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いちゞくの花  作者: イヲ
第十花
63/68

-2-

「どうする、ワイン飲んでみる?」

「そりゃ飲みますよ。せっかくもらってきてくれたんですから」


 いまだ開けていないボルドーのワインのコルクを開けようと永劫が手をのばすも、明宜がそれをさえぎった。

 おもわず見上げるが、いつもどおりの笑みをうかべているだけだ。


「せっかくの誕生日なんだから、手酌なんてさせられないよ」

「ありがとうございます……」


 新品の、水晶のように透明なワイングラスに、赤いワインがそそがれてゆく。血のような赤。

 その真っ赤なワインの涙が、グラスのうちがわを流れていった。

 永劫のワインを注ぎ終わると、わずかな沈黙がながれる。赤く、すきとおったしずく。それが、永劫の瞳にうつった。


「どうかした?」

「あ、いえ。珊瑚さんもどうぞ」


 隣にあった明宜のグラスにもワインをそそぐ。

 酒をそそぐのは、慣れている。去年の暑気払いのときも先輩たちのグラスにお酌をしていたし、祖父もときおり飲んでいたから、注ぐことも多々あった。

 彼の新品のグラスにも、永劫とおなじ色のワインがそそがれた。


「ありがとう。やっぱり、永劫くんにお酌してもらうと嬉しいなぁ」

「ああ……そうですか」

「なんか冷たくない!?」


 窓をちいさく叩く5月の風を、耳で感じた。

 すっかり冷めてしまったオードブルにふたたび箸をつける。

 とおくで、消防車のサイレンが鳴っていた。どこかで火事があったのだろうか。


 ワインは、ほんのすこしだけ渋かったが、深く、良い意味での重たい味をしていた。

 なにを思って、ここまできたのだろう。ワインも、自分自身も。

 永劫は、望んで野良神に心を明けわたし、記憶をなくした。そこに意味などあったのだろうか。わからない。

 ただ、辛かったからだけなのだろうか?


 どこかで、パッヘルベルのカノンの音がきこえた。


「……永劫くん、ごめん。ちょっと、テレビつけていい?」

「え? あ、はい」


 はっと明宜の顔をみあげて、反射的にうなずいてみせる。

 ちかくにあったリモコンでテレビをつけた。バラエティの番組の上に、ちかちかと白い文字が点滅している。緊急ニュース速報だった。

 その流れていく文字に、永劫が持っていたワイングラスが、かたんと畳の上におちる。まるで、血がちらばったように。

 黒い瞳がひどく見開かれ、くちびるからちいさな息がこぼれおちた。


「……高桐……?」


 18時すぎに××ビルから飛び降りた女性は、高桐薬品の高桐美鈴さんと判明。


 その白い文字が、タレントの笑い声にかすれる。

 明宜の顔を見るのが怖い。

 くちびるがふるえる。グラスは畳の上に転がり、やがて止まった。


「さんご、さん」

「……」


 そっと、恐々と彼の顔を見る。その表情は何かがそげ落ちていた。

 悲しみも憎しみも、なにもない。

 ただ沈黙をまもって、くちびるを閉じているだけだ。


「……俺には、もう関係ないから」


 彼の声は、ふるえていた。

 その声のたよりない色は、永劫を苦しめる。迷子の子どものような、声。


「でも」

「……今さっき、鈴鹿からメールがあった」

「なん、て」

「緊急速報のとおりだよ。……高桐美鈴が、ビルから飛び降りた、と」


 彼は冷静を装っているが、こころのなかは嵐のように荒れ狂っているのかもしれない。その証拠に、指先がしずかにふるえていた。


「……」

「――高桐美鈴は、野良神に憑かれていたらしい」

「え……」

「俺も、今知った。鈴鹿がこのあたりをうろついていたのも、高桐美鈴のなかの野良神を祓うためだった」


 心臓が、どくどくと脈うっているのが聞こえる。

 頭のなかが真っ白で、なにも考えられない。――だが、永劫自身よりも明宜のほうが、今混乱しているはずだ。ぐっと歯をかみしめて、明宜の隣にすわった。


「――俺は」


 明宜の手は、きつく握りしめているせいで白く、痛々しいほどに染まっている。


「俺はまた、人を――」

「ちがう。あんたのせいじゃない!!」


 すべては野良神のせいだ。

 明宜のせいではない。

 それでも――永劫のことばを、明宜に届けたかった。永劫ができることは、ただそれだけだ。


「あんたのせいじゃ、ない……」


 白く染まっている手に、そっとふれる。ひどくつめたかった。今までふれたなかでも、ずっとずっと冷たかった。

 彼のこころは、壊れそうにひびわれている。

 自責と、後悔。

 それが、こころを突き刺している。


「……きみが……」


 ぎしり、と音がした。

 彼の手がきしむほど握りしめた音。

 うすい髪の色が、するりとほおを撫でる。


「きみが、いてくれれば……俺はなにもいらない。逃げてるつもりじゃないんだ。高桐美鈴のことは、俺は――なにも思っていなかった。いや、なにも感じていなかったと言うべきなのかもしれない」

「……」

「あの頃の俺は、風の音も、葉がかさなる音も、なにも聞こえていなくて、光も闇もなにも感じていなかった。だから、そのなかで会った女も、俺はどうでもよかった。どうでもよくて、どうせ通り過ぎるだけの存在だと思っていた」


 でも、と明宜は顔をあげ、永劫にほほえみかけた。

 今は笑うことなどできないと思っていたのに。無理に笑っていると言うことを知っていた。


「笑わなくていい。泣いたっていい。俺は、あんたの心を守るって決めた、から……」


 そう言う自分が泣きそうだったことが、すこし腹立たしかった。

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