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「禮の家に寄ろう」
車に乗り込んだ直後、明宜はそう呟いた。
「あの、どういう事なんですか? 家に行ったのがまずかったのかもしれない、って」
「きみ、気づいてなかったかい? 家のなかで、かなりの間ぼうっとしていたんだぜ」
ハンドルを握っている彼は、ひどく険しい顔をしている。
永劫にとっては何のことなのかまったく分からないが、そんな表情をしているという事は、とてもまずいことなのだろう。
「10分くらいかな。声をかけても何も答えなくて、結構焦ったんだけどさ。あの時、何を思ってた?」
「いえ、特に何も……」
「そう。――でも、言っていたよ。きみ。ごめんなさい、って」
「え」
そんなことを言っていただろうか。
まったく覚えていない。なぜ、謝っていたのだろうか。誰に、謝っていたのだろう。
「たぶん、思い出そうとしているんじゃないのかな。きみの心が」
「で、でも、野良神に喰われた記憶って、戻るものなんですか?」
「そりゃ戻るよ。野良神は心に住むものなんだ。離れたら、そのままご返却さ」
赤信号で止まり、明宜は胸ポケットのなかから煙草を取り出して、火をつけた。
――思い出そうとしている。
とても怖い。
10年前、両親が死んだとき、何があったのだろう。
「……俺は、どうして野良神に頼んだんだろう。食ってくれ、って」
「大丈夫」
明宜の横顔を見上げる。
彼は、知っている。永劫の過去を。なぜ、記憶を喰らわれてまで忘れようとしたのか。
それでも、永劫は聞かない。
自分の過去は、自分で思い出さなければならないのだから。
そこまで甘えられない。
「俺はきみの傍にいるから」
「……」
「きみが俺を支えてくれるなら、俺もきみを支えなきゃね」
胸がわずかに痛んだ。
この人のために、自身はなにができるのかさえ分からないというのに。
何もできないと言うことが、これほどまでに胸を痛ませるとは思いもしなかった。
「久しぶりね」
家に上がると、前と変わらぬ白衣に緋袴姿の禮が出迎えた。
「まだ、札も煙草も間に合っているようだけど。何の用?」
「香をね」
「ああ、香。なにかあったの?」
香。
前、夢見が悪かったときに明宜が焚いてくれた香だろうか。
別に、と明宜が答えると、禮は呆れたようにため息を吐き出して、奥の間から消えていった。
「珊瑚さん、あの香って何なんですか?」
「いい夢を見させてくれる香だよ。俺も時々使っているんだけどね」
言葉だけだとなんだか危ない薬のようなものだが、文句は言えまい。
それにしても、香も作っているのだろうか。禮は。
煙草も札も、香も作っているのだとしたら、本当に何者なのだろうか。禮という女性は。
「あの、珊瑚さん。禮さんって何者なんですか?」
「うーん。俺にもよくわからないんだけどね。代々、『そういう』仕事を受け継いでいるらしいんだよ。野良神関係の血筋だとは思うんだけど……」
「……へえ」
ふいに、自分のものではない携帯の着信音が座敷に響く。
明宜が携帯を取り出し、「ちょっとごめん」と言い、座敷から出ていった。
「はい、香――。あれ。明宜は?」
「あ、着信がきたみたいで」
「ふぅん。まあ、いいか。それにしても、相変わらずだねぇ」
「は?」
禮はあぐらをかいて、膝に肘を載せながらにやにやと笑った。
赤いくちびるから白い歯が見える。
「お人よしだろ? あいつ」
「……そうですね」
「それに顔もいいから、結構モテるんだよ。大学のときなんかそちゃもう沢山の女を侍らしててさぁ」
「へ、へえ……」
「でも、もうぜーんぶ清算しちゃって。ま、珊瑚の家だから結婚はできなかったみたいだけど。珊瑚の家はもうないんだから、結婚も自由なんだけどさ」
結婚はできる。
なのに、なぜ結婚をしないのだろう。
37歳だと言っていた。結婚適齢期というものが本当にあるのなら、そろそろやばいのではないだろうか。
「なんで、珊瑚さんは結婚しないんですか?」
「んー? さあ、なんでだろうね。あいつの胸中は分からないよ。誰にもね」
誰にも分からない。
あの人の心のうちは、誰にも。
たしかにそうだ。人の心は誰にも分からない。自分でさえも持て余しているのに、ほかの人間の胸の内側なんて、誰にも分からないのだから。
「でもさ、やわらかくなったよ。あいつ。前、大学の時なんてそりゃもう荒れててねぇ」
「……理由は、家にあるんですよね」
「うん。……ま、分からんでもないけどね、荒れるのも。私じゃ駄目だったんだよ」
「え……」
禮は初めて、どこか悲しそうに目を細めた。
――たぶん、彼女は明宜の事が好きだったのだろう。
じゃなければ、そんな目はできない。
「私じゃ、あいつの力にはなれなかった。いくらこんな力があったって、支えにはなれなかったんだ。だから、あんたが力になってやってよ。あんたならきっと、支えになれるから」
「……はい」
なぜ、こんなきれいな人を振ったのだろう。
たぶん、力があるのなら本当の意味で支えて、力になれると思うのに。
それだけじゃ駄目なのなら、永劫はきっと、もっと駄目だ。
力もなにもない。
ただの厄介者なのに。




