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いちゞくの花  作者: イヲ
第十花
64/68

-3-

 彼女の姿が目に浮かぶ。ハリス・ツイードのストール。ベージュのコート。そこから伸びる、すらりとした足。

 きれいな顔をしていた高桐美鈴。

 彼女は、明宜のことをほんとうに好きだった。だから、この年まで結婚しなかった。だから、本当の意味で憎めなかった。その思いが、分かってしまっていたから。

 だから自殺をしたと聞いたとき、心のなかに黒いカーテンが引かれていく感覚になった。

 死んだら、おわりだ。

 分かっていたのに。

 ――世界から切り離されたような感覚が、永劫を襲う。


「……野良神は、ひとの命を奪う」


 枯れ果てた声が、永劫の耳にとどいた。うつむいている彼の表情は見えない。まるで自分に言い聞かすように、ゆっくりとくちびるを開けた。


「分かっていた、はずなんだけどな」

「……」

「俺は――」

「珊瑚さん。鈴鹿さんの所に行ってあげてください」


 はじかれたように、明宜が自身の目を見つめる。その目は迷っていることを如実にあらわしていた。

 いのちは、たったひとりのものではない。

 自分のいのちは、じぶんのものだけではないのだ。

 まわりのひとに、影響を及ぼす。死んでしまったら、遺されたひとは重たいものを背負わなければならない。

 望まない、重たい十字架を。


「え……」

「きっと鈴鹿さん、自分を責めて苦しんでいると思うんです。だから、行ってあげてください。あの人の苦しみは、きっと珊瑚さんにしか分からないから」


 うすい色をした虹彩がほんのすこしだけ、にじんだ。迷っている。たとえ、もう明宜が高桐美鈴のことを何とも思っていなかったとしても――いや、それはないのだろうが――こころに傷を負ったことはたしかだ。


「鈴鹿は、強いよ。俺よりも、何倍も」

「だめです」

「永劫くん――鈴鹿は」


 まるで、すがるような目をしている。永劫はとっさに彼の腕をつかんで、そっとゆさぶった。

 

 今、彼がいるべき場所はここではない。

 鈴鹿彰比呂がいる場所だ。彼の居場所はわからない。それでも、ずっと一緒に育った幼なじみだ。

 

「俺なんかが行っても、あの人の力にはなれない。あの人の力になれるのは、あんただけだ」

「……」

「何を迷っているんだ? 珊瑚さん。たしかに俺はあんたの苦しみは分からない。俺はあんたじゃないから。高桐美鈴さんは亡くなった。それを受け流す強さは、あんたたちにはない」


 永劫にはなにも分からない。

 彼らのこころのなかも、真意も、分からない。それでも、彼らはやさしいひとたちだ。人のいのちをないがしろにしない。家族を亡くしたふたりは、いのちの重みを誰よりも分かっているはずなのだから。


「永劫くん、ごめんね」

「いいんです。珊瑚さんにとって、鈴鹿さんは特別な存在なんでしょう?」


 彼はうすく頷いてシャツをひるがえし、玄関へと駆けていった。

 あとに残ったのは、血だまりのように畳にひろがった、ワイン。そして、残酷な笑い声。拍手のおと。


「……」


 永劫には、彼らの過去には触れられない。傷口には触れられない。こわいのだ。傷口に触れて、また新しい傷を増やしてしまうことが。

 そっと背中をまるめて、ちらばったワインをふきんでぬぐう。

 みるみるうちに白いふきんが血の色にかわってゆく。そっと目を閉じた。だれも、望んではいなかったのに。彼女が自死をえらぶことを。たとえそれが野良神のせいであったとしても。


「俺は、残酷なことを言っているのかな……」


 誰もいない部屋で、誰にむかっていうでもなく。

 高桐美鈴。

 たしかに、苦手な女性だった。それでも、死ねばいいなどと思ったことはなかった。


 不気味にもきこえる、笑い声。

 背筋がつめたい。ぞっとする、と言ってもいいだろうか。背中に氷をじかに当てられたような、氷点下の温度。


「……」


 腕がひきつる。

 なにか、恐ろしいものが見つめているような。

 バラエティのタレントの笑い声がきこえる。彼ら全員が永劫をつめたい目で見つめているような、馬鹿馬鹿しい幻想。

 襖を思い切って見上げるが、そこにはなにもない。


 自分がなにを怖がっているのかさえ分からず、ふたたびワインのシミを必死に拭き取った。




 明宜はその日、帰ってくることはないだろう。


 すでに日をまたいでいるが、こころのなかがざわざわとして落ち着かない。

 布団のなかでもぞりと身動きする。


 なぜだろう。

 高桐美鈴が死んだ、という事実を受け入れられない。

 会ったのは数回だ。

 だが、なぜだろうか――。悲しい、という思いはあまりない。自分はつめたい人間なのだろうかとおもえるほどだ。

 それでも、辛くて苦しい。そう思うことはある。

 布団のなかで寝返りをしても、眠気が襲ってくれることはなかった。


 ――ただ、不安がこころを襲う。

 高桐美鈴のことではない。

 明宜のことだ。

 もう帰ってこないような気が、する。

 手の届かない場所に行ってしまう気も。




 帰ってきてくれるのだろうか。

 あの人は。

 

 携帯に電話をする気がおきない。

 きっと、でないだろうから。

 鈴鹿のそばにいてほしいと、そう願ったのは自分だ。

 それをむざむざこわしたくはない。




 明宜はその日から、帰ってくることはなかった。


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