よくわからない状況
野津貴志郎は二十四才の、極平凡な青年であった。
背は高くなく、容姿の方も可も無く不可も無くといった所であろうか。
幼い頃から病気がちであった事が関係あったのか、十二才の時に発病した病は遺伝性の疾患で、以後入退院を繰り返していた。
そのせいか体躯は細く、日々やつれて行く顔色も常に青白い。
彼の闘病生活は実に十二年にわたって続けられ、遂に命を落としてしまったのが二十四才の時である。
不治の病であった。
その後彼の短かった人生において、初めて不可解な事が起きる。
今際の際に見た夢か、はたまた天国の存在を確認してか、あるいは輪廻の輪の中、転生か憑依でもしたのか、美しい少女にキスをされる夢を見たのだ。
夢でなく現実である可能性もあったが、それを確かめる術は今の貴志郎に与えられては無かった。
そう、“今は”。
「なんだこれ、ワケがわからない」
呟いて、貴志郎は辺りを見渡した。
そこは見慣れた病院の集中治療室でも、一般病室でもなかった。
壁紙すら貼っていないような酷く殺風景な部屋で、自身も目が覚めるまで粗末な寝台に寝かされていたようだ。
部屋はそれ程広くなく、石造りであるようで床と壁はむき出しの岩肌が見えている。
窓は一カ所、光を取り入れる高窓があるだけで、生憎ここから外の様子を見ることは出来ない。
ただ、暖かな太陽の光が差し込んでいることから今は昼であることがわかった。
唯一の出入り口であろう扉は何枚かの幅狭な板であつらえた粗末な木製で、大雑把な作りである為か上下どころか板と板の間すら隙間が見えた。
よくわからない状況である。
――ここは何処だろう。
ぼんやりと考えながら、ふと体中の節々が痛む事に気が付いた。
「え?」
思わず声が上がった。
ついストレッチをやろうとして体に力を籠めようとした所、思いの外強く込めることが出来たからだ。
貴志郎は知らず上体を起こして、自身の体をペタペタと触り始めた。
体を起こすことすら、つい昨日まで叶わなかった作業である。
戸惑いは当然の事だろう。
「なんで……え? えっと?」
未だにあちこちの関節に噸痛があるものの、それ以外は特に具合の悪いところは無い。
頭痛もしないし、息苦しくも無い。
試しに深呼吸をしてみる。
肺はどこまでも空気を取り込んで、しかしむせたり痛みが走ったりはしなかった。
――健康な体だ。
これが、健康な体なのだ。
そんな認識が貴志郎の脳裏に浮かび、じわりと目頭が熱くなった。
「ふぐ、う、ぐ、うう」
嗚咽が漏れる。
ぽたり、と手の甲に涙が落ちた。
息をするだけで苦しかった日々、痛みを伴いながら不定期に訪れる発作に怯える生活を行ってきただけに、ただ健康であるという確信を得られる事は、青年にとってそれ程の喜びであった。
根拠など無い。
今だって寝台から脚を降ろし立ち上がろうとしても、立てないかもしれない。
だが、そうであっても苦しみを伴わない呼吸と寝ていて身動ぎしても痛みを伴わない体は、何物にも換えがたい宝であると断言できるだろう。
貴志郎はひとしきり泣いた後、最後の涙を拭い深く息を吐いた。
いまだ現実味は薄かったが、何時までもこうしているわけにもいかないだろう。
何より、ここは何処なのか、何があったのか、何故自分は病院では無くここに居るのかという疑問を満たしたい。
――そう、思った時だ。
ぐぅ、と腹の虫が鳴いたと同時に、バンと勢いよく音を立て木の扉が開かれた。
「おさおえ、vはしお@あ!」
扉が開く音と誰かの叫び声に驚いて、弾かれたように扉の方を向く貴志郎であった。
が、そこに人の姿は無い。
否、視線を下げるとまず暖かな湯気が立ち上る器、その器が乗ったトレーが見えて、そこから更に視線を下げて行くと小さな女の子の姿が確認出来たのである。
「ほー、わおうyfgsbjぽい。ぬはははははは!」
女の子はよくわからない言葉を発して高笑いをあげながら、器が乗ったトレーを器用に頭上に乗せ軽快にとててと走って、貴志郎が寝ていた寝台の側まで近寄ってくる。
トレーを頭上に掲げているのは、体が小さい上手足が短い為、トレーを前で持てないからなのだろう。
必然、両手は塞がってしまうので扉を蹴飛ばして開けた、と想像できた貴志郎だったが、乱暴な登場は女の子の様子を見る限り彼女の性格もあるのかもしれない。
そのような事を考えている間に女の子は貴志郎の方へトレーを差し出して、部屋に入ってきた時と同じような高笑いをしながら、乱暴にバシバシと貴志郎の背を叩いたのだった。
貴志郎は戸惑いながら渡されたトレーの方へ視線を落とすと、そこにある器の中には何やら暖かそうな琥珀の液体が盛られているのが見える。
他にもハーブかなにかだろうか、緑の葉を刻んだようなものも浮いており、湯気と共に爽やかな香りが立ち上って来ていた。
スープだ。
そう認識すると同時にもう一度、ぐぅ、と腹が鳴った。
よく見ると器の隣りに木製の匙らしいものが乱暴に添えられている。
最初はキチンと縦なり横なりにして置かれていたのかも知れないが、頭に乗せていたので妙な位置に転がってしまったのだろう。
「あむ? そうあわんぐfsぢtごs?」
食べないのか? どこか具合が悪いのか? とでも言っているのだろうか。
スープを飲む気配を見せない貴志郎に、女の子はこてりと首を傾げ貴志郎の顔を覗き込んで来た。
貴志郎ははっとして、恐らくは世話をしてくれようとしている彼女に礼も言ってないことに気が付き、とりあえずは意思の疎通を試みようと視線を女の子に戻したのだが。
改めて見る彼女の姿にぎょっとして、言葉を失ってしまったのだった。
女の子は日本人では無かった。
そこまではいい。
彼女が部屋に入って来た時から気が付いてはいた。
サラリと揺れる髪は銀色に輝いて、体躯はひどく小さく、ともすれば少女というよりも幼女と表現出来る年齢だろう。
しかしその童顔はあり得ない程整っており、年齢の差はあれど先に夢現の中で見たあの美少女とは勝るとも劣らぬ美貌であった。
髪の色は違えど瞳の色は同じブルーである事から、妹なのだろうか。
――いや、違う。
しかし貴志郎は、間近で見た彼女の幼い美貌にしばし自失する程見とれてしまいはしたものの、幼女はあの少女の関係者では無いと判断を下した。
加えるならば、俺はロリコンではない、という意味も“違う”という言葉の中に混じっていたりする。
確かに幼いとはいえこれ程美しい顔立ちならば、幼女愛好家でなくても目を奪われても仕方無いだろうし、どこか面影を感じる部分もある。
だがそれよりも、彼女に付随する三つの要素が貴志郎に違う、と思わせた。
側頭部から頭頂部付近の髪を押し上げるように二つ、ピンと尖った獣の耳。
同じく狐のそれであろうか、髪と同じ色をした、臀部の辺りから伸びる獣の尾。
正式な名称は貴志郎の知るところでは無いが、白い七分丈のズボンと水干――日本の、その昔陰陽師と呼ばれていた者達が着ていたような、出で立ち。
……幼女の姿は、胡乱であざとかったのだ。
ただ、女の子の姿は一見してはケモミミ水干幼女のコスプレでしかないように見えるが、よく見るとケモミミはこちらを伺うようにピクピクと動いているし、尾もユラユラと自然な動作で動いている所から作り物では無い事が伺える。
何より一度死に、奇跡的に蘇生したというよりも、ここが天国かどこか異世界かの可能性の方が高いと考え始めていた貴志郎にとって、彼女のソレが本物か偽物かなど些細な問題であるのだろう。
貴志郎は僅かな混乱の後、幼女の容姿についてはアッサリ“そういうものなのだ”と納得し、改めてスープの匙を手に取り幼女に掲げて見せた。
「わふぇ! わふぇ!」
幼女は嬉しそうに頷く。
更にスープを匙で掬って飲むジェスチャーをしてみた所、今度も彼女はニコニコとして頷いたのだった。
どうやらスープは貴志郎に飲ませる為、態々用意してくれたらしい。
貴志郎はありがとう、という意味を込めて幼女に笑いかけてから、スープを一掬い口に運んだ。
まず、第一に味は薄く感じられた。
次いで独特なハーブの風味が舌の根にこびりついて、不快な後味が残る。
――薬湯の類であろうか。
にしても、量が多い。
もしかしたら滋養のある健康食品の類なのかもしれない。
そう思いながら貴志郎は、空腹も手伝ってかお世辞にも美味であるとは言えないスープを瞬く間に飲み上げた。
「ごちそうさま。ありがとう、お陰でお腹が落ち着いたよ」
「わふぇ! やえkそいゆ?」
「ごめん。言葉がわからない……。君はえっと? 僕の面倒を見てくれてたのかな?」
「むー。あ! てぉいなっち!」
ダメで元々、貴志郎は言葉の通じない幼女にスープのお礼を兼ねて話しかけてみる。
勿論、言葉は通じなかった。
通じなかったが、幼女は貴志郎から空になった器を受け取りながら、何かを思い付いたらしい。
彼女は貴志郎には意味のわからない言葉を残し、現れた時と同じように忙しなくトレーを頭上に掲げて部屋の外へ駆け出していってしまった。
かと思えば、それから一分もしない内に彼女は再び部屋に戻って来て、訝しむ貴志郎の目の前にはいっ、と何かを手渡してきたのである。
受け取ってみると、それは銀細工のようなものを施されたシンプルな指輪であった。
細工は爪の先よりも小さな物で、よく見ると青い宝石のようなものが一つだけ、埋め込まれるようにして付いている。
――もしかして、この指輪の持ち主かどうかを聞いているのだろうか?
あるいは、持ち主を知っているのかと聞きたいのだろうか。
だが貴志郎には指輪の持ち主に心当たりは無い。
「これは?」
「わふぇ! わふぇ!」
「……もしかして、これを嵌めろ、って事?」
「ふぉる! ふぉわgり!」
指輪を指に嵌めるような仕草を行うと、幼女は嬉しそうに頷く。
どうやら渡した指輪を貴志郎に身に付けて欲しいらしい。
貴志郎は言われるまま指輪を右手の中指に嵌めようとした。
「モぎー!」
――もの凄い剣幕で、幼女に指輪を取り上げられた。
何がしたいのだろうか?
彼女の豹変ぶりに貴志郎はしばし呆然として、今ではぐぬぬと唸るケモミミ水干幼女を眺める。
そのような様ですら愛くるしく見えるのは、彼女の見た目が麗しいというよりもいたいけな童女である事の方が大きいのだろう。
そう、思いたい。
きっと、そうなのだ。
自分は決して幼女愛好趣味など、ない。
何より、自分の心は既にあのエルフによって占められている。
――思い出し、頬を赤らめる貴志郎。
あの美貌と唇の感触。
理想の恋人というものを挙げるならば、ああいう存在のことを言うのだろう。
そのように、貴志郎が幼女が見せた微笑ましい姿に一瞬だけ見とれてしまった言い訳を並べている間、幼女は徐に先程と同じように貴志郎に指輪を手渡してきて、今度は懐からもう一つ同じ指輪を出したのであった。
「むぃ! むぃ!」
幼女は半ば必死に、取り出した指輪を自分の左手中指にはめる仕草を行っている。
どうやら、同じ位置に指輪をして欲しかったようだ。
指輪をはめる指に、何かしら意味があるのだろうか。
貴志郎はいや、左手薬指とかじゃないし、それ程重い意味などないだろう、と“生前”の価値観で判断して、ごく自然な動作で再び渡された指輪を左手中指にはめた。
瞬間――
「うわ!」
貴志郎の左手中指にはやや大きめだった指輪が突如ギュっと絞られて、指の中にめり込んでしまったのだ。
とはいえ、驚きの声こそ上げた貴志郎であったが、痛みは感じない。
突然の事に唖然としながら左手中指を見ると、うっすらと指輪をはめていた位置に小さな青い宝石のような物が見えた。
それ以外には指輪を嵌める前と特に変わった様子はない。
一体、何が起きたというのだろうか。
戸惑う貴志郎に、更なる追い打ちが降りかかる。
「ぬははははは! やったぞ! これでお主は吾輩のモノとなったのじゃ!」
いきなり言葉が通じるようになった疑問を置き去りに、貴志郎は寝台の側で腰に手を当てふんぞり返り高笑いを上げるケモミミ水干幼女を見て、ただただ呆然とするのであった。
よくわからない状況は更に混沌具合を深め、もっとよくわからない状況になりつつあるようだ。
しかし貴志郎は高笑いをする幼女を目の前に、不思議と心を落ち着かせていた。
生まれて初めて抱いた健康であるという確信が、彼にそのような在り方をさせていたのだろう。
野津貴志郎が、死の世界より蘇った日の一幕である。
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水干=千と千○の某神隠しに出てくるハクが着ているような着物。
作中の水干は、ズボンのスソ部分は短パンのように絞りは無い特別仕様。