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いちゞくの花  作者: イヲ
第九花
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-1-

 しあわせに慣れてはいけない。

 いつ、なんどきそれが手のひらからこぼれ落ちるかわからないからだ。そのとき、せめて後悔しないようにしなければならない。

 誰が言ったのか忘れてしまったが、たしかにそう言ったひとがいた。

 

「――……」


――だから言っただろう。


 足と手は、力なく投げ出されている。

 

――だから、言っただろう。おまえは、人を愛せない。生まれる前から、そう決められていたのだ。


 黒い髪が水にぬれたように散らばり、その目はうつろに開いている。

 くちびるからは一滴血がながれ、床を汚していた。


――おまえのせいだ。




 慣れてはいけない――。



 目を思い切り開いたせいで、眼球が痛む。

 そうして、自分が夢を見たことに驚愕した。今年に入って二回目だ。


「……忘れていた、わけじゃないんだけどね……」


 ため息をはき出す。そうして今、自分が泣いていることに気づく。そうだ。忘れていたわけではない。

 ずっと思ってるだけでよかった。

 それだけで、満足だった。


 だからこそ、守る、と。


 人を愛してはいけない。おまえは、依代なのだから、という言葉は何度胸中で繰り返しただろう。

 三十七年生きてきて、一人も愛さなかったのかと問われれば、否と応える。

 愛してはいけない、好きになってはならないと、両親や使用人から言われ続け、心の奥底から自分は「人を愛せない人間」だと思い込まされた。

 その両親たちへの反発心か、明宜はそれこそ「とっかえひっかえ」の状態だったが、それもいずれはむなしいものと気づかされたのち、残ったのはただのうつろだ。何も残らない。人を愛しても、好きになったとしても、それはなんの利点にもならないのだと。


「珊瑚さん」


 襖のむこうがわから、声が聞こえる。

 自分を今の世につないでくれている、声。


「朝ですよ」

「うん」


 それは大げさでも何でもない。

 ほんとうの、まことの心だからだ。


――それでも、手がふるえている。

 怖い。

 彼をなくすことが、なによりの恐怖だ。

 男だとか、女だとかは関係ない。彼が彼であったからだ。

 そのやさしい体温も、やさしい声も、きれいなことばも。

 そのすべてを、自分のものにしたいなど、と――。失笑する。



「珊瑚さん?」


 いつまでたっても出てこない明宜を不審がったのか、襖が開く。すでに身支度をすませている永劫は、あきれた顔で「まだ布団の中に入ってる」とため息をはき出した。


「いや、ちょっとね」

「ちょっとねじゃありません。あんたまた、――」


 黒い目が、うっすらとほそめられる。

 そうして、よけいあきれたように自身の頭を掻いた。


「夢でもみたんですか」

「ええ? 分かっちゃう?」

「分かりますよ」


 襖を後ろ手でしめ、明宜のとなりにすわる。


「だってあんた、辛そうな顔してるから」

「そうかなぁ」

「そうですよ。前、夢を見たときと同じような顔をしてるし、疲れたような顔もしてる」


 明宜のほうを見ずに、どこか違う方向を見ながらつぶやいた。

 彼は、なにごとも見通してしまう目を持っている、とおもう。隠し事など、できやしない。


「分かっちゃうもんだね。きみには。鈴鹿でさえ分からなかったのに」

「鈴鹿さんですか?」

「そうだよ。昔、いやな夢を見ても、鈴鹿は気づかなかった」

「それは違うと思いますよ」


 永劫はきっぱりと否定し、ようやく明宜に目をあわせた。その目はそのままの真実をうつしている。


「たぶん、鈴鹿さんは気づいていたはずです。あんたとあの人は平等なんですから。鈴鹿さんに心配されても、むずがゆいでしょう」

「まあ、たしかに」

「そういうのも、やさしさだと思います」

「――うん」


 たしかに、鈴鹿は人の思いや気持ちに敏感な分類にはいるだろう。

 明宜が夢を見た日は、表面だけはいつもの表情をしていたし、誰にも気づかれないだろうと思っていた。そしてそれは本当に誰も気づかなかったのだ。

 ひとりきりだとそう理解していても、人間はたぶん無意識のうちにつながりを望んでしまうものかもしれない。

 全人類そうではなくても、すくなくとも明宜はそうだった。


「もしかして珊瑚さん、朝が弱いのって」

「ん?」

「……夢を、見られないからですか」

「うーん……」


 たぶん、それはあたりだろう。

 夢を見られれば、たぶん楽になるのだろう。生まれてからまったく夢を見ない人間などいないのだから。


「そうかもね。考えたことないけど」

「……夢を見られないのって、辛くないですか」

「慣れちゃったよ。でも、たしかにちょっと辛いかもね。でも、添い寝してくれたらいい夢見られるかもしれないねぇ」

「は?」

「なんてね、冗談冗談」


 何言ってんですか、という言葉を待っていたが、それはなかった。

 押し黙っている永劫を見ると、まるで氷のように固まっている。


「な、永劫くん?」

「――ほんとうに、いやな夢を見ることはなくなるんですね?」


 それはわからない、と言葉にするのももったいない。

 明宜はちいさくわらって、「うん」とうなずいてみせた。


「きっとね」

「じゃあ、いいですよ。添い寝してあげます」

「え、まじ?」

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