-2-
あのとき、行けなんて言わなければ、あの人はどこかに行ってしまうことはなかったのだろうか。
わからない。
過ぎ去ってしまったことは、忘れるしかないというのだろうか。
(教えてほしい。)
(珊瑚さん、鈴鹿さん。あんたたちは今――、傷ついてはいないだろうか。)
鈴鹿も、一年前から姿を見せていない。
どこにいるのかは、聞かない。せめて、傷ついていないことを願う。
「大神君」
「はい」
「君に渡したいものがあるんだ」
「……え?」
教授はソファから立ち上がって、机のひきだしをそっと引いた。
永劫はただ、雨音を聞いている。ささやかだが、うつくしい音色だ。
明宜がいなくなった次の日、雨が降った。
そして、雨にゆるやかに打たれた花が咲いていた。黄色の、きれいな花が。
きれいなはずなのに、どこか哀しく見えた。
教授はふたたびソファにすわり、白い封とうを永劫にさしだす。
宛先も差出人も書いていない、ただ真っ白な封とう。
彼は軽やかな色のスーツを着ていて、その袖からは黒い腕時計がのぞいている。
その色と対照的な封とう。
ふいに、永劫の手がふるえた。
ベージュのカーディガンのポケットに入っているお守りを、無意識に握りしめる。
「君がしっているひとからだよ」
「……どういうことですか?」
若菜教授はただ、ほほえみを浮かべているだけだ。
受け取るのが、とても怖い。
だが、受け取らねばならないことは、明確だった。
永劫の手が封とうにふれる。そして、教授の指からそれをそっと抜き取った。
のりはついていない。
封とうを開き、そしてそのなかにある便せんを引き抜く。
便せんに書かれていた字は、見覚えがありすぎるほどだった。
「……どうして、教授が……」
「彼とはちょっとした知り合いでね。でも、中身はみていない。安心していいよ」
その文字は、なつかしく感じた。
文章の最後に「珊瑚明宜」と書かれていた。
けれど、永劫のなまえはなかった。ただ、「きみ」と書かれている。
そのやさしい文章は、永劫の身をいつも案じていること。
お守りは届いているだろうかと、心配していること。
いつまでも永劫のことを思っているということ。
そして心配しないで欲しい、と。
最後にそれだけ、添えられていた。
いつ帰るか、どこにいるのか。それは一切書いていなかった。
永劫はその便せんから目をはなし、呼吸をする。
なにかを考えることができなかった。
いや、なにを考えていいのかわからなかった。
「教授。珊瑚さんと会ったんですか?」
「……そうだね」
「元気でしたか」
「元気そうだったよ」
「そうですか……」
封とうに便せんを戻す。
喉の奥が熱かった。そっと目をとじる。
「君のことを、とても心配していたよ。僕は君のことを何となくしか知らなかったけれど、彼のことはよく知っているんだ。いつだったかな。とても、寒い日だった。彼がやってきたのは」
「冬、だったんですね。半年以上前だ……」
「そうだね。すぐに渡せたらよかったんだけど、珊瑚君が自分がいなくなって一年後に、って渡したんだ」
「傷ついていなかったですか」
「……おそらく、傷ついているだろう。あんなことがあったからね」
教授はおぼえていたのだ。
高桐美鈴が自死をえらんだことを。
そして明宜と鈴鹿の力のことを、知っているのだ。
「君は泣いていないんだね。ずっと。さみしかったのに」
「……教授は……」
「うん。分かっていたよ。だから、彼は僕に手紙をたくしたんだろう。でも、分かるよ」
「教授も、あの人を好きだったんですか」
そのことばは、思いもよらず、するりと出てきた。
彼は眼鏡のむこうのまぶたを伏せて、冷めてしまったコーヒーを飲みこむ。
そうして、そっとうなずいた。
「もう、過去のことだ。彼はとてもさみしい人だった。かなしい思いを自分だけで抱えきれないのに、人に求めようとしない人だった。そのことを分かっていたから、僕はあの人の力になりたかった。でも、もう彼のこころのなかには君がいたんだ」
「……」
「僕は諦めようとしたけれど、そうそうきっぱりと諦めることはできなかった。それでも、忘れられない人がいるのに、僕を愛してくれる人がいたんだ」
「結婚、したんですか」
「うん。もう、亡くなったけれどね。息子もいた。ふたりとも、もうこの世界のどこを探してもいない。遠い過去にしかいないんだ」
写真たての写真は、きっと教授の息子なのだろう。
まだ、ほんとうに幼かった。
それなのに、もうこの世にはいない。
「僕のことばかり話してしまってごめんね。でも、君でよかったとおもう。彼が……珊瑚君が愛したひとが、君で」
「……俺はそんな立派な人じゃないですよ」
「それでいいんだ。ひとはみんな、未熟だ。完璧なひとなんていない。珊瑚君は弱いひとかもしれないけれど、人間なんて、そんなものだよ。みんな弱い。でも、だからこそ強くなろうとすることができる。そうして生きていくんだ」
「そうかもしれません。俺は弱くてずるいけど、珊瑚さんはそれさえ許してくれた。きっと、それは珊瑚さんが掴んだ強さなんだと思う。俺、ずっと待っています。あのひとが帰ってくるときを」
「うん。そうしてくれるときっと、彼も喜ぶと思う。そして、忘れないでほしい。彼が帰る場所は君のとなりにあるということを」
はい。と永劫はうなずいた。
信じなければいけない、という義務感はなかった。
彼は帰ってくる。
教授の大切なひとはもう、還ってくることはないけれど、明宜は生きている。
おなじ空を見ることができている。
教授室から出て、永劫はひとりで中庭にでた。
花々がそっと開いている。
なまえも知らない花。
「……」
それでも、花にはなまえがある。永劫が知らないだけだ。
ずっと、待っていよう。
これは義務ではない。永劫のねがいであり、望みだ。
空を見上げた。
どこまでも、続いている。
あの人も、この空を見つめるだろうか。
地ばかりを見ないでいてくれるだろうか――。




