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依代。
禮も言っていた。
どういう意味なのか分からないが、なんだかとても――嫌な予感がする。
押し黙っている永劫を面白がるように、明宜はにやにやと笑った。
「神さんがこの世に降りてくるときに必要なかたち――。それが依代だよ」
「必要なかたち?」
「まあ、俺の場合、俺に依りつくんだから、依巫と呼ぶ方がいいのかな」
よくわからない。
よく、分からないが、それってとても怖いことなのではないだろうか――。
ぞくりと背筋が凍えるように冷たくなった。
「どうして、そんなことをするんだ?」
「どうして? そりゃ、――どうしてだろうねぇ」
自嘲気味に笑った男は、どこか疲れたような顔をしている。
聞くことじゃなかっただろうか。
うつむくと明宜は、ははは、と大げさに笑った。
ぐしゃりと頭を撫でられて、思わずつんのめる。
「きみが気にする必要はなんにもないよ」
「べ、べつに気にしてなんか」
「はは。そうかい。ならいいんだ」
明宜は立ち上がって、空の皿をもって台所に向かった。あわてて自分も皿をもって後を追う。
台所は、二人立てばぎゅうぎゅうになってしまう程の狭さだ。
この家は狭くはないし、台所だけなんでこんなに狭いのだろう。
コンロや流し台はそれ程古くはないが、新しくもなさそうだ。そう思わせるのは、不自然にきれいだからだろうか。
たぶん、使っていないのだろう。
「さて、後片付けが終わったら風呂、入ってくれ。もう湧いているから」
「分かりました」
「それと、明日。明日の朝も風呂に入って――シャワーでいいから。それから本番だ」
「本番?」
「うん。野良神さんに帰ってもらうようにお願いするんだ」
そうさらりと言われても野良神はきっと「はいそうですか」と言って帰ることはないだろう。
明宜の険しい目が物語っているのだ。
そう簡単にはいかない、と。
風呂場は思ったよりも広かった。
二人くらいは入れるだろうか。三日ぶりの風呂ということもあって、(自分ではあまり実感がないが)なんだか気分がいい。
「……うーん……」
それにしても、どうして祖父は明宜の事を知っていたのだろうか。
有名、とは一体どういうことなのだろう。
訳が分からないことばかりだ。あの男の事は。
だからと言って、ずけずけと聞くのは憚れる。
風呂場から出ると、寝間着代わりのジャージを着て、明宜がいる部屋へむかった。
「珊瑚さん。お風呂いただきました」
テレビの音が聞こえる部屋で、明宜は畳に突っ伏して眠っていた。
ぼさぼさの髪の毛は顔にかかっていて、表情は見えないが眠っていることはたしかだ。
規則正しい寝息も聞こえる。
「寝てる……」
起こしていいものかどうか。
じっと髪の毛であまり見えない顔を見下ろす。
あまりよく見えないが、目を閉じているぶんには、顔だちは整っているような気がする。
「……おーい。珊瑚さーん。お風呂あきま、」
した、という言葉は出なかった。
伸ばした手首を思い切り掴まれて、そのまま引かれたのだ。
驚愕の声を出すひまもなく、畳のうえに押し倒される。
首にかけていたタオルが、足元に落ちた。
あまりに鮮やかで、あまりに突然のことだったからだろうか。声さえ出なかったのは。
見下ろされるかたちになった永劫は、ただ目を見開くだけしかゆるされない。
片手は肩をつかまれ、もう片方の手は手首をつかんだままだ。
見下ろしている明宜の顔は、――表情は、何もなかった。
ただの無表情で、へらへらしたり、にやにやしたりする、いつもの表情はない。
ひゅう、と喉から呼吸音が聞こえる。
それが自分のものなのか、明宜のものなのかさえ分からない。
「あ……? あー……」
先に声を出したのは、明宜だった。
まったく表情が読めない顔で、ぱっと体を離す。
「ごめんごめん。あーっと……寝ぼけてみたいだねぇ。じゃ、俺も風呂に入ってくるよ」
「は、はい」
のそりと体を起こすと、そこにはもう――明宜はいなかった。
「――な」
なんだったんだ、一体。
赤白橡のような色の目。
その目は、なにもなかった。
敵を見る目とか、見方を見る目だとか、そんなものではない。
本当に、何もなかったのだ。
まるで、空をなんとなく見るような目をしていた。
畳のうえに丸まっているタオルを拾い、その目の色を打ち消すように黒い髪をごしごしと乱暴に拭った。