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風呂から上がった明宜は紺色の、薄手の作務衣を着ていた。
どうやらそれが寝間着らしい。
「隣の部屋にいるから、何かあったら知らせてくれ。まあ、ないと思うけど」
「わ、わかりました」
「うん。じゃあ、おやすみ。扇風機あるから、適当にまわしといてよ」
頷き、すっと締まった襖を見つめる。
水墨画で山水が描かれているその襖。そこに、札が貼ってあった。
壁にも、何枚か。
こんなところで眠れるのだろうかと思うが、一か月間、ここで寝起きするのだ。
慣れなければどうしようもない。
のろのろと布団のなかに入り、無理やり目を閉じる。
それからどれくらいたっただろうか。
何度も寝返りをしていると、襖から、かすかな光が入ってきたと同時に、香のにおいが鼻腔をくすぐった。
「……」
すぐに光はなくなったが、そのにおいはとても――心地がいい。
自然と緊張していた心身が、そのにおいで休まってゆく。
知らず知らず、永劫は眠っていた。
夢を見た。
ゆらゆらと揺れている影。
おかしなもの。人なのか人とは違うものなのかさえ分からないその影。
これが、野良神なのだろうか。
反射的に思うも、根拠はどこにもない。
だが、たしかに――あの音が聞こえる。草履がコンクリートをすべる、あの音。
足音は確かに聞こえるものの、こちらには近づけないようだ。
影は、口惜しそうに何か呟いている。
何を呟いているのか分からないが――
「聞くな」
「……!?」
後ろからいきなり明宜の声が聞こえて、肩が竦みあがる。
振り返ることができないのは、両耳に手を当てられたからだ。
血が流れる音だけが聞こえる。
「野良神の声を聞くと、戻ってこれなくなる」
「あ、あんただって聞いているじゃないか!」
耳もとで呟かれた言葉に反論すると、明宜はおかしそうに笑った。
夢のなかだというのに、なんだか妙にリアルだ。
じゃり、じゃり、という音が徐々に消えてゆく。夢のなかだからか、異様に真っ白い世界から音が消え、やがて耳もとの手のひらが離れていった。
「珊瑚さん、あれは一体……」
問うても、後ろには明宜はいない。真っ白な世界にただ一人だけ残されて、呆然とする。
――どうすりゃいいんだ。
そう思考していると、手首を思い切り掴まれた。そのまま引かれて、――暗転。
その手は、氷のように冷たかった。
あれは、明宜だ。
「……う……」
自分のうめき声で目が覚める。
ぼんやりした視界には未だ慣れない木の天井があった。
実家は普通の白い天井だったから、慣れるには時間がかかりそうだ。
「ああ、起きたかい?」
「え……? う、うわっ!?」
声が聞こえた方角――すぐ横を見ると、肘を畳につけ、寝そべっているにやにや笑っている明宜がいた。
「危なかったねぇ。野良神の声を聞くことは危険なことなんだよ。……まあ、次に夢に出てきたときは、自分で対処してもらいたいもんだけど」
「は? それって、どういう……」
「うーん……。企業秘密」
しらばっくれるように笑った明宜は、ゆっくりとした動作で起き上る、が、
「珊瑚さん!」
ぐらりと体が揺れて、崩れ落ちそうになる。
反射的に立ち上がって、永劫よりも15センチは高いであろうその体を支えた。
薄い飴色にも似た髪の毛が、永劫の頬にかかる。
「あー……ははは。悪いね。ちょっと貧血」
「貧血って。もうちょっとマシな嘘ついてくださいよ」
「えぇ? ひどいなぁ。――って、きみには嘘をつく必要も、ないか……」
どういう意味か分からないが、肩を貸してゆっくりと座らせた。
明宜の体からは、――香のにおいと、わずかな汗のにおいがする。
「……」
思わず顔をそらせた。何故か。そう、何故か、そうしなければならない気がしたからだ。
それでも、明宜はにやにやと笑って、「んん?」と首を傾けて、永劫をのぞき込む。
「なーに。おっさんにときめいちゃったりしちゃった?」
「あ、ああ、阿呆ですかあんた!!」
思い切り体を離しても、にやにやといやらしい笑い方は消えてはいなかった。
顔をそむけても、なんとなく気配で分かる。
「阿呆ってね……。そこまで言われるとおっさんだってちょっと傷つくなぁ」
「馬鹿よりいいでしょう」
「そういう意味じゃなくて……。まあ、いいか。とりあえず、着替えてくれ」
白いシャツとジーンズに着替えると、明宜は畳のうえに胡坐をかいて、こちらをじっと見つめていた。
「な、なんですか?」
「いや。きみ、白いねぇ。肌」
「は? そうですか?」
普通だと思うが、そうなのだろうか。
膝に肘をあてて笑っている男は、やはり何を考えているのか分からない。
「じゃ、さっそく始めるか。朝飯はそのあとだ」
「始めるって……。野良神に帰ってもらうために?」
「そう」
うなずいて、のろのろと立ち上がる明宜は、どこか疲れているようだった。
――大丈夫なのだろう、か。
「あの……珊瑚さん」
「ん?」
「俺が言うのもなんですけど、その、疲れているなら、今じゃなくても」
「きみが心配する事じゃないよ。大丈夫。そんなに俺はヤワじゃないからね」
何を言っているんだ。
こんなに、青白い顔をしているのに。
なんだか――無性に、腹が立った。