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いちゞくの花  作者: イヲ
第十一花
67/68

-3-

「見舞い来てくれたのか」


 マスクをつけた野原は、咳をしながらドアを開けた。

 顔が赤い。熱があるのだろう。


「大丈夫か? 野原。ほら、缶詰。開けてやるから食べろ。どうせおまえ、なにも食べてないだろ」

「まじ!? ちょうど腹減って、這ってでもコンビニ行こうとしたところだったんだよ!」

「まさか何も食べてないのか?」

「おう」


 なぜか自信たっぷりに、野原は胸をはる。

 そんなことだろうとは思っていたが、別に褒めることではないだろう。

 永劫はあきれて、ビニール袋のなかに入っている桃の缶詰をとりだして、狭いキッチンを勝手につかう。


「なになに? 何か作ってくれんの?」

「いいから寝てろ。って、米もないのか……」

「ずっと寝てたからなぁ」


 炊飯ジャーのなかには、米は炊かれていなかった。

 冷蔵庫を開けてみても、缶チューハイが並べてあるだけだ。何もない。

 これでよく生活できているものだ。


「桃缶開けて食べてろ。買い出し行ってくるから」

「悪いなあ。永劫」


 数分もしないうちに、再び外に出る。外は、晩春にしては涼しかった。コンビニは、ここから歩いて数分の距離だ。

 ゆっくりと歩く。

 葉ずれの音がきこえてくる。

 かすかな音。

 昼間降っていた雨はあがり、ところどころに水たまりができている。


「……」


 空が青い。とても。そして、夏になればもっと青さが深まり、そして広くなってゆくのだろう。

 夏の空はとても広いから。

 

 わすれたことはない。

 空がそこにあることを。あのひとが、その下にいるということを。


 コンビニで、卵とオレンジ、そしてレトルトの粥を買った。レシートはもらわなかった。


 ビニール袋のこすれあう音がすぐ近くで聞こえる。

 だれかが通り過ぎた。

 かすかな風を切る音。

 ふいにうしろを振りかえる。

 髪を染めた男の人が、通り過ぎていった。

 けれど、明宜より髪の色が暗い。

 

 そっと、自嘲する。

 あの人ではないと分かっている。だから、かなしいことはない。さみしいこともない。

 いちばん辛いのは、あの人だ。永劫ではない。


 晩春の生ぬるい風。その風が永劫のほおを撫でる。

 一瞬、目をとじた。

 みずみずしい、葉の色。あたたかい花の色が、そっと瞼の裏を駆けぬけるようにうかぶ。

 そっと目を開けた。

 腕時計を見ると、野原のアパートを出てから20分もたっていた。

 急いでアパートにもどり、部屋に勝手に入る。

 ベッドのなかにもぐり込んでいる野原をそのままにしておいて、レトルトの粥をあたためる。

 その間に、オレンジを切る。

 フレッシュな香りが、キッチンを満たす。

 オレンジを皿に盛りつけ、あたたまった粥に卵をいれて、卵がゆにした。


「野原」

「んん……」


 不機嫌そうなうめき声。それでも、分かっているのかゆっくりと起き上がってみせた。


「うわ、いいにおい」

「卵がゆとオレンジだ。食べられるぶんだけ食べとけ。多めに作っておいたから、腹減ったら食べろ」

「まじありがとう! 永劫、おまえ、気が利くなあ!」

「じゃあ、俺帰るから。八木も心配していた。はやくよくなれよ」

「……あのさ。永劫」


 野原は、机のうえに置かれた料理を見下ろしながら、ベッドの端にすわった。

 そのことばに、ドアのノブをひねろうとした永劫の手がとまる。


「おまえ、元気なくなったよな。なんていうか、心ここにあらずっていうか」

「……心配させていたなら謝るよ。でも、大丈夫だから」

「俺には言えないことか?」

「別に、そういうわけじゃない。ただ……」

「言って、楽になれることもあると思うんだ」


 野原はマスク越しのかすれた声で呟く。膝に手をおいて、肩を落とすように呼吸をした。

 ずっと、飲み込んできた。

 そばにいないことが、こんなにも辛かったなんて、思いもしなかったのだ。

 こころを半分、彼が持って行ってしまったように。

 それでも、明宜は弱くてやさしいひとだ。誰のこころも、持っていかない。なぜなら、明宜ひとり分のこころだけで彼は精一杯なのだから。

 半分持っていっても、永劫のこころを守ろうとするだろう。そして、自分の大切なこころを壊してしまうのだろう。


「……」


 そっと、口をつぐむ。


「別に、無理して聞こうとするわけじゃないけどさ」

「いや……。そうだよな。そうかもしれない。俺、好きな人がいるんだ」

「は!? おい、聞いてねぇぞそんなこと!」


 くぐもった声に、永劫は苦笑いをする。

 言えるわけがない。

 それでも、言いたいから好きでいるわけではないのだから。


「けど、一年前に……いなくなって」

「い、いなくなった!? なんだそれ、場所は知ってるのか? 会いに行けないのか、その人に!」

「場所はしらない。知ろうとおもわない」

「何でだよ?」

「あの人は、辛い思いをしている。だから、余計な詮索はしたくないんだ」

「おまえ、不安にならないのか?」

「……それは……不安だよ。けど、信じているから。手紙、もらったし……」


 あの手紙は、永劫のつらさを確かに和らげてくれた。

 けど、ほんとうは。

 ほんとうの思いは、ちがう。

 会いたかった。


「――そっか」


 野原はため息のように呟いて、姿勢を正した。

 マスクをしているせいで表情が分からないが、わずかに落ち込んだような表情をしている。


「俺、無理してないか気になってたんだ。そっか。偉いな。おまえは。信じることって、すごく不確かなことだから」

「……そうだな」


 外を見上げる。

 白藍の色が、雲をともなって広がっていた。

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