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認識してしまうのは恐ろしかった。
だが、一度思ってしまったことは取り消せない。
言葉も――思いも。
なかったことにはできないのだ。ひびが入ったガラスのように、元には戻らない。
「いい? じゃ、始めるわよ」
鈴鹿は女装姿ではなく、ただのシャツにジーンズ姿になっていた。
さすがに、野良神相手に女装だとまずいと思ったのだろうか。
明宜は、後ろに控えている。
花を敷き詰めた畳の上に座った永劫は、その視線を感じながらくちびるをすこしだけ噛んだ。
「澳津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、道反玉、死反玉、蛇比礼、鉢比礼、品物比礼、布瑠部由良由良止布瑠部」
朗読するように鈴鹿が唱えた直後、あの百合のにおいが辺りを包み込む。
もっとも、永劫にしか分からないらしいのだが。
むっとする百合のにおい。
やはり、気分のいいものではない。目をきつく閉じて、膝のうえに手を置く。
――ずしゃっ、
泥を畳のうえにまき散らしたような音がすぐ近くで聞こえた。
おもわず肩がびくりと竦む。
「なぜ、この子供に憑くのですか?」
――鈴鹿の声。
今まで聞いたこともないほどの、緊張に満ちた声が隣から聞こえた。
「憑くとはずいぶんな言い様だな。人間」
どこかからか、男のような女のような、老年のような若年のような声がする。
本当にどこからか分からない。
すぐ近くからのような気もするし、遠くからのような気もする。
ただ――ぞっとした。
これが、野良神の声。
だた、以前、野良神の声を聞くことは危険だと言っていたが、鈴鹿は耳を塞いでいないようだった。
――手が動かない。体も。
金縛りにあったかのように。だから、塞ごうにも塞げない。
「私はこの小僧が望んだからここにいるだけだ。出て行けといえば出ていくさ。この小僧の気はあまり美味くない」
「……質問を変えましょうか。いつからそこにいるんです?」
「そうさなぁ。もう10年もなるかもしれんなぁ。だが、出てきたきっかけは、つい最近よ」
10年。そんな前から、野良神は自分のなかにいたのか。
それに――出て行けと言えば出ていく。
出て行ってほしいと思っているのに、どうして出ていかないのだろう。それが、本当ならば。
「あなたがこの子供のなかに取り込まれたのは、なぜです?最後に一度、お聞かせください」
「小僧の両親が死んだときさ。そのときに、この小僧に呼ばれて来た。それだけだ。私は何もしていない。ただの一度も、この小僧に危害を加えたつもりはないんだがな」
まるで嘲笑する様に、野良神は呟いた。
――危害を加えたつもりはない。
たしかに、今まで気づかなかったくらいだ。本当に危害はなかった。
記憶を、喰われた以外では。
「記憶を喰ったのは、この小僧が望んだからだ」
「――……!」
自分自身が望んだ?
そんなはずは。大事だったはずの記憶も思い出も、すべて喰われて、それは自分が望んだ、ということなのだろうか?
本当に?
だが野良神がこんな嘘をついても、何の得にもならないだろう。
その直後、まるでなにかが焦げるような音をたてたあと、野良神の声は聞こえなくなってから、ようやく体がようやく動けるようになった。
「……俺が、望んで……記憶を、食わせた……?」
「永劫くん」
涼やかな声が、うしろから聞こえる。
まわりの花たちはすでに黒く焦げてしまっていて、見る影もなかった。
無様に震える手がおかしい。
「野良神は、決して嘘をつかない。嘘をついても何の得にもならないからね。奴らにとっては。だから本当のことなんだよ」
「――……10年前、何があったのか、あんたは分かっているんでしょう?」
自分はまったく覚えていない。
だが、明宜は知っているはずだ。10年前、なにがあったのか。
彼はただ口をつぐんで、目を伏せただけだ。
「……すみません。自分で思い出さなければ意味がないですよね。嫌な記憶だったんでしょうけど。忘れたいくらいなんだから。だから」
(だからこそ、あんたの所為にはしたくない。)
そう思う。
「――きみは、きみ自身で記憶を取り戻したいのかい?」
「はい」
「野良神は、出ていけというのならば、出ていくと言っていた。その意味は分かるね」
「――はい」
それはやはり、辛い記憶だったのだろう。
それでも今、大神永劫という人間は、完全な人間ではない。
記憶を自ら失ったということは、罪だ。
ぼろぼろになってしまっている菫や菖蒲を見ていると、すこしだけ心が痛んだ。
やさしい色をしている。
明宜の目は。
それに甘えられない。
好きだからこそ、――好きになってしまったからこそ、言い訳にしたくない。
この人の、これ以上の重荷になりたくはないのだ。
ただでさえ、自分の所為で倒れかけたこともあった。
だから、
だからこそ――。
「あんたは、優しいですね」
ぼんやりと呟く。
花を庭に供養の意味で(供養という言葉があっているのかどうか分からないが)埋め、明宜を見上げた。
照り付ける太陽はまだ下りはじめたばかりだ。
まだまだ、暑い。
「――優しくなんて、ないさ」




