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「いやはや、覚えていないとは……」
「まだ、彼も幼かったですから」
章介が入れた茶を飲みながら、明宜は呟く。
いや。
覚えていないのではない。
思い出そうとさせないのだ。彼自らの本能が、そうさせている。
「して、珊瑚さん。野良神さんは、どうなんですか?」
「はっきり言って、危ないですね。俺が施した結界もいつまでもつことやら……。ですが、安心してください。彼は、俺の命を懸けて守りますので。そう約束しましたからね」
「……ありがとうございます。本当に、申し訳ない。私が変わってやれればいいのですが、こんなおいぼれに野良神さんが憑くこともないでしょうから」
「彼は、そういう血筋に生まれたのです。遅かれ早かれ、こうなるはずだった。しかし、本当に運が良かった。こういうのを、めぐりあわせがよかった、というんですかね」
章介は静かに笑って、明宜を見据えた。
その眼は真剣で、理性と知性がともっている。
「私も、そろそろお役御免ですわ。永劫も、あんなに立派になった。そろそろお迎えが来てもおかしくはないでしょうな」
「そんなことはありません。まだまだ、章介さんには生きていてもらわなければ」
明宜が笑うと、彼も静かに笑った。
茶を飲み込むと、襖のむこうで音が聞こえてくる。
たぶん、準備ができたのだろう。
「じいちゃん、珊瑚さん、準備できたよ」
トランクを廊下に置いて、座敷に入ってくる。
ずいぶん早かった。今の大学生っていうものは、持っているものが少ないのだろうか。
「ずいぶん早かったじゃないか」
章介が驚いたように言っても、永劫は「そうかなあ」と首を傾けただけだ。
「別に、一か月くらい、どうということもないだろ。いるのは着替えと、パソコンと、あとは……読みたい本くらいしかないし」
「健全なんだか、不健全なんだか……」
「は?」
明宜がぼそりと呟いても、当の本人は何のことか分からないようだ。
――それにしても、よく信じたな。
はっきり言って、そう思わざるを得ない。
ふつう、神だ野良神だと言っても、信じない。そう、ふつうは。
それでも永劫は、あっさりと信じた。
思い当たるふしはあるにはあるが――。
「じゃ、そろそろお暇します。行こうか、永劫くん」
「あ、はい。じいちゃん。行ってきます。それと、お伊勢参り、気を付けて行ってきてよ」
「わかっているよ。珊瑚さん。どうぞ、永劫をよろしくお願いします」
深く頭をさげられ、明宜はゆっくりとうなずいた。
来た道を戻るのだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。
そろそろ暗くなってもいい時刻だ。
車は来た道のわき道を通り、人気のない、なだらかな坂道を上っている。
「あの、珊瑚さん。どこに行くんですか?」
「うん? ああ、うん。ちょっと、野暮用。きみが持っているお守りに、さらにプラスアルファをね」
そんな、相乗効果ばつぐん!みたいなことができるのだろうか。
やけに自信たっぷりに言われて、はいそうですか、としか言えない。
がたがたと揺れる車に乗って10分ほどたっただろうか、いかにも「出そうな」古い日本家屋についた。家のまわりは木で囲まれていて、鬱蒼としている。
昼間でも、これならば日に当たらないだろう。
はっきり言って、怖い。
情けないが、怖いものは怖いのだ。
「じゃ、出て」
明宜は車からさっさと外に出てしまった。
「え……あ、いや……その」
「どうしたんだい?ほら、早く」
不思議そうに首を傾けているが、車に一人残るのと、勇気を振り絞ってここから出る、のと天秤にかける。
答えは一人になるのが怖いから、という無様でまぬけで、情けないものになってしまった。
「だーいじょうぶだって。なーんも怖くないよー。ほーら、おいでー」
「うぐっ!」
明宜はにやにやといやらしく笑っている。
ばれている。というよりも、永劫が顔に出すぎている、というほうがあっているだろうが。
ちちち、とまるで猫を懐かせようとしている音までだして、馬鹿にされている。
「う、うううううるさい!」
思わずどもってしまった。
これでは「怖いです。」と豪語しているようなものだ。
若干、へこんだ。
にやにやと未だ笑っている明宜の横を歩いていると、周りの木々から鳥が飛び立つ音が聞こえる。
思わず肩がすくんだ。
なんでこう、自分は小心者なのだろうか。
幼いころから、ずっと「怖いもの」が嫌いだった。
何故かはわからないけれども。
古めかしい扉に手を当てると、明宜はチャイムもノックもしないで無遠慮に開けた。
「禮さーん。いるんでしょー?」
ぎしっという、踏み抜きそうな音をたてながら、明宜は家に入って行ってしまう。
禮、という人は名前からしても、男なのか女なのか分からない。
「はいはい、なんだい。そんな大声出さなくたって聞こえているよ」
奥から出てきたのは、驚くほど美人な女の人だった。
黒く長い、艶やかな髪を後ろで縛り、――巫女が着るような白衣と緋袴を着ている。
「おや」
禮は軽く目を見開くと、永劫を見やった。
そして険しい表情をするかのように、目を細める。
「おやおや、これはまた。厄介な野良神さんに魅入られちまったね」
男のような言葉遣いの禮は、にやりと人の悪そうな笑みをこぼした。