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呆れてくれたら、と思う。
それでも、見捨てられたくないとも思う。
「気づいた?」
「……」
札という札がべったり貼られている、見慣れた部屋。
明宜は安堵したような表情で、そっと息を吐いた。
「あの女の人は……」
「帰ったよ」
彼はそれ以上は言わなかった。
ただ、無意味に表情を崩したまま、「あのさ」と続ける。
頭がぼうっとして働かない。
何も考えたくない。
そう、脳が叫んでいる。
「きみ、何か勘違いしているよ」
「いいですよ。別にもう。遊び相手に気を遣わなくて」
どこからどう聞いても拗ねている子供の言い草だが、事実なのだし仕方がない。
たぶん自分は、口惜しかったのだろう。
裏切られたような思いになったのも、きっとそのためだ。
理由がない自分に、言い訳も何もあったものじゃないけど。
「遊び相手ってね。……きみは遊び相手に命張れるような人間だと思ってるの、俺を」
「知りませんよ」
「あの女とはもう、関係ないよ」
「知りません」
「どうしたら信じてくれるのかなぁ」
別に信じていないわけじゃない。
ただ、嫌気がさしただけだ。自分自身に。
理由も意味もない人間を愛する人間なんて、この世界にひとりもいないはずだ。
こうして卑下をしていても、誰も相手にしないことも知っている。
無意識のうちに。
「やっぱりあんたが、俺を好きになるなんてことないんです。なかったんです」
「どうしてそう思っちゃうのかな。俺はこんなにきみのことが好きなのに」
「信じてないわけじゃありません。ただ、いやなんです。俺は、俺が大嫌いだから、こんな俺を好きになってもらっても、困るんです。あんたには、ちゃんとした人を好きになってほしいから」
畳が軋む音が聞こえる。
そのまま去ってくれればいいのに。
この男は、――この大人は、去ることはしなかった。
「何度でも言うよ。俺は、きみが好きだ。きみがきみのことをどう思っていてもね」
「……。俺には生きている資格も意味もない。信じることも傷つくことも怖くて、心に蓋をして野良神を飼った。すべては俺のせいなんです。――どうして、あんたはそんなに」
そんなに優しいんですか。
心が苦しい。
野良神がまるで暴れまわっているかのように痛む。
体にかかっている薄い掛布団の上から、胸を掴んだ。そうしても痛みはひかないことは分かっているのに、無意味に拳を握りしめる。
「きみは、自分のことを卑下しすぎているよ。きみは生きている資格も意味もないって言うけど、俺にとってみれば、きみがいなければ今、俺はここにいないし、この世にもいなかった。きみが意味も資格もないって言うのなら、俺の存在を否定していることになるよ」
「――そんなことは」
ない、と言いそうになった口を、明宜がくちびるで塞ぐ。
かすかな吐息が聞こえて、思わず顔をそむけた。
「そんなことない、って思ってくれるならさ。全部じゃなくていいから、信じてよ」
「……」
「怖い?」
口惜しいが、頷く。
それを見送った明宜は、ちいさく微笑んで、「そうだね」と首をかたむけた。
「酷だった、かな」
どこか、傷ついた顔をする。そんな顔は見たくない。
それでもどこかゆるやかな笑みを浮かべて、永劫の頬をそっと撫ぜた。
反射的に肩が竦むも、明宜の愛撫は止まない。
頬に当てられた手はやがて首筋に、そして肩に触れてくる。
「……俺だってね、人間なんだ。好きな子の前だと、格好つけたくなるものなんだよね」
「いや、だからあんたは」
「高桐美鈴のことかい」
図星すぎて、口をつぐむ。
明宜はわずかに笑って手をこちらに伸ばし、髪に触れた。
やわらかくて、悲しいほどに冷たい体温を、皮膚で感じる。
「気になる?」
「……別に」
「あの女は、高桐薬品の令嬢でね。昔……18年くらい前かな。俺が大学生だった頃、付き合ってたんだ。結局別れたんだけどさ。まだ俺が好きだと思っているらしい」
それでも信じない?と、
いつから信じなくなったのだろう。
人を、人の思いを、心を、過去を、未来を。
まるで傷口を守るように、半ば反射的に信じなくなっていた。
何故かはわからない。
たぶん、喰われた記憶と思い出のなかにその答えがあるのだろうけど。
じりじりとした痛みが、心を襲う。
信じることが怖い。
(裏切られたこともないくせに。)
「うーん。固いねぇ。きみ。ほんとに」
「すいませんね」
「いいよ。そんなの。その方がほどきがいがあるしね」
「なんですか。ほどきがいって」
「俺はちゃんと待つからさ。でも、これだけは知っていてほしい。信じなくていいから。――俺は、きみのことが好きだよ。これからも、ずっと」
人の思いは、変わる。
人の思いは。
変わるし、変わらないものもある。
きっと。
そう、信じたいのに信じきれない自分がひどく憎いし、醜く思える。
実際そうなのだろうけど。
「……信じるのも信じないのもきみに任せる。今は、ゆっくり休んでくれ。野良神がすこし騒いだみたいだけど、もう大丈夫だろう?」
そういえば、もうぐちゃぐちゃとした気持ちはなくなっていた。
この人と話をしてからだ。すうっと気持ちが引いたのは。
頷くと、明宜はやさしい顔で微笑んだ。




