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「見舞い来てくれたのか」
マスクをつけた野原は、咳をしながらドアを開けた。
顔が赤い。熱があるのだろう。
「大丈夫か? 野原。ほら、缶詰。開けてやるから食べろ。どうせおまえ、なにも食べてないだろ」
「まじ!? ちょうど腹減って、這ってでもコンビニ行こうとしたところだったんだよ!」
「まさか何も食べてないのか?」
「おう」
なぜか自信たっぷりに、野原は胸をはる。
そんなことだろうとは思っていたが、別に褒めることではないだろう。
永劫はあきれて、ビニール袋のなかに入っている桃の缶詰をとりだして、狭いキッチンを勝手につかう。
「なになに? 何か作ってくれんの?」
「いいから寝てろ。って、米もないのか……」
「ずっと寝てたからなぁ」
炊飯ジャーのなかには、米は炊かれていなかった。
冷蔵庫を開けてみても、缶チューハイが並べてあるだけだ。何もない。
これでよく生活できているものだ。
「桃缶開けて食べてろ。買い出し行ってくるから」
「悪いなあ。永劫」
数分もしないうちに、再び外に出る。外は、晩春にしては涼しかった。コンビニは、ここから歩いて数分の距離だ。
ゆっくりと歩く。
葉ずれの音がきこえてくる。
かすかな音。
昼間降っていた雨はあがり、ところどころに水たまりができている。
「……」
空が青い。とても。そして、夏になればもっと青さが深まり、そして広くなってゆくのだろう。
夏の空はとても広いから。
わすれたことはない。
空がそこにあることを。あのひとが、その下にいるということを。
コンビニで、卵とオレンジ、そしてレトルトの粥を買った。レシートはもらわなかった。
ビニール袋のこすれあう音がすぐ近くで聞こえる。
だれかが通り過ぎた。
かすかな風を切る音。
ふいにうしろを振りかえる。
髪を染めた男の人が、通り過ぎていった。
けれど、明宜より髪の色が暗い。
そっと、自嘲する。
あの人ではないと分かっている。だから、かなしいことはない。さみしいこともない。
いちばん辛いのは、あの人だ。永劫ではない。
晩春の生ぬるい風。その風が永劫のほおを撫でる。
一瞬、目をとじた。
みずみずしい、葉の色。あたたかい花の色が、そっと瞼の裏を駆けぬけるようにうかぶ。
そっと目を開けた。
腕時計を見ると、野原のアパートを出てから20分もたっていた。
急いでアパートにもどり、部屋に勝手に入る。
ベッドのなかにもぐり込んでいる野原をそのままにしておいて、レトルトの粥をあたためる。
その間に、オレンジを切る。
フレッシュな香りが、キッチンを満たす。
オレンジを皿に盛りつけ、あたたまった粥に卵をいれて、卵がゆにした。
「野原」
「んん……」
不機嫌そうなうめき声。それでも、分かっているのかゆっくりと起き上がってみせた。
「うわ、いいにおい」
「卵がゆとオレンジだ。食べられるぶんだけ食べとけ。多めに作っておいたから、腹減ったら食べろ」
「まじありがとう! 永劫、おまえ、気が利くなあ!」
「じゃあ、俺帰るから。八木も心配していた。はやくよくなれよ」
「……あのさ。永劫」
野原は、机のうえに置かれた料理を見下ろしながら、ベッドの端にすわった。
そのことばに、ドアのノブをひねろうとした永劫の手がとまる。
「おまえ、元気なくなったよな。なんていうか、心ここにあらずっていうか」
「……心配させていたなら謝るよ。でも、大丈夫だから」
「俺には言えないことか?」
「別に、そういうわけじゃない。ただ……」
「言って、楽になれることもあると思うんだ」
野原はマスク越しのかすれた声で呟く。膝に手をおいて、肩を落とすように呼吸をした。
ずっと、飲み込んできた。
そばにいないことが、こんなにも辛かったなんて、思いもしなかったのだ。
こころを半分、彼が持って行ってしまったように。
それでも、明宜は弱くてやさしいひとだ。誰のこころも、持っていかない。なぜなら、明宜ひとり分のこころだけで彼は精一杯なのだから。
半分持っていっても、永劫のこころを守ろうとするだろう。そして、自分の大切なこころを壊してしまうのだろう。
「……」
そっと、口をつぐむ。
「別に、無理して聞こうとするわけじゃないけどさ」
「いや……。そうだよな。そうかもしれない。俺、好きな人がいるんだ」
「は!? おい、聞いてねぇぞそんなこと!」
くぐもった声に、永劫は苦笑いをする。
言えるわけがない。
それでも、言いたいから好きでいるわけではないのだから。
「けど、一年前に……いなくなって」
「い、いなくなった!? なんだそれ、場所は知ってるのか? 会いに行けないのか、その人に!」
「場所はしらない。知ろうとおもわない」
「何でだよ?」
「あの人は、辛い思いをしている。だから、余計な詮索はしたくないんだ」
「おまえ、不安にならないのか?」
「……それは……不安だよ。けど、信じているから。手紙、もらったし……」
あの手紙は、永劫のつらさを確かに和らげてくれた。
けど、ほんとうは。
ほんとうの思いは、ちがう。
会いたかった。
「――そっか」
野原はため息のように呟いて、姿勢を正した。
マスクをしているせいで表情が分からないが、わずかに落ち込んだような表情をしている。
「俺、無理してないか気になってたんだ。そっか。偉いな。おまえは。信じることって、すごく不確かなことだから」
「……そうだな」
外を見上げる。
白藍の色が、雲をともなって広がっていた。




