幼馴染を優先する夫を、三年間かけて使い切りました
「リリアが妊娠した。俺の子だ」
結婚三周年の記念日。
夫のアルベルトは、幼馴染を隣に座らせてそう宣言した。
「そうですか。おめでとうございます」
私は紅茶のカップを置いた。
「それでは、離婚の手続きに進みましょう」
「……は?」
夫が目を丸くした。
「俺はリリアを側室として迎えようと……」
「お断りします。離婚することは以前から決めておりましたので」
私は机から離婚合意書を取り出した。
すでに私の署名は済ませてある。
「あとは、あなたの署名だけです」
「待て! いつから準備していた!」
「三か月前です。領地再建事業の最終工程が完了したころですね」
「領地再建? 何の話だ!」
私は首をかしげた。
「私たちが結婚した目的のひとつでしょう?」
◇
私はエレノア。王都で交易商会を営む伯爵家の娘として生まれ、三年前、地方領主のアルベルト子爵と政略結婚した。
当時の子爵領は財政難だった。
先代の借金。荒れ果てた街道。商人が寄りつかない宿場町。
一方、私の実家の商会は、新しい交易路を求めていた。
子爵領を通れば、王都と西方の穀倉地帯を結ぶ輸送距離を大幅に短縮できる。
双方に利益のある結婚だった。
私は夫婦として協力し、領地を豊かにするつもりだった。
ところが、結婚から一週間後。
「今日はリリアと食事をする。夕食はいらない」
「承知しました」
「それから、あいつが新しいドレスを欲しがっていてな。領主家の予算から出しておいてくれ」
「私的な贈り物ですので、あなたの個人費用からお願いします」
「お前は冷たいな。リリアは俺の大切な幼馴染なんだぞ」
その後も夫は、何かにつけてリリアを優先した。
領地の視察を取りやめて観劇へ行き、商人との会食を欠席して買い物に付き合う。
ひと月後には、彼女を領主館に住まわせた。
「アルベルト様。私たちは夫婦として領地を経営していく約束だったはずです」
「領地のことはお前に任せる。俺はリリアの面倒を見なければならないんだ」
「そうですか」
私は理解した。
この人と夫婦としての信頼関係を築くのは無理だ。
ただ、それだけだった。
悲しくはない。悲しむほどの関係を築けていなかったからだ。
そこで私は、事業計画を変更した。
夫婦としての共同経営は不可能。
しかし、アルベルトは領主としての権限を持っている。
街道の整備許可、商業施設の建設許可、土地の長期賃貸契約。
領地再建には、まだ彼の署名が必要だった。
ならば、利用できる間は利用すればいい。
私は夫婦関係の改善を諦め、事業の整理を始めた。
◇
最初に取り組んだのは、資産の分離だった。
領地再建には、実家の商会が多額の資金を投じている。
離婚時に損失を出さないよう、商会が建設する倉庫や加工場は商会の所有とし、土地は長期賃借する。
一方、街道や橋、水路は領主家の資産として整備し、その費用は商会からの貸付金として記録した。
「アルベルト様。新しい倉庫の建設契約に署名をお願いします」
「また書類か?」
「はい。商会が建設費用を負担し、倉庫を所有する契約です」
「好きにしろ」
彼は内容も読まずに署名した。
「それより、リリアが王都へ行きたいと言っている。商会の馬車を用意してくれ」
「商会の馬車は業務用です。領主家の馬車をご利用ください」
「相変わらず融通が利かないな!」
私は微笑んだ。
「申し訳ありません」
謝罪に費用はかからない。
夫が幼馴染と遊んでいる間、私の仕事は順調に進んだ。
領主が経営に口を出さない。
事業責任者にとって、これほどありがたいことはない。
二年目には街道の通行量が増え、宿場町に店が戻り、領地の税収も回復した。
私は次の段階へ進んだ。
商会の倉庫には独立した管理人を置き、輸送契約は取引先と直接結ぶ。
農産物も生産者から買い付け、領主家を介さず販売する。
税金や土地の賃料は、もちろん契約どおりに支払った。
領主家の権利を侵害する必要はない。
ただ、領主家が経営に参加しなくても事業が回るようにしただけだ。
そして三年目。
大型倉庫と荷馬車の整備場が完成した。
これで、商会の事業は領主家から独立して運営できる。
残るのは貸付金の回収だけだ。
領地の税収があれば、契約どおり返済できる。
夫が私を必要とする理由は、まだある。
しかし、私が夫を必要とする理由は、もうない。
ちょうどそのころ、夫とリリアの肉体関係も確認できた。
私は証拠を弁護士に預け、離婚の準備を整えた。
あとは夫が切り出すのを待つだけだった。
その三か月後。
夫は幼馴染の妊娠を宣言した。
実に都合のよい時期だった。
◇
「つまり、お前は俺を利用していたのか!」
アルベルトが叫んだ。
「領地再建のために協力していただきました」
私は契約書を並べた。
「こちらが商会所有の施設一覧。こちらが土地の賃貸契約。そして、領主家への貸付金の残高です」
「何だ、この金額は!」
「街道と水路の整備費用です。すべて承認いただいております」
「こんな借金があるなんて聞いていないぞ!」
「毎月、会計報告をお渡ししておりました」
「俺は見ていない!」
「存じております」
夫が言葉を詰まらせた。
「今後の追加融資は行いません。商会所有の施設は、引き続き商会が運営いたします」
「それでは領地の事業を俺が自由に動かせないじゃないか!」
「はい。商会の事業ですので」
「領主は俺だぞ!」
「もちろんです。ただし、商会の資産を処分する権限はございません」
リリアが立ち上がった。
「そんなのおかしいです! 奥様は子爵家に嫁いだんでしょう? だったら商会の財産も子爵家のものでしょう!」
「いいえ。商会と領主家の財産は別です」
「でも、アルベルト様が領主なんですよ!」
「はい。領地の税収は領主家に入ります。そこから借入金の返済と設備の維持費を支払ってください」
私は帳簿を閉じた。
「現在の税収なら、適切に管理すれば問題ありません」
アルベルトが鼻で笑った。
「ほら見ろ。何も問題ないじゃないか」
「ええ。適切に管理すれば」
私は離婚合意書を差し出した。
「では、署名をお願いいたします」
◇
離婚はひと月後に成立した。
私は王都へ戻り、商会の経営に専念した。
領地の事業は支店長に任せ、契約どおりに継続する。
領主家への新たな融資だけを停止した。
それから二か月後。
『領主家の資金繰りが悪化しています』
支店長から報告が届いた。
原因は明白だった。
アルベルトは増加した税収を、すべて自由に使える金だと思っていた。
しかし実際には、借入金の返済や街道の維持費が必要だ。
そこへリリアとの盛大な結婚式、新しい衣装、宝飾品、宴会費用が加わった。
支出は、私が管理していたころの倍近くになっていた。
「予算を削減すれば、まだ立て直せるでしょう」
私はそう返事をした。
しかし夫は支出を減らさず、別の商人から借金をした。
その金で、さらに宴会を開いたという。
実に興味深い経営判断だった。
◇
半年後、アルベルトが商会を訪れた。
「エレノア! 金を貸せ!」
「融資のお申し込みですか? 事業計画書と返済計画書をご提出ください」
「そんなもの、あるわけないだろう!」
「では、お貸しできません」
「お前は俺の元妻だろう!」
「はい。元妻です」
「俺が困っているんだぞ!」
「現在の領主家には返済能力がありません」
「お前が貸さないから返済できないんだ!」
「借金を返すために、さらに借金をするのですか?」
夫は黙った。
「……リリアが、新しい宝石を欲しいと言って」
「購入しなければよかったのでは?」
「妊娠中なんだぞ! あいつを悲しませるわけにはいかないだろう!」
「そうですか」
「お前には分からないだろうな! 愛する女を喜ばせたい男の気持ちなんて!」
「ええ。ただ、ひとつだけ分かります」
私は微笑んだ。
「愛情で借金は返済できませんよ」
「この冷血女!」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「褒めていない!」
私は受付係を呼んだ。
「お客様がお帰りです。お見送りをお願いします」
◇
その後、領主家の財政は急速に悪化した。
アルベルトは税収を担保に借金を重ね、ついには返済が滞った。
さらに、借りた金の一部を街道修復費として帳簿に記載しながら、実際にはリリアの衣装や宝飾品に使っていた。
債権者たちの訴えを受け、王国の監査官が調査に入った。
そして、帳簿の改ざんが発覚した。
私は商会の債権者として、裁判に出席した。
「俺は知らなかった! 帳簿はすべて妻が管理していたんだ!」
アルベルトが叫んだ。
裁判官が尋ねた。
「前妻のことか?」
「そうだ!」
「問題の支出は、離婚成立後のものだ」
夫は黙り込んだ。
続いて、リリアが証言台に立った。
「私は何も悪くありません! アルベルト様が好きなものを買っていいって言ったんです!」
「では、会計担当者に虚偽の記録を作成させたのはなぜだ?」
「それは……」
「あなたの署名がある指示書が提出されている」
リリアの顔から血の気が引いた。
「だって……領主夫人として、きれいなドレスを着なければ……」
「領主夫人の衣装代を街道修復費に計上してよい理由にはならない」
判決が下された。
アルベルトは爵位を剥奪され、領地は王家の管理下に置かれた。
リリアは財産没収と三年間の禁錮刑。妊娠中のため、刑の執行は出産後まで延期された。
「いや……そんな……」
リリアはその場に崩れ落ちた。
アルベルトも呆然としていた。
私は判決を聞き終え、席を立った。
これで領主家に関する問題は解決した。
「エレノア!」
アルベルトが私を呼び止めた。
「お前……満足か?」
「何がでしょう?」
「俺たちがこんな目に遭って! さぞ嬉しいだろう!」
「いいえ。特に何も感じません」
「嘘をつくな! お前は俺を憎んでいるんだろう!」
「いいえ。まったく」
「俺が浮気したから、復讐したんだろう!」
私は首を横に振った。
「アルベルト様。私たちは政略結婚でした。私は夫婦として信頼関係を築くつもりでしたが、その前にあなたはリリアさんを選ばれました」
「それがどうした!」
「あなたを愛する機会がなかったのです」
夫が固まった。
「……何?」
「ですから、浮気を知っても悲しくありませんでしたし、怒りも感じませんでした」
「そんな……」
「ただ、共同経営者として不適格だと判断しました。それだけです」
「だったら、なぜ今まで俺を支えていた!」
「領地の再建に、あなたの領主権が必要だったからです」
「俺を……利用していたのか?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「おかげさまで、すべて使い終わりました。ありがとうございました」
アルベルトは口を開いたまま、動かなかった。
私は軽く頭を下げ、その場を後にした。




