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第9話 墓石に刻まれた名前

 七海はゆっくりとふすまに手をかけて開いていく。

 その向こうに何があるか知っているので止めようとするが、体は言うことをきいてくれない。またしてもあの光景を見なければいけないなんて。イルカのぬいぐるみを掴む手に縋るように力をこめる。

 徐々に明るく開かれていく視界に映るものは、眩いばかりの月明かりに照らされた血溜まりと、その中で血まみれになって横たわる父親と、傍らでべっとりと手を血に染めて立ちつくす男——。

「……だれ?」

 そう尋ねるものの、いまとなってはもう誰だか知っている。

 踏み出した足は血溜まりをぬるりと踏みつけた。まだほんのすこしあたたかい気がする。きっと血が流れてからそれほど時間は経っていない。思考は冷静に働いても、その恐ろしく現実味のある感触に否応なく感情は揺さぶられる。

「おとうさん?」

 呼びかけても反応はない。指先も瞼も唇もピクリとも動かなかったので、このときにはすでに事切れていたと考えるのが自然だろう。漂う生臭さは単に血の匂いというだけではなかったのかもしれない。

 正面では鮮やかな青色の瞳がじっとこちらを見つめている。その瞳の色も顔立ちもまぎれもなく武蔵そのものだ。彼は血溜まりを踏みしめながら近づいてくると、赤黒い血に染まった手のひらを七海の目の前に伸ばし——。


「うわああああああ!!」

 七海は絶叫して飛び起きた。頭から、顔から、体から、全身が汗ぐっしょりになっている。心臓はドクドクと痛いくらいに収縮し、体中が脈打っているかのように感じる。自分の血がめぐる音もうるさいくらいに聞こえた。

「どうした、七海?」

「あ……」

 隣の拓海が体を起こしてじっと覗き込んできた。暗がりで表情までははっきりと見えないが、そのまなざしはどことなく心配そうに見える。七海はすこし落ち着きを取り戻した。

「平気、夢を見ただけ」

 あの日から幾度となく繰り返し見ている夢。

 そのうち夢の中で夢だと認識できるまでになった。だから悲しかったりくやしかったりして涙ぐむことはあるが、こんなふうに飛び起きることはなくなっていた。なのに今日はどうしてこうなってしまったのか。

 理由はわかっている。夢の最後がいつもと違って初めて見るものだったからだ。いつもは武蔵がじっとこちらを見ているところで終わる。実際の記憶もなぜかそこでぷっつりと途切れていた。

 しかし、今日の夢には続きがあった。

 それが現実にあったことなのか単なる夢なのかはわからない。もし現実なら、あのとき武蔵に何かされていたということになるが、いくら何でもそんな重大なことを忘れているとは思えない。やはりただの夢でしかないのだろうか。

 あっ——。

 ふいに、ふわりと包み込むように抱きしめられて現実に引き戻された。衣服越しに伝わってくる優しいぬくもりに、こわばった心がほどけていくのを感じる。幼いころに悪夢でうなされたときもよくこうしてくれていた。

「まだ朝まで時間がある。寝よう」

「うん」

 拓海に促されて再びもぞもぞとベッドに横になる。横になってからも彼はゆるく抱いてくれていた。七海の目にじわりと熱い涙がにじみ、ぐすっと小さくすすり上げてつぶやく。

「あいつ、やっぱり殺さなきゃ」

「ああ、殺そう」

 なだめるように背中に大きな手が置かれる。そのあたたかさに安心し、甘えるように彼の胸元に額を付けて眠りにつく。

「すまない……」

 頭上にぽつりと落とされたその言葉は、七海の意識には届かなかった。


「ねえ、まだ帰れないの?」

「もうすこし待ってくれ」

 七海はコンチネンタルブレックファストを食べながら、向かいの拓海に問いかけるが、彼の返事はいつもと同じように素気ないものだった。むうっと唇をとがらせながら眉を寄せて睨んでも、彼はまったく意に介さない。

 ホテル暮らしを始めて一週間。

 当初は数日程度だと思っていたのにいまだに帰れていない。ホテルの食事はとてもおいしいし、客室係が隅々まで掃除をしてくれるし、タオルもシーツも毎日替えてくれるし、自宅よりはるかに気持ちよく過ごせるが、七海には大切な目的がある。いつまでもこんなところでのんびりしているわけにはいかないのだ。

 やはり復讐から遠ざけるためにここに閉じ込めているのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。橘の住所についてもまだ調べがついていないと嘘を言い続けている。拓海は恩人だし感謝しているが、彼が何を考えているのかわからなくてもやもやする。その不安定な気持ちと焦りがあんな夢を見させたのかもしれない。

「…………」

 七海は無言でクロワッサンをもぐもぐとかじりながら、思案をめぐらせた。


「いってらっしゃい、パパ」

「ああ」

 七海はいつもどおりビジネスバッグを手渡し、仕事に向かう拓海をひらひらと手を振りながら見送った。その明るい笑顔の下に、彼には絶対に見せられない本心と決意を押し隠して。

 ごめん、言いつけ破っちゃう——。

 拓海の足音が遠ざかり聞こえなくなったのを扉越しに確認すると、さっそく出かける準備を始めた。Tシャツとデニムのショートパンツに着替え、ブルゾンを羽織り、キャップをかぶる。

 客室を出るなと言われている以上、拓海から軍資金をもらうわけにはいかなかったが、幸いあちこちのポケットに現金が入ったままになっていた。小銭だけでなく千円札や五千円札も何枚かある。

 しかし、残念なことに靴はどこを探しても見つからなかった。七海が寝ているあいだにそのまま連れてきたので忘れていたのだろう。あるいは、ここに閉じ込めるためにあえて持ってこなかった可能性もある。

 だからといってあきらめるつもりはない。スリッパのまま、やたらと天井の高い豪華なロビーを抜けて堂々と外に出る。ときどきホテルの従業員や通行人などが気付いてチラチラと見ていたが、誰も咎めはしなかった。

 武器、どうしようかな——。

 本当は自宅に戻って拳銃を取ってくるつもりだったが、鍵がなかったのだ。靴と同じく自宅に置いてきたのだろうと思う。拳銃などそこらへんで売っているわけがないし、売っていたとしても手持ちで足りるはずがない。

 代わりに近くの百貨店で丈夫そうな果物ナイフを買った。これでも急所を狙えば十分に殺せるのではないかと考えて。ただスリッパ履きで襲いかかるのは難しいと判断し、安いスニーカーを買って履き替えた。

 それから公衆電話を探しまわり、駅構内の隅にひっそりと置かれた緑色のそれを見つけると、手持ちの十円玉をすべて投入して武蔵に電話をかける。携帯番号を書いたメモは手元にないが、もらったときに語呂合わせで記憶していた。

『はい』

 数回の呼び出し音のあと、男性の声で短い応答があった。武蔵の声に似ているが確信は持てない。

「えっと……武蔵?」

『その声は七海か?』

「うん」

 七海がほっとしたのと同時に、電話の向こうの彼も安堵の息をついているようだった。

『連絡がないから心配してたぞ』

「外に出るなって言われてたから」

『……いまは大丈夫なのか?』

「うん」

 もし拓海の仕事関係で狙われているのなら危険かもしれないし、無断でホテルを抜け出してきたことは大丈夫といえないが、そんなことまで話す必要はないだろう。軽く受け流して本題に入る。

「あのさ、一緒に行きたいとこがあるんだけど」

『ん? 父親の敵を取るんじゃなかったのか?』

「その前にそこで話がしたいんだ」

 以前は父親の敵を殺すことしか考えていなかった。けれどその父親の敵である武蔵を知り、父親に良くしてもらったという話を聞いてからは、謝罪させたい、後悔させたい、罪悪感に苛まれてほしいと思うようになった。ただ殺すだけでは気がすまない。

「遠いのか?」

「港区の青山なんだけど、わかる?」

『ああ、じゃあバイクで迎えに行く』

 いまどこにいるのかと問われて駅名を告げると、東口で待つように言われた。

 二時間近くかかるらしいが、特にすることもないし下手をして道に迷っても困るので、防護柵に腰掛けて行き交う人々を眺めながらぼんやりと待つ。空はうっすらと灰白色に曇っている。ふと今日の天気予報は曇りのち雨だったことを思い出し、急に心配になった。


「悪い、待たせたな」

 空はだいぶ雲が厚くなってきているが、まだ雨は降っていない。

 武蔵はまっすぐ七海の前にバイクで乗りつけ、フルフェイスのシールドを開けてそう言うと、子供用のヘルメットを投げてよこした。七海はキャップを脱いでポケットに押し込み、代わりにそのヘルメットをかぶると、彼の後ろに跨がって腰に腕をまわす。広い背中はこのまえと同じようにあたたかかった。

「青山方面に向かえばいいんだな?」

「うん、近くなったら道案内する」

 武蔵は多くを訊かずに七海の望むままバイクを走らせる。目的の場所までそれほど時間はかからなかった。バイクを駐車場に止めてそこからは徒歩で向かう。七海は歩きながらキャップを取り出してかぶった。

 武蔵の表情は硬かった。

 駐車場にも途中の道にも看板が出ていたので、どこに向かっているのか、そこに何があるのか、おおよそのことは察しているに違いない。それでも何も言わずに七海とともに歩いている。

 二人並ぶのが難しいくらいの細い階段を上りきると、小高い丘の上に出た。開けた視界の先には様々な墓標が壮観なまでに並び、遠くにはうっすらと霞んだ海も見え、ほんのすこし潮の匂いが漂っているように感じる。

 七海は整然と並んだ墓のあいだを迷いなく進んでいった。そして、ひとつの墓石の前で足を止めてそれと向かい合う。キャップの下で長めの前髪が風に吹かれて揺れた。武蔵も隣に並んで同じ墓石を見つめていたが、そこに刻まれた名前に気付くとハッと目を見開いた。

「七海って、えっ、おまえ……?」

「そうだ、お父さんと僕のお墓だ」

「どういうことだ?」

 俊輔の墓であることはここに来るまでに察していただろうが、七海の名前まで刻まれているとは思わなかったのだろう。ひどく混乱している様子が見てとれる。それを横目で見ながら、七海は体の横でグッとこぶしを握りしめていく。

「あのときお父さんを殺した犯人をはっきりと目撃したから、僕も殺されるかもしれないって、お父さんの親友が僕を守るために死んだことにしてくれた。それからずっと学校にも行かないで隠れて暮らしてきたんだ」

 その声はいつしか涙まじりになっていた。

 隠れて暮らすといっても、家の中にいるかぎりは自由に過ごすことができたし、買い物に出ることも条件付きで許可されていた。父親の敵を取るという目的に向かって、拓海の援助を受けつつ充実した生活を送ってきたと思う。

 それでも決して寂しくなかったわけではない。拓海が仕事に行っているあいだはひとりぼっちだ。学校に通うという当たり前のことが許されず、友達を作ることもできない。何より大好きな父親はもうどこにもいない。

 ザッ、とコンクリートの地面を蹴って武蔵と間合いを取ると、ショートパンツの背中側に挟んでおいた果物ナイフを取って鞘を抜き去り、あらわになった刃先をまっすぐ腕を伸ばして彼に向ける。

「おまえはお父さんを殺した! そして僕も殺した!!」

 そう叫ぶと、堪えていた涙が大粒の雫となり頬を伝い落ちた。一瞬、視界が霞んだが正面の彼からは決して目を離さない。ナイフを持つ手が震え出し、それを抑えようともう片方の手を添えてしっかりと両手で握る。

 武蔵は顔を曇らせながらも逃げようとせず、じっと七海を見据えた。

「七海、おまえの父親を刺したのは俺じゃない」

「いつまでそうやって言い逃れるつもりなんだ!!」

「事実だ。それだけは信じてくれ」

「お父さんの前で無実だって胸張って言えるか?!」

 そう問い詰めると、彼はひどく気まずそうな面持ちになり、困惑を露わにしながら視線を落とした。

「ある意味、俺が殺したようなものかもしれないが」

「ある意味って何だよ!!」

 七海の中でブチッと何かが切れた。

「要するにおまえが殺したってことだろ! なんで素直に認めないんだよ! 反省させたかったけどもういい殺してやる! 僕のこの手で殺さなきゃいけないんだ! おまえを殺さないかぎり終わらないんだ!」

 ワアアアアアアッ!!!

 ぶわっと涙をあふれさせて泣きじゃくりながら、ナイフを振り上げて大きく踏み込み、彼の心臓めがけてあらん限りの力で振り下ろす。

 ズッ——。

 鈍い感触がしたが、すんでのところで胸には刺さっていない。彼が素手のまま刃を掴んで止めたのだ。曇りのない新品の刃が手のひらに深く食い込み、赤い鮮血が止めどなく滴り落ちている。

 七海はハッと我にかえり、はじかれたようにナイフから手を放して後ずさった。三歩もいかないうちに小石に足を取られてバランスを崩し、コンクリートに尻もちをつく。

 カラン、と正面に血まみれの果物ナイフが落ちた。

 ごくりと唾を飲み、座りこんだままおそるおそる視線を上げていく。そこには手を真っ赤に染めた武蔵がゆらりと立っていた。薄曇りの中、青の瞳が不自然なほど鮮やかに色づき異様な輝きを放っている。まるであの冬の日のように。

 ゾクリと背筋が震えて総毛立つ。

 逃げたいのにまるで腰を抜かしたように動けない。開いた足のあいだにぼたぼたと血が滴り、ほのかに血なまぐさい匂いを感じると同時に、赤くぬらりと濡れた手が目の前に伸びてきて——。

「ひっ……!」

 七海は喉を引きつらせて意識を手放した。


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