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いちゞくの花  作者: イヲ
第四花
18/68

-1-

認識してしまうのは恐ろしかった。

だが、一度思ってしまったことは取り消せない。

言葉も――思いも。

なかったことにはできないのだ。ひびが入ったガラスのように、元には戻らない。


「いい? じゃ、始めるわよ」


鈴鹿は女装姿ではなく、ただのシャツにジーンズ姿になっていた。

さすがに、野良神相手に女装だとまずいと思ったのだろうか。


明宜は、後ろに控えている。

花を敷き詰めた畳の上に座った永劫は、その視線を感じながらくちびるをすこしだけ噛んだ。


「澳津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、道反玉、死反玉、蛇比礼、鉢比礼、品物比礼、布瑠部由良由良止布瑠部」


朗読するように鈴鹿が唱えた直後、あの百合のにおいが辺りを包み込む。

もっとも、永劫にしか分からないらしいのだが。

むっとする百合のにおい。

やはり、気分のいいものではない。目をきつく閉じて、膝のうえに手を置く。


――ずしゃっ、


泥を畳のうえにまき散らしたような音がすぐ近くで聞こえた。

おもわず肩がびくりと竦む。


「なぜ、この子供に憑くのですか?」


――鈴鹿の声。

今まで聞いたこともないほどの、緊張に満ちた声が隣から聞こえた。


憑く(・・)とはずいぶんな言い様だな。人間」


どこかからか、男のような女のような、老年のような若年のような声がする。

本当にどこから(・・・・)か分からない。

すぐ近くからのような気もするし、遠くからのような気もする。

ただ――ぞっとした。

これが、野良神の声。

だた、以前、野良神の声を聞くことは危険だと言っていたが、鈴鹿は耳を塞いでいないようだった。

――手が動かない。体も。

金縛りにあったかのように。だから、塞ごうにも塞げない。


「私はこの小僧が望んだからここにいるだけだ。出て行けといえば出ていくさ。この小僧の気はあまり美味くない」

「……質問を変えましょうか。いつから(・・・・)そこにいるんです?」

「そうさなぁ。もう10年もなるかもしれんなぁ。だが、出てきたきっかけは、つい最近よ」


10年。そんな前から、野良神は自分のなかにいたのか。

それに――出て行けと言えば出ていく。

出て行ってほしいと思っているのに、どうして出ていかないのだろう。それが、本当ならば。


「あなたがこの子供のなかに取り込まれたのは、なぜです?最後に一度、お聞かせください」

「小僧の両親が死んだときさ。そのときに、この小僧に呼ばれて来た。それだけだ。私は何もしていない。ただの一度も、この小僧に危害を加えたつもりはないんだがな」


まるで嘲笑する様に、野良神は呟いた。

――危害を加えたつもりはない。

たしかに、今まで気づかなかったくらいだ。本当に危害はなかった。

記憶を、喰われた以外では。


「記憶を喰ったのは、この小僧が望んだからだ」

「――……!」


自分自身が望んだ?

そんなはずは。大事だったはずの記憶も思い出も、すべて喰われて、それは自分が望んだ、ということなのだろうか?

本当に?

だが野良神がこんな嘘をついても、何の得にもならないだろう。


その直後、まるでなにかが焦げるような音をたてたあと、野良神の声は聞こえなくなってから、ようやく体がようやく動けるようになった。


「……俺が、望んで……記憶を、食わせた……?」

「永劫くん」


涼やかな声が、うしろから聞こえる。

まわりの花たちはすでに黒く焦げてしまっていて、見る影もなかった。

無様に震える手がおかしい。


「野良神は、決して嘘をつかない。嘘をついても何の得にもならないからね。奴らにとっては。だから本当のことなんだよ」

「――……10年前、何があったのか、あんたは分かっているんでしょう?」


自分はまったく覚えていない。

だが、明宜は知っているはずだ。10年前、なにがあったのか。

彼はただ口をつぐんで、目を伏せただけだ。


「……すみません。自分で思い出さなければ意味がないですよね。嫌な記憶だったんでしょうけど。忘れたいくらいなんだから。だから」


(だからこそ、あんたの所為にはしたくない。)

そう思う。


「――きみは、きみ自身で記憶を取り戻したいのかい?」

「はい」

「野良神は、出ていけというのならば、出ていくと言っていた。その意味は分かるね」

「――はい」


それはやはり、辛い記憶だったのだろう。

それでも今、大神永劫という人間は、完全な人間ではない。

記憶を自ら失ったということは、罪だ。


ぼろぼろになってしまっている菫や菖蒲を見ていると、すこしだけ心が痛んだ。


やさしい色をしている。

明宜の目は。

それに甘えられない。

好きだからこそ、――好きになってしまったからこそ、言い訳にしたくない。

この人の、これ以上の重荷になりたくはないのだ。

ただでさえ、自分の所為で倒れかけたこともあった。

だから、

だからこそ――。


「あんたは、優しいですね」


ぼんやりと呟く。

花を庭に供養の意味で(供養という言葉があっているのかどうか分からないが)埋め、明宜を見上げた。

照り付ける太陽はまだ下りはじめたばかりだ。

まだまだ、暑い。


「――優しくなんて、ないさ」

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