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彼女の姿が目に浮かぶ。ハリス・ツイードのストール。ベージュのコート。そこから伸びる、すらりとした足。
きれいな顔をしていた高桐美鈴。
彼女は、明宜のことをほんとうに好きだった。だから、この年まで結婚しなかった。だから、本当の意味で憎めなかった。その思いが、分かってしまっていたから。
だから自殺をしたと聞いたとき、心のなかに黒いカーテンが引かれていく感覚になった。
死んだら、おわりだ。
分かっていたのに。
――世界から切り離されたような感覚が、永劫を襲う。
「……野良神は、ひとの命を奪う」
枯れ果てた声が、永劫の耳にとどいた。うつむいている彼の表情は見えない。まるで自分に言い聞かすように、ゆっくりとくちびるを開けた。
「分かっていた、はずなんだけどな」
「……」
「俺は――」
「珊瑚さん。鈴鹿さんの所に行ってあげてください」
はじかれたように、明宜が自身の目を見つめる。その目は迷っていることを如実にあらわしていた。
いのちは、たったひとりのものではない。
自分のいのちは、じぶんのものだけではないのだ。
まわりのひとに、影響を及ぼす。死んでしまったら、遺されたひとは重たいものを背負わなければならない。
望まない、重たい十字架を。
「え……」
「きっと鈴鹿さん、自分を責めて苦しんでいると思うんです。だから、行ってあげてください。あの人の苦しみは、きっと珊瑚さんにしか分からないから」
うすい色をした虹彩がほんのすこしだけ、にじんだ。迷っている。たとえ、もう明宜が高桐美鈴のことを何とも思っていなかったとしても――いや、それはないのだろうが――こころに傷を負ったことはたしかだ。
「鈴鹿は、強いよ。俺よりも、何倍も」
「だめです」
「永劫くん――鈴鹿は」
まるで、すがるような目をしている。永劫はとっさに彼の腕をつかんで、そっとゆさぶった。
今、彼がいるべき場所はここではない。
鈴鹿彰比呂がいる場所だ。彼の居場所はわからない。それでも、ずっと一緒に育った幼なじみだ。
「俺なんかが行っても、あの人の力にはなれない。あの人の力になれるのは、あんただけだ」
「……」
「何を迷っているんだ? 珊瑚さん。たしかに俺はあんたの苦しみは分からない。俺はあんたじゃないから。高桐美鈴さんは亡くなった。それを受け流す強さは、あんたたちにはない」
永劫にはなにも分からない。
彼らのこころのなかも、真意も、分からない。それでも、彼らはやさしいひとたちだ。人のいのちをないがしろにしない。家族を亡くしたふたりは、いのちの重みを誰よりも分かっているはずなのだから。
「永劫くん、ごめんね」
「いいんです。珊瑚さんにとって、鈴鹿さんは特別な存在なんでしょう?」
彼はうすく頷いてシャツをひるがえし、玄関へと駆けていった。
あとに残ったのは、血だまりのように畳にひろがった、ワイン。そして、残酷な笑い声。拍手のおと。
「……」
永劫には、彼らの過去には触れられない。傷口には触れられない。こわいのだ。傷口に触れて、また新しい傷を増やしてしまうことが。
そっと背中をまるめて、ちらばったワインをふきんでぬぐう。
みるみるうちに白いふきんが血の色にかわってゆく。そっと目を閉じた。だれも、望んではいなかったのに。彼女が自死をえらぶことを。たとえそれが野良神のせいであったとしても。
「俺は、残酷なことを言っているのかな……」
誰もいない部屋で、誰にむかっていうでもなく。
高桐美鈴。
たしかに、苦手な女性だった。それでも、死ねばいいなどと思ったことはなかった。
不気味にもきこえる、笑い声。
背筋がつめたい。ぞっとする、と言ってもいいだろうか。背中に氷をじかに当てられたような、氷点下の温度。
「……」
腕がひきつる。
なにか、恐ろしいものが見つめているような。
バラエティのタレントの笑い声がきこえる。彼ら全員が永劫をつめたい目で見つめているような、馬鹿馬鹿しい幻想。
襖を思い切って見上げるが、そこにはなにもない。
自分がなにを怖がっているのかさえ分からず、ふたたびワインのシミを必死に拭き取った。
明宜はその日、帰ってくることはないだろう。
すでに日をまたいでいるが、こころのなかがざわざわとして落ち着かない。
布団のなかでもぞりと身動きする。
なぜだろう。
高桐美鈴が死んだ、という事実を受け入れられない。
会ったのは数回だ。
だが、なぜだろうか――。悲しい、という思いはあまりない。自分はつめたい人間なのだろうかとおもえるほどだ。
それでも、辛くて苦しい。そう思うことはある。
布団のなかで寝返りをしても、眠気が襲ってくれることはなかった。
――ただ、不安がこころを襲う。
高桐美鈴のことではない。
明宜のことだ。
もう帰ってこないような気が、する。
手の届かない場所に行ってしまう気も。
帰ってきてくれるのだろうか。
あの人は。
携帯に電話をする気がおきない。
きっと、でないだろうから。
鈴鹿のそばにいてほしいと、そう願ったのは自分だ。
それをむざむざこわしたくはない。
明宜はその日から、帰ってくることはなかった。




