと尋ねられたが、たとえ同僚でも、任務に無関係の人物には情報を与えられないのだ。

 必然的に、例の男についての話題が多くなる。

 俊輔によると、そもそも監視要員として雇われたはずなのに、勤務初日には意思疎通を図ることも命じられたという。心配する拓海をよそに、彼は嬉しそうにその仕事について語り始めた。

 とりあえず男が言葉を話すのは確認したが、未知の言語のようで、何を話しているのかはわからない。ただ英語と独語に類似した部分があるので、そこから理解していけるのではないかと。

 それからも会うたびに進捗を話してくれた。もちろん上手くいかないこともあるようだが、それでも決して落ち込むことなく、いきいきと前向きに頑張っている様子が伝わってきた。

 彼の好きな仕事を奪ってしまったことに罪悪感があったが、なんだかんだでこの仕事にもやりがいを感じてくれている。そのことに、拓海は少なからず救われた気持ちになっていた。


「アンソニー、日本語だいぶ上達したよ」

 俊輔はビール片手にポテトチップスをつまみながら、声をはずませた。

 アンソニーというのは例の男の名前である。フルネームはアンソニー=ウィル=ラグランジェ。本人がそう名乗ったらしい。公安内ではATLAS-0129というコードネームで識別しているが、俊輔だけは名前で呼ぶようになった。

 アンソニーに日本語を教えるというのは上の決定だ。彼にずば抜けた学習能力があることがわかり、彼の言語を理解するよりも早いと判断されたためである。俊輔の適性も考慮したうえでのことだろう。

 最初のうちは意思疎通もままならないので大変だったが、きっかけを掴むと順調に進んだ。懇切丁寧に教えたのは基礎となることくらいで、あとは段階に応じて書籍や映像などを与えていけば、彼が自分で学習していくのだという。

 もちろん教材だけ与えて放置しているわけではない。邪魔にならない程度に彼と会話するようにしていた。俊輔自身もそれを楽しみにしているらしく、七海が喋り始めたころを思い出すなどと言っていた。

 それから数か月。

 俊輔の言ったとおり、アンソニーの日本語は驚くほど上達していた。ときどき不自然な言い方をしているし、知らない言葉もそれなりにあるようだが、会話は十分に成立する。そのことをどうして拓海が知っているかというと——。

「俺もこのまえあいつと話してきた」

「え、そうなの?」

 拓海は冷えたビールを一口流し込む。

 俊輔と再会するまでほとんどアルコールを飲むことはなかったが、いまは彼に付き合ってときどきビールを飲むようになった。せいぜいグラス二杯程度だが、酔ったと自覚したことはないので弱くはないのだろう。

「アンソニーとどんな話をしたの?」

「命の恩人だと嫌味を言われた」

「それ、素直な気持ちじゃないかな」

 俊輔はそう笑うが、話しているときの口調や表情を見ていれば、感謝しているわけでないことは嫌でもわかる。もっとも言い争うつもりはないので反論はしない。

「日本語は確かに上手くなってたな」

「だろう?」

 俊輔は得意気にそう言い、再びポテトチップスに手を伸ばす。

「アンソニーはああ見えて素直だし真面目なんだ。それでいて話しやすいからすごく楽しいよ。年齢も僕と同じくらいだから、こんな出会い方じゃなければ、いい友達になれたと思うんだけどね」

「…………」

 無邪気に声をはずませながら語り、そしてほんのり眉尻を下げる彼に、拓海は苦々しい気持ちが湧き上がる。あの男に情を移すことは俊輔のためにならない。だが、いまとなってはどうすればいいのかわからない。

 公安がアンソニーに日本語を教えることにしたのは、おそらく彼から情報を引き出すためだ。拷問に掛けてでも口を割らせるつもりだろう。言葉が通じるようになればこそ可能なことである。

 そのことを俊輔が知れば、片棒を担いでしまった自分自身を責めるに違いない。アンソニーがどこでどうなろうと構わないし、むしろいなくなればいいとさえ思っているが、俊輔には知られないよう配慮してもらえないだろうか——。

「どうしたの、難しい顔して」

「考えごとをしていただけだ」

「もしかしてヤキモチ?」

「……そんなわけないだろう」

 一瞬、ドクリと心臓が収縮して息が止まった。

 思案をめぐらせていたのはそのことではなかった。なのにこれほど動揺したのは、そういう気持ちも心のどこかにあったからだろう。一応否定したが、俊輔はどういうわけか信じなかったようだ。

「安心して、これからも拓海がいちばんの親友だから」

 テーブルに頬杖をついてにっこりと笑う。

 奥底の不安を見透かされたようできまりが悪い。無表情を装いつつ、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に呷る。顔が熱くなっているのはアルコールのせいだ、そう自分に言い聞かせた。


「姪御さんのためにも彼を解放してあげたいんだ。拓海から頼めない?」

 あの日以来、事態はますます良くない方へ傾いた。

 俊輔がすっかりアンソニーの味方になってしまったのだ。この国に来たのは誘拐された姪を探すためだ、きっとまだどこかで生きているはず、一刻も早く助けに行きたい、という彼の話を素直に信じているらしい。

 そして、その姪が七海と同じくらいの年頃ということで、なおさら同情的になっているのだろう。もし彼と同じ境遇に置かれたとしたら、もし七海を助けに行けなかったなら、などと想像してしまうようだ。

 アンソニーの話が本当だという根拠は何ひとつない。たとえ本当だとしても、だからといって解放してやれるほど簡単な話ではない。存在自体が秘匿されるべき最重要機密なのだ。自由にするなどありえない。

 あの牢獄には常に二人以上の監視役がいて、監視カメラもついている。つまり俊輔とアンソニーの会話は筒抜けである。拓海が話すまでもなく、上司の楠は報告を受けて承知しているだろう。

 いまは俊輔を利用してアンソニーの話を引き出そうとしているのかもしれない。しかし、ここまでアンソニーに傾倒しているとわかればそれも終わる。俊輔は用済みになるのだ。

 どうすれば状況をわかってもらえるのか。どう言えばあの男から引き離せるのか。拓海はダイニングテーブルに腕を置いてうつむき、視界の端でビールの泡がはじけるのを見ながら、ゆっくりと口を開く。

「あいつは国家機密だ。俺が意見したところでどうにもならない」

「でもさ、拓海はお偉いさんのお気に入りだって聞いたんだけど」

「……手駒として重宝されているだけだ」

 まわりから楠のお気に入りだと思われていることは承知しているし、実際にマンションや射撃場など別格ともいえる待遇を受けているが、だからといって拓海のお願いを何でも聞いてくれるわけではない。

 俊輔はなぜあの男が機密扱いなのかを知らないのだろうが、機密という時点で簡単に解放できないことは察しがつきそうなものだ。たとえ公安という組織をよく知らなかったとしても。なのに。

「とりあえず、頼むだけ頼んでみてよ」

 藁にもすがる思いなのか、理解すらしていないのか、こちらの事情など顧みもせずに押しつけてくる。そんなにまであの男のことが大事なのか——拓海はうっすらと眉を寄せる。

「俊輔、おまえの仕事はあいつと仲良くすることじゃない。深入りするな。詳しい事情は別の人間が聞くことになるだろう」

「それ、拷問するってこと?」

 ひどく冷ややかな声音でそう問われて、思わず息を詰めた。まるで責められているかのように感じる。いや、実際に彼は責めているのかもしれない。

「やっぱりそうなんだね」

「俺は何も聞いていない」

「でもそう思うんだよね」

「…………」

 いつになく鋭い追及に何も答えられなくなる。逃げるようにグラスに手を伸ばして、心持ちぬるくなったビールを煽り、小さく息をつく。

「なあ、あいつが本当のことを言っているとは限らないだろう。おまえの同情をひくために嘘をついているかもしれない。あまり肩入れすると、あとで裏切られてつらい思いをすることになるぞ」

「彼が嘘を言っているとは思えない」

 俊輔の目は曇りなくまっすぐ前を見据えていた。自分の言葉が、心が、彼に届かないことがもどかしくてたまらない。空になったグラスを持つ手にグッと力がこもる。

「おまえはお人好しすぎるんだ」

「……そうかもな」

 彼はわずかに眉を寄せたあと、ふっと笑う。

 拓海はなぜだか無性に胸がざわつくのを感じた。

「悪いけど、もうお開きにしていい?」

「ああ、遅くまで悪かった」

 掛け時計に目をやると、まもなく午前零時になろうとしていた。もうすこし遅くまでいることもあるが、そろそろ帰るべき時間なのは確かだ。なのに、拒絶されたように感じてしまうのは気のせいだろうか。

 だからといって真意を尋ねるような勇気はない。空のグラスや食べかけのスナック菓子を放置して玄関に向かい、靴を履くと、見送りに来ていた背後の俊輔にちらりと振り返った。

「俺は、いまでもおまえのいちばんの親友なのか?」

「……そのつもりだけど」

 俊輔は曖昧に微笑んで肩をすくめる。

 拓海は何も言えず、背を向けたまま軽く片手を上げて部屋を出た。その扉が閉まるやいなやガチャリと鍵がかけられる。思わず白い息を吐くと、無機質に響く靴音を聞きながら階段を下りていった。


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