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いちゞくの花  作者: イヲ
第六花
35/68

-5-

呆れてくれたら、と思う。

それでも、見捨てられたくないとも思う。


「気づいた?」

「……」


札という札がべったり貼られている、見慣れた部屋。

明宜は安堵したような表情で、そっと息を吐いた。


「あの女の人は……」

「帰ったよ」


彼はそれ以上は言わなかった。

ただ、無意味に表情を崩したまま、「あのさ」と続ける。

頭がぼうっとして働かない。

何も考えたくない。

そう、脳が叫んでいる。


「きみ、何か勘違いしているよ」

「いいですよ。別にもう。遊び相手に気を遣わなくて」


どこからどう聞いても拗ねている子供の言い草だが、事実なのだし仕方がない。

たぶん自分は、口惜しかったのだろう。

裏切られたような思いになったのも、きっとそのためだ。


理由がない自分に、言い訳も何もあったものじゃないけど。


「遊び相手ってね。……きみは遊び相手に命張れるような人間だと思ってるの、俺を」

「知りませんよ」

「あの女とはもう、関係ないよ」

「知りません」

「どうしたら信じてくれるのかなぁ」


別に信じていないわけじゃない。

ただ、嫌気がさしただけだ。自分自身に。

理由も意味もない人間を愛する人間なんて、この世界にひとりもいないはずだ。

こうして卑下をしていても、誰も相手にしないことも知っている。

無意識のうちに。


「やっぱりあんたが、俺を好きになるなんてことないんです。なかったんです」

「どうしてそう思っちゃうのかな。俺はこんなにきみのことが好きなのに」

「信じてないわけじゃありません。ただ、いやなんです。俺は、俺が大嫌いだから、こんな俺を好きになってもらっても、困るんです。あんたには、ちゃんとした人を好きになってほしいから」


畳が軋む音が聞こえる。

そのまま去ってくれればいいのに。

この男は、――この大人は、去ることはしなかった。


「何度でも言うよ。俺は、きみが好きだ。きみがきみのことをどう思っていてもね」

「……。俺には生きている資格も意味もない。信じることも傷つくことも怖くて、心に蓋をして野良神を飼った。すべては俺のせいなんです。――どうして、あんたはそんなに」


そんなに優しいんですか。


心が苦しい。

野良神がまるで暴れまわっているかのように痛む。

体にかかっている薄い掛布団の上から、胸を掴んだ。そうしても痛みはひかないことは分かっているのに、無意味に拳を握りしめる。


「きみは、自分のことを卑下しすぎているよ。きみは生きている資格も意味もないって言うけど、俺にとってみれば、きみがいなければ今、俺はここにいないし、この世にもいなかった。きみが意味も資格もないって言うのなら、俺の存在を否定していることになるよ」

「――そんなことは」


ない、と言いそうになった口を、明宜がくちびるで塞ぐ。

かすかな吐息が聞こえて、思わず顔をそむけた。


「そんなことない、って思ってくれるならさ。全部じゃなくていいから、信じてよ」

「……」

「怖い?」


口惜しいが、頷く。

それを見送った明宜は、ちいさく微笑んで、「そうだね」と首をかたむけた。


「酷だった、かな」


どこか、傷ついた顔をする。そんな顔は見たくない。

それでもどこかゆるやかな笑みを浮かべて、永劫の頬をそっと撫ぜた。

反射的に肩が竦むも、明宜の愛撫は止まない。

頬に当てられた手はやがて首筋に、そして肩に触れてくる。


「……俺だってね、人間なんだ。好きな子の前だと、格好つけたくなるものなんだよね」

「いや、だからあんたは」

「高桐美鈴のことかい」


図星すぎて、口をつぐむ。

明宜はわずかに笑って手をこちらに伸ばし、髪に触れた。

やわらかくて、悲しいほどに冷たい体温を、皮膚で感じる。


「気になる?」

「……別に」

「あの女は、高桐薬品の令嬢でね。昔……18年くらい前かな。俺が大学生だった頃、付き合ってたんだ。結局別れたんだけどさ。まだ俺が好きだと思っているらしい」


それでも信じない?と、


いつから信じなくなったのだろう。

人を、人の思いを、心を、過去を、未来を。

まるで傷口を守るように、半ば反射的に信じなくなっていた。

何故かはわからない。

たぶん、喰われた記憶と思い出のなかにその答えがあるのだろうけど。


じりじりとした痛みが、心を襲う。

信じることが怖い。

(裏切られたこともないくせに。)


「うーん。固いねぇ。きみ。ほんとに」

「すいませんね」

「いいよ。そんなの。その方がほどきがいがあるしね」

「なんですか。ほどきがいって」

「俺はちゃんと待つからさ。でも、これだけは知っていてほしい。信じなくていいから。――俺は、きみのことが好きだよ。これからも、ずっと」


人の思いは、変わる。

人の思いは。

変わるし、変わらないものもある。

きっと。

そう、信じたいのに信じきれない自分がひどく憎いし、醜く思える。

実際そうなのだろうけど。


「……信じるのも信じないのもきみに任せる。今は、ゆっくり休んでくれ。野良神がすこし騒いだみたいだけど、もう大丈夫だろう?」


そういえば、もうぐちゃぐちゃとした気持ちはなくなっていた。

この人と話をしてからだ。すうっと気持ちが引いたのは。


頷くと、明宜はやさしい顔で微笑んだ。

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