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そばにいることが幸福だと感じるのなら、それを当たり前だと感じてはいけないと、おもう。
風呂上がりで、薄い髪の色が少しだけ濃く見えた。
「せっかく露天風呂があるのに、どうして部屋の風呂に入ったのさ」
どこか不機嫌そうにつぶやく明宜を無視して、紺地の浴衣の袷をあわせる。
浴衣は夏祭りの日くらいしか着ないのだが、今年はとうとう着ることはなかった。それでも、着方は覚えているものだ。
「……浴衣くらい、ちゃんと着られないんですか。あんたは」
「浴衣なんてふだん着ないからねぇ」
「衿がゆがんでるし、帯は片結びだし」
「えー。じゃあ、直してよ」
子供かあんたは、と言いそうになったが、仕方がない。
ここで食事をとる時に仲居さんが来るし、いやでも見られてしまうだろう。
だらしないと思われてもしかたがない。
「しかたないなぁ……」
ため息をはきだして、明宜が着ている浴衣の衿を直してやる。
帯は彼の体を抱き寄せるように腕をまわして、帯をきちんと見えるように直す。
すぐ目の前の体からは、石けんのにおいがした。リアルな香りに、息をおもわずつめる。
「どうしたの?」
含み笑いをしている明宜が憎らしい。
体を離そうとしても、腕を捕まれて離れられなかった。肩にちょうど額が当たって、石けんのかおりが直に香ってくる。
「離してください」
「だめ」
「だめって……何でですか」
二人きりだから別にいい、とは悔しくて言えない。
腕をつかまれたまま、まったく動けずにいることはたぶん明宜のせいなのだろうけど、にらみつけることもできない。
「だって、離れるじゃない」
「それは当たり前だろ」
「うん。だからね、当たり前だってことを、俺は当たり前にしたくない」
「……どういう意味ですか」
身体が、あたたかい。
湯につかったからだろうけど、彼の体温自体があたたかくなったような気がして、すこし胸が痛んだ。
「きみといる時間を、当たり前にしたくないんだ」
「それこそ、当たり前のことなんじゃないですか。だって、この時間はもう、一生こない。時間は命と同じです。尊いんですよ」
「そうだね。きみの言うとおりだ。だから、かな」
かすかに笑う気配を感じて、肩がすこしだけすくむ。
そうして腕を放されたが、それでも自分の身体は離れることを拒んだ。
拒んで――そして、額を肩に押しつける。
自分から身体をすりよせることは初めてだからか、どこかぎこちないと自分でもわかった。
「好きだよ」
のどの奥が痛む。目の奥が熱い。
泣くのだとわかった。どうして、こんなことを今言うのだろう。
ぐっと、奥歯をかみしめる。
たぶんこの人は、なにかを恐れている。
そのなにかは分からないがたぶん、この人は、「何か」が怖いのだろう。
「あんたは、何が怖いんですか。何をそんなに、怖がっているんですか」
「……きみには、隠し事ができないな」
かすかな笑声。
なにか、思い詰めたような。明宜の肩に押しつけたままの額。身体を寄り添わせたまま、明宜の背に腕を回した。
湯冷めをしてしまったように、すこしだけ冷たい。
「あのね。前言ったでしょ。俺は必要がなかった子供だって。何の力もなかった子供だった。だから、俺はずっと卑下してきた。俺なんかいてもいなくても同じだって。実際、そうだったんだろうね。でも、きみがそれを払拭してくれた」
「……別に、俺は」
覚えていないことだ、と口を挟もうとしたが、やめた。
彼にとってはどうでもいいことなのだ。
覚えていようといまいと、どっちでも。
それが事実なのだから。
「払拭してくれたから、俺は今生きている。でも、家族に言われた言葉は決して消えない。だから、人を信じることをやめた。希望も、未来もすべて信じることをやめたんだ。俺はね」
「それは、……あんたは」
「誤解しないでほしい。きみを好きだという思いは、それだけは本物だ」
「だけ、って」
「俺はすべてを欺いてきた。自分の心もすべて。だから、自分の気持ちが本物なのか嘘なのかさえ、分からなくなっていたんだ」
すうっと心の奥が冷えてゆくのを感じる。
彼自身の心が、悲鳴をあげているようにも感じた。
ただくちびるから悲鳴をあげて、助けを求めているようにも。
「あんたは」
せめて、あたためられたなら。
「俺が触れているのは、あんただ。ほかの誰でもない、珊瑚明宜だよ」
「うん」
「あんたが信じないっていうなら、俺が信じる。あんた自身のことも、あんたの心も、心に負った傷も、すべて」
「――うん」
「あんたの嘘も本当も、ぜんぶ俺が背負う」
明宜の背に爪をたてる。
「あんたが、俺の命を守ってくれるぶん、俺はあんたの心を守ってみせるよ」
「永劫くん」
くちもとをゆるめ、「俺の本当だ」とささやく。
信じる信じないではない。
これは本心で、そして自分の本能だ。
「――あんたのことが好きだから」
本心で、本能、なのだ。
「なんか、さ、あんたの生身の心を初めて知ったような気がしたよ」
「だましてたみたいで、ごめんね。これが俺の本当」
幻滅したかな、と呟いたが、永劫はそっとかぶりを振った。
「俺はあんたを信じてるから」




