気が狂って、それから…
気が狂う瞬間は誰にでもある。
僕に見えているのは、感情の波が激しい人たちばかり。些細なことで怒り、憤り、悲しみ、笑う。
なんだかすごく空虚な気分だ。
気分がこんなにも簡単に変わるような生物が、気が狂わないわけがない。
僕のような人間たちは、キ○○イでると太鼓判を押されているだけで、根本的な問題は「そのままの状態で生きていけない」ことが問題なのである。
だから、観察、管理、調整されないといけない。
そうされて嬉しいことが増えた。あくまで以前と今を比較した話ではあるのだけれど。
でも、今なによりも強く感じるのは、自分に対しての憐れみや肩身の狭さである。
気が狂った途端、大学の同級生はやさしくなった。その時は、肩の荷が少し軽くなった気がした。けれど、今思い出すと、彼ら彼女らが人形のように見えるのだ。
生き物のように見えるけど、生きていないような感じがする。
社会学のエッセンスに載っていた「スティグマ」というのはこのことだったのかと強く思う。
「レイベリング」との違いは上手く思い出せない。たしか、レッテルを貼られた対象の方向性や、それを行う人間の規模によって変わるのではなかっただろうか。
しかし、今それらの違いについて記述しても、この話との関係性は薄いだろう。
思い出すだけ無駄かもしれない。
大学での扱いが変わったことよりも、家族が僕に対する態度が変わってしまったことが、自分に対して憐れみを強く感じてしまう。
「やさしくされている」というよりも、「腫れものに触っている」ように感じてしまうのだ。
それが嬉しかったり、虚しくなったりするのは、そのことに対する価値観が曖昧だからだろう。
流れのまにまに身を任せているだけ。生きることに強い執着心がない。足が現実についていない感じがする。
その気にならなくても、ふとしたきっかけで、ここに踏みとどまれなくなれそうなのだ。片足どころか、棺桶の中に寝そべって、目を開けているようだ。瞼を閉じる機会をうかがっているのだ。
僕が今、ここに生きている理由は「いつでも止められるから、生きていられる間は生きてみよう」という、後ろ向きな姿勢でいるのだ。
そういう、生きている状態に対して、強い執着心をなくしてしまっている間は、僕はいつまで経っても、キ○○イのままだ。
「健常者」と「異常者」。
言葉にして別れてしまっている以上、そこには大きな溝がある。
埋められないというよりも、埋めてはならないような気がするのだ。
僕らは決して健常者のようには生きられない。健常者のように見えても、その人にはなんらかの問題を、日常にかかえている。それは夫婦間のトラブルみたいなものではなく、本人の根本的に根づいてしまっている問題が、日常生活に浸食しているのだ。
そういうことを考慮すると、現段階で僕らを「平等」にされては困るのだ。そうしようとする試み程度ならば問題ないかもしれないが、特効薬のようなものがない以上、それを求められる立場にいる者に対しては酷なことになるだろう。
周りの人たちは、気が狂った人たちに対して、客観的な視点で見たときの僕らの異常さがクローズアップして見えているのかもしれない。
主観的になってしまった時には、もうどうしようもないと思うのだけれど。
いま、僕らのような人たちが、社会で一般の人たちのように生きていくことを支援して下さる施設がある。その活動が注目されているようにも思う。
これは、僕の個人的な感覚の話になってしまうのだけれど、そういった施設の意味するところは、「平等」にすることではなく、「今までの偏見的な見方」を軽く、あわよくば無くすためにあると思っている。
狂気というのは自覚できない場合が多い。
明らかに違う様子に見えても、本人にとっては「今までどおり」生きているだけなのだから。
その境界線は、本人が後になって気がつくか、専門家の手にかかるか、他人の観測に頼るしかない。どちらにしろ、その線を越えた後にしか判明しないのだ。判然としないのだ。
自覚できる狂気というものは、攻撃的で、基本的に他人を攻撃する傾向が強いように思う。
自覚できないもの、本当の意味で、他者が見ていても理解できない状態にある人たちは、そのまま放置してしまうと、自壊、自害する傾向にあるように思う。
主に肉体的に。こういうことを書いてしまうと、なんて馬鹿な奴らなんだろうと思ってしまうかもしれないが、肉体的な拘束がなくなれば、つまり、この現実から逃れられれば、自分の処理しきれない感情が落ち着くと思ってしまうのかもしれない。
現に、僕もそうだった。それで何度も自殺未遂をした。そこにいたるまでには、生きていることに必死だったように思う。その行動は歪だったかもしれないけれど。
例えば、生きている実感を得るために、リストカットを習慣にしてしまうような心境である。手首を切るときの焦り、不安、恐怖、興奮。血を見たときの、自分は人であると思える安心感。血をなめて感じる鉄の味に、自分の体に流れているのは血液だという再認識に、安堵する。
テレビで報道されるような気の振れた人たちは、その行動の異常さや、したことの残酷さばかりが強調されているような気がする。
僕からの意見だと、「どうしてそうなるまで放置したのだろうか?」という、当事者に接触しようとしなかった他の人たちへの憤りが強い。
誰も手を掴んであげなかったのだ。誰も手を掴んであげようとしなかったのだ。
そのことばかりが僕の中で大きくなってしまって、加害者側への哀れみが少なからずあるのだ。
その理由としては、気の振れた人たち、つまり僕らのような人たちは、恐れ、嫌い、気持ちわるがれ、近づかないものだと思ってしまっているからだろう。
当事者たちは、不器用なりにも手を伸ばしていたはずなのに。いざ実行した後で、テレビや新聞で、その異常さばかりを取り上げられてしまうのだ。そのせいで、現在懸命に生きていくことにしがみついている僕らの肩身が狭くなってしまうのは、正直こたえるものがある。
今、生きていられる状態が当たり前にある人たちは、その日常を大切にしたほうがいい。そこに不安や悩みがあったとしても、消化しきれない感情があったとしても、生きていくことに執着心があることは、僕らにとっては羨ましいのだ。
生きている状態が当たり前ではなく、執着心がなくなり始めた時は、不器用なりともサインを出したほうがいい。受け取ってもらえるかどうか分からないけれど、そのまま自分の中にため込んでしまうよりは、絶対にいいはずだ。
このことに関しては、絶対といっても問題ではない。仮に、そのことでぶつかり合ったとしても、バラバラになって立ち直れなくなりそうになったとしても、その意思は少なからず形を変えて伝わるはずだから。
そのことに今更ながら気がついて、今更ながら大切にしようとしているけれど、遅くはなかったのだと思えるのだ。
(終わり)