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「どうする、ワイン飲んでみる?」
「そりゃ飲みますよ。せっかくもらってきてくれたんですから」
いまだ開けていないボルドーのワインのコルクを開けようと永劫が手をのばすも、明宜がそれをさえぎった。
おもわず見上げるが、いつもどおりの笑みをうかべているだけだ。
「せっかくの誕生日なんだから、手酌なんてさせられないよ」
「ありがとうございます……」
新品の、水晶のように透明なワイングラスに、赤いワインがそそがれてゆく。血のような赤。
その真っ赤なワインの涙が、グラスのうちがわを流れていった。
永劫のワインを注ぎ終わると、わずかな沈黙がながれる。赤く、すきとおったしずく。それが、永劫の瞳にうつった。
「どうかした?」
「あ、いえ。珊瑚さんもどうぞ」
隣にあった明宜のグラスにもワインをそそぐ。
酒をそそぐのは、慣れている。去年の暑気払いのときも先輩たちのグラスにお酌をしていたし、祖父もときおり飲んでいたから、注ぐことも多々あった。
彼の新品のグラスにも、永劫とおなじ色のワインがそそがれた。
「ありがとう。やっぱり、永劫くんにお酌してもらうと嬉しいなぁ」
「ああ……そうですか」
「なんか冷たくない!?」
窓をちいさく叩く5月の風を、耳で感じた。
すっかり冷めてしまったオードブルにふたたび箸をつける。
とおくで、消防車のサイレンが鳴っていた。どこかで火事があったのだろうか。
ワインは、ほんのすこしだけ渋かったが、深く、良い意味での重たい味をしていた。
なにを思って、ここまできたのだろう。ワインも、自分自身も。
永劫は、望んで野良神に心を明けわたし、記憶をなくした。そこに意味などあったのだろうか。わからない。
ただ、辛かったからだけなのだろうか?
どこかで、パッヘルベルのカノンの音がきこえた。
「……永劫くん、ごめん。ちょっと、テレビつけていい?」
「え? あ、はい」
はっと明宜の顔をみあげて、反射的にうなずいてみせる。
ちかくにあったリモコンでテレビをつけた。バラエティの番組の上に、ちかちかと白い文字が点滅している。緊急ニュース速報だった。
その流れていく文字に、永劫が持っていたワイングラスが、かたんと畳の上におちる。まるで、血がちらばったように。
黒い瞳がひどく見開かれ、くちびるからちいさな息がこぼれおちた。
「……高桐……?」
18時すぎに××ビルから飛び降りた女性は、高桐薬品の高桐美鈴さんと判明。
その白い文字が、タレントの笑い声にかすれる。
明宜の顔を見るのが怖い。
くちびるがふるえる。グラスは畳の上に転がり、やがて止まった。
「さんご、さん」
「……」
そっと、恐々と彼の顔を見る。その表情は何かがそげ落ちていた。
悲しみも憎しみも、なにもない。
ただ沈黙をまもって、くちびるを閉じているだけだ。
「……俺には、もう関係ないから」
彼の声は、ふるえていた。
その声のたよりない色は、永劫を苦しめる。迷子の子どものような、声。
「でも」
「……今さっき、鈴鹿からメールがあった」
「なん、て」
「緊急速報のとおりだよ。……高桐美鈴が、ビルから飛び降りた、と」
彼は冷静を装っているが、こころのなかは嵐のように荒れ狂っているのかもしれない。その証拠に、指先がしずかにふるえていた。
「……」
「――高桐美鈴は、野良神に憑かれていたらしい」
「え……」
「俺も、今知った。鈴鹿がこのあたりをうろついていたのも、高桐美鈴のなかの野良神を祓うためだった」
心臓が、どくどくと脈うっているのが聞こえる。
頭のなかが真っ白で、なにも考えられない。――だが、永劫自身よりも明宜のほうが、今混乱しているはずだ。ぐっと歯をかみしめて、明宜の隣にすわった。
「――俺は」
明宜の手は、きつく握りしめているせいで白く、痛々しいほどに染まっている。
「俺はまた、人を――」
「ちがう。あんたのせいじゃない!!」
すべては野良神のせいだ。
明宜のせいではない。
それでも――永劫のことばを、明宜に届けたかった。永劫ができることは、ただそれだけだ。
「あんたのせいじゃ、ない……」
白く染まっている手に、そっとふれる。ひどくつめたかった。今までふれたなかでも、ずっとずっと冷たかった。
彼のこころは、壊れそうにひびわれている。
自責と、後悔。
それが、こころを突き刺している。
「……きみが……」
ぎしり、と音がした。
彼の手がきしむほど握りしめた音。
うすい髪の色が、するりとほおを撫でる。
「きみが、いてくれれば……俺はなにもいらない。逃げてるつもりじゃないんだ。高桐美鈴のことは、俺は――なにも思っていなかった。いや、なにも感じていなかったと言うべきなのかもしれない」
「……」
「あの頃の俺は、風の音も、葉がかさなる音も、なにも聞こえていなくて、光も闇もなにも感じていなかった。だから、そのなかで会った女も、俺はどうでもよかった。どうでもよくて、どうせ通り過ぎるだけの存在だと思っていた」
でも、と明宜は顔をあげ、永劫にほほえみかけた。
今は笑うことなどできないと思っていたのに。無理に笑っていると言うことを知っていた。
「笑わなくていい。泣いたっていい。俺は、あんたの心を守るって決めた、から……」
そう言う自分が泣きそうだったことが、すこし腹立たしかった。




