↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いちゞくの花  作者: イヲ
第七花
45/68

-7-

そばにいることが幸福だと感じるのなら、それを当たり前だと感じてはいけないと、おもう。



風呂上がりで、薄い髪の色が少しだけ濃く見えた。


「せっかく露天風呂があるのに、どうして部屋の風呂に入ったのさ」


どこか不機嫌そうにつぶやく明宜を無視して、紺地の浴衣の袷をあわせる。

浴衣は夏祭りの日くらいしか着ないのだが、今年はとうとう着ることはなかった。それでも、着方は覚えているものだ。


「……浴衣くらい、ちゃんと着られないんですか。あんたは」

「浴衣なんてふだん着ないからねぇ」

「衿がゆがんでるし、帯は片結びだし」

「えー。じゃあ、直してよ」


子供かあんたは、と言いそうになったが、仕方がない。

ここで食事をとる時に仲居さんが来るし、いやでも見られてしまうだろう。

だらしないと思われてもしかたがない。


「しかたないなぁ……」


ため息をはきだして、明宜が着ている浴衣の衿を直してやる。

帯は彼の体を抱き寄せるように腕をまわして、帯をきちんと見えるように直す。

すぐ目の前の体からは、石けんのにおいがした。リアルな香りに、息をおもわずつめる。


「どうしたの?」


含み笑いをしている明宜が憎らしい。

体を離そうとしても、腕を捕まれて離れられなかった。肩にちょうど額が当たって、石けんのかおりが直に香ってくる。


「離してください」

「だめ」

「だめって……何でですか」


二人きりだから別にいい、とは悔しくて言えない。

腕をつかまれたまま、まったく動けずにいることはたぶん明宜のせいなのだろうけど、にらみつけることもできない。


「だって、離れるじゃない」

「それは当たり前だろ」

「うん。だからね、当たり前だってことを、俺は当たり前にしたくない」

「……どういう意味ですか」


身体が、あたたかい。

湯につかったからだろうけど、彼の体温自体があたたかくなったような気がして、すこし胸が痛んだ。


「きみといる時間を、当たり前にしたくないんだ」

「それこそ、当たり前のことなんじゃないですか。だって、この時間はもう、一生こない。時間は命と同じです。尊いんですよ」

「そうだね。きみの言うとおりだ。だから、かな」


かすかに笑う気配を感じて、肩がすこしだけすくむ。

そうして腕を放されたが、それでも自分の身体は離れることを拒んだ。

拒んで――そして、額を肩に押しつける。

自分から身体をすりよせることは初めてだからか、どこかぎこちないと自分でもわかった。


「好きだよ」


のどの奥が痛む。目の奥が熱い。

泣くのだとわかった。どうして、こんなことを今言うのだろう。

ぐっと、奥歯をかみしめる。


たぶんこの人は、なにかを恐れている。

そのなにかは分からないがたぶん、この人は、「何か」が怖いのだろう。


「あんたは、何が怖いんですか。何をそんなに、怖がっているんですか」

「……きみには、隠し事ができないな」


かすかな笑声。

なにか、思い詰めたような。明宜の肩に押しつけたままの額。身体を寄り添わせたまま、明宜の背に腕を回した。

湯冷めをしてしまったように、すこしだけ冷たい。


「あのね。前言ったでしょ。俺は必要がなかった子供だって。何の力もなかった子供だった。だから、俺はずっと卑下してきた。俺なんかいてもいなくても同じだって。実際、そうだったんだろうね。でも、きみがそれを払拭してくれた」

「……別に、俺は」


覚えていないことだ、と口を挟もうとしたが、やめた。

彼にとってはどうでもいいことなのだ。

覚えていようといまいと、どっちでも。

それが事実なのだから。


「払拭してくれたから、俺は今生きている。でも、家族に言われた言葉は決して消えない。だから、人を信じることをやめた。希望も、未来もすべて信じることをやめたんだ。俺はね」

「それは、……あんたは」

「誤解しないでほしい。きみを好きだという思いは、それだけは本物だ」

「だけ、って」

「俺はすべてを欺いてきた。自分の心もすべて。だから、自分の気持ちが本物なのか嘘なのかさえ、分からなくなっていたんだ」


すうっと心の奥が冷えてゆくのを感じる。

彼自身の心が、悲鳴をあげているようにも感じた。

ただくちびるから悲鳴をあげて、助けを求めているようにも。


「あんたは」


せめて、あたためられたなら。


「俺が触れているのは、あんただ。ほかの誰でもない、珊瑚明宜だよ」

「うん」

「あんたが信じないっていうなら、俺が信じる。あんた自身のことも、あんたの心も、心に負った傷も、すべて」

「――うん」

「あんたの嘘も本当も、ぜんぶ俺が背負う」


明宜の背に爪をたてる。


「あんたが、俺の命を守ってくれるぶん、俺はあんたの心を守ってみせるよ」

「永劫くん」


くちもとをゆるめ、「俺の本当だ」とささやく。

信じる信じないではない。

これは本心で、そして自分の本能だ。


「――あんたのことが好きだから」


本心で、本能、なのだ。


「なんか、さ、あんたの生身の心を初めて知ったような気がしたよ」

「だましてたみたいで、ごめんね。これが俺の本当」


幻滅したかな、と呟いたが、永劫はそっとかぶりを振った。



「俺はあんたを信じてるから」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。