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"砂上の夢" ルフス・トロガス

作者: 一生坊主
掲載日:2026/07/24

 砂は血をよく吸う。


 ルフス・トロガスが闘技場《アレーナ》についてまず覚えたのはそれだった。石造りの円形闘技場の中央に敷かれた砂。それは、血を吸うために用意された砂だった。試合が終わるたびに、奴隷たちが血を吸って黒く固まった砂を掻き出し、乾いた新しい砂を撒く。──だから、砂はいつも乾いていた。次の血を吸うために。


 ルフスは二十四だった。人間の若い男。剣闘士《グラディエーター》である。


 だが、彼は捕虜でも奴隷でもなかった。志願者だった。自らの意志でこの砂の上に立つことを選んだ。──そういう剣闘士をこの街では「志願剣闘士」と呼ぶ。

 彼らは、カトゥヴェリ荒域から捕獲された蛮族奴隷や戦争捕虜より一段上の扱いを受ける。だが、死の危険は変わらない。砂は志願者の血も奴隷の血も区別せず、同じように吸う。


 なぜ志願したのか。──答えは単純だった。借金だ。


 ルフスはレームの自由農民の子だった。父は市壁の外に小さな農地を持っていた。武装した自由農民。市民は自らの農地を耕し必要に応じて兵士として戦う。それが本来のレームの姿だった。──だが、その姿はこの百年で大きく変わってしまった。


 レームは連戦連勝の軍事国家になった。征服地から大量の奴隷を連れ帰り、貴族や富裕層はその奴隷を使って大規模な農業を始めた。安価な農産物が市場に流れ込み、従来の自由農民は価格競争で負けた。


 ルフスの父もその一人だった。


 ルフスは父のことをよく憶えていた。父は誇り高いレームの自由農民だった。「俺たちはこの国の背骨だ」と父はよく言った。「農地を耕し、いざとなれば剣を取る。奴隷でも貴族でもない自由な市民だ。──それがレームだ。それが俺たちの誇りだ」


 その誇りは嘘ではなかった。かつては、武装した自由農民こそがこの街を守り、この街を耕した。男も女も槍を取ることを当然と考えていた。それがレームの皆兵の文化だった。


 だが、その誇りは少しずつ蝕まれていった。


 レームが勝てば勝つほど、征服地から奴隷が流れ込んだ。貴族たちはその奴隷を使って広大な農園を営んだ。奴隷は賃金を要らない。奴隷には装備を伴う兵役の義務がなく、社会関係を構築するための資金の必要もない。

 だから、その作物は安かった。市場はその安い作物で溢れた。──ルフスの父のような、自分の手で農地を耕す自由農民が貧しくなるには十分だった。


 「おかしいだろう」と父は晩年、酒をあおりながら言った。「俺たちが命を賭けて戦争に行く。その戦争で連れてきた奴隷が俺たちの畑を潰すんだ。──俺たちは自分で自分の首を絞めてるんだ。勝てば勝つほど、貧しくなる。こんな馬鹿な話があるか」


 父は借金を重ねた。奴隷農園の安い作物に太刀打ちできず。土地を少しずつ手放し、それでも足りず。──そして、父が病で死んだとき、その借金だけがルフスに残された。誇り高い自由農民の成れの果てがそれだった。


 ルフスは父の言葉を憶えていた。『勝てば勝つほど、貧しくなる』──レームは勝ち続ける軍事国家だ。だが、その勝利は末端の自由農民を豊かにはしなかった。貴族と富裕層だけが肥え太り、自由農民は没落していった。ルフスの父のように。そして、ルフス自身のように。


 借金を返す道は少なかった。土地を売っても足りなかった。職業軍人になって海外の遠征に出るという道もあった。だが、それもいつ帰れるか分からない。帰れるかどうかも分からない。──皮肉な話だった。父を没落させたその征服戦争に、今度はルフス自身が身を投じるという道だ。


 そこで、ルフスは闘技場を選んだ。


 志願剣闘士は勝てば賞金を得る。勝ち続ければ、いつか自由と農地を得て、引退できると言われている。──強豪剣闘士は市民の人気を集め、自由と農地を得て引退する者もいると。


 ――その「者"も"いる」という言葉の本当の意味をルフスはまだ知らなかった。


ーーーーーーーーーーーーーー


 支配人のデキウス・アラトスは獣人の老人だった。


 歳は八十を超えている。獣人は人間より少しだけ長く生きる。デキウスはその長い生涯をこの闘技場の興行に捧げてきた。剣闘士の売買、育成、演目の差配。──最大二万人を収容するこの円形闘技場のあらゆる血の見世物を彼が組んでいた。


 ルフスが初めてデキウスに会ったとき、老人は彼を値踏みするように見た。まるで家畜を、あるいは道具を見るような目だった。


 「志願か」とデキウスは言った。「――借金だな。顔を見れば分かる」


 ルフスは答えなかった。


 「いいか、若いの」とデキウスは続けた。「お前がなぜここに来たかはどうでもいい。俺が知りたいのは一つだけだ。お前が客を沸かせられるか、それだけだ」「――民は血を見たがる。剣闘士は金《グロス》と栄光を欲しがる。俺はその両方に値をつけてやる」


 彼はルフスの腕を掴んだ。筋を確かめるように。


 「悪くない体つきだ」とデキウスは言った。「農民あがりは力と根性がある。だが、それだけでは勝てん。技を覚えろ。そして何より──客の心を掴め。客は強いだけの剣闘士には飽きる。物語を求めるんだ。負け続けた男が這い上がる物語。あるいは、憎まれ役が無双する物語。──お前はどんな物語になる? それを考えろ。それがお前の生き死にを決める」


 ルフスはその言葉の意味を、後で思い知ることになる。


 闘技場では剣闘士はただ戦うのではない。物語を演じるのだ。客が金を払って見に来る物語を。そして、その物語の結末が——生き残るか死ぬかが——客の気分次第で決まることもある。デキウスはその客の気分を操る興行師だった。


ーーーーーーーーーーーーーー


 ルフスの最初の試合はあっけなく終わった。


 相手は彼と同じような志願剣闘士だった。――借金を抱えて志願した若い男。

 二人ともまだ技をろくに知らなかった。ただ、必死に剣を振り回した。──ルフスの剣が相手の脇腹を裂いた。相手は砂の上に倒れた。


 なんとか勝った。


 だが、ルフスは勝利の喜びを感じなかった。


 倒れた相手はまだ死んではいなかった。脇腹を押さえて砂の上で呻いていた。──そして、客席が沸いた。幾千もの観客が口々に叫んだ。ある者は相手を殺せと叫んだ。ある者は助けろと叫んだ。──その生殺与奪は最終的に、興行の出資者かつ主催者の者に委ねられる。その日の主催者が親指をどちらに向けるか。それで倒れた男の生死が決まる。


 主催者は親指を下に向けた。


 殺せという合図だった。


 ルフスは凍りついた。


 「やれ!」と砂の外からデキウスの声が飛んだ。「殺せ。それが"客の望み"だ。──お前が殺さなければ、次はお前が殺される。この砂の上に情けは要らん!」


 ルフスの手が震えた。


 目の前に倒れた男がいた。自分と同じ借金を抱えた若い男。自分と同じように家族のためにこの砂に立った男。──その男を殺せと何千の観客が叫んでいる。娯楽として。見世物として。


 ルフスは目を閉じた。そして、剣を振り下ろした。


 ――砂がまた血を吸った。


 客席が沸いた。歓声が闘技場を揺らした。ルフスの勝利を讃える歓声。──だが、ルフスにはその歓声が遠くの雷鳴のように聞こえた。彼は砂の上に立ち尽くしていた。返り血を浴びて。自分が何をしたのかを噛みしめながら。


 これが闘技場だとルフスは思った。


 勝てば生きる。負ければ死ぬ。そして、勝った者は負けた者を殺す。客の娯楽のために。──自由と農地。その約束された報酬のために、彼は同じ境遇の男を殺した。


 砂を出るとき、ルフスは一人の男とすれ違った。


 背の高い痩せた男だった。青みがかった灰色の肌。頭部から小さな角が二本。──悪魔人《ダイモニオン》だった。この地では非常に珍しい種族だ。マナの希薄なこの大陸《ウェスト・ヤルアラム》では悪魔人《ダイモニオン》は十分な魔人化ができない。本来の高い魔力を発揮しきれない。だから、その数は極めて少ない。


 その稀な種族の男が剣闘士の装いをしていた。


 男はルフスを見た。その赤い目には、憐れみのような色があった。


 「初めての殺しか」と男は静かに言った。声は意外なほど、穏やかだった。「──慣れるな。慣れたら終わりだ。あの男のように」


 男の視線の先にもう一人の剣闘士がいた。


 巨躯の大鬼人《オーガ》だった。返り血を浴び、心底楽しそうに笑っていた。──ルフスはその大鬼人《オーガ》を知っていた。ガドバ。自ら望んで捕虜となり剣闘士奴隷に身を落とした大鬼人《オーガ》だ。他の剣闘士が生き延びるために戦う中、彼だけは殺すことそのものを愉しむために砂に立つ。有名な悪役《ヒール》だ。


 「あれが」と悪魔人《ダイモニオン》の男は言った。「慣れた者の成れの果てだ。──お前はああはなるなよ」


 そう言って男は砂へと歩いていった。


 ルフスはその痩せた背中を見送った。


 後で、ルフスはその男の名を知る。スパルド。──この闘技場で絶大な人気を誇る不敗の剣闘士。その稀有な種族と際立った美貌ゆえに市民のとりわけ貴婦人たちの熱狂を掻き立てる、『砂上の華』。


ーーーーーーーーーーーーーー


 ルフスは勝ち続けた。


 最初の一戦の後彼は変わった。躊躇いを捨てた。──捨てなければ、死ぬからだ。彼は技を覚えた。デキウスの言うとおり力だけでは勝てない。彼は必死に剣術を身につけた。


 剣闘士の日々は単調だった。


 朝から晩まで訓練だ。木剣を振り型を繰り返し模擬戦を行う。訓練を監督するのは引退した老剣闘士だった。かつて砂の上で名を馳せ、運よく生き延びて、今は後進を鍛えている。──だが、その老剣闘士とて自由を得たわけではなかった。彼は闘技場に雇われて剣闘士を育てている。砂を出ても闘技場の外には出られなかった。それがこの見世物の仕組みだった。一度この歯車に組み込まれれば、死ぬまで回り続ける。


 訓練の合間、ルフスは他の剣闘士たちを観察した。


 彼らは様々だった。ルフスのような借金や、食い詰めから砂に立った者たち。鎖に繋がれた蛮族奴隷――カトゥヴェリ荒域から捕獲された赤龍人《ドラグル》や豚人《オーク》や大鬼人《オーガ》。彼らは言葉も通じないことが多く、ただ獣のように砂に送り出されるのを待っていた。


 そして、ガドバがいた。


 殺しを愉しむ大鬼人《オーガ》。彼だけは他の剣闘士たちと違う。自ら望んで捕虜となり剣闘士奴隷に身を落とした狂人。逃げようとも、自由を得ようともしない。ただ、砂の上で相手を殺す。それだけが彼の生きる理由だ。


 「なあ、若造」とある日ガドバがルフスに話しかけてきた。訓練の合間に。「お前、なんでそんな辛気くさい顔で戦うんだ? 殺しは楽しいだろう! 相手が俺の死を願う顔! あれこそ最高の馳走よ! ──お前もそのうち分かる。慣れれば、殺しは楽しくなる」


 ルフスは答えなかった。


 スパルドの言葉を思い出した。慣れるな。慣れたら終わりだ。あの男のように。──ガドバは慣れた者の成れの果てだった。殺すことに慣れ、殺すことを愉しむようになった成れの果て。ルフスはそうはなりたくなかった。だが、勝ち続けるためには、殺し続けなければならない。その狭間で彼は少しずつ擦り減っていった。


 ――闘技場では、剣闘士はただ戦うのではない。演じるのだ。


 デキウスは試合ごとに物語を仕込む。今日はルフスを「這い上がる貧しき志願者」として売り出す。明日はガドバを「憎むべき殺戮者」として売り出す。客はその物語に金を払う。剣闘士はその物語の登場人物として砂に立つ。──そして、物語の結末が生き死にであることを客は承知の上で楽しんだ。


 ルフスは「這い上がる貧しき志願者」を演じた。


 とはいえ、それは嘘ではなかった。彼は実際に貧しく実際に這い上がろうとしていた。だが、その本物の必死さをデキウスは見世物に仕立てた。ルフスの勝利は客の娯楽になった。ルフスが生き延びるために流す血も客の娯楽になった。──彼の命がけの必死さそのものに値がつけられていった。


 ――そして勝った。一戦また一戦と。


 勝つたびに賞金が貯まった。借金は少しずつ減っていった。


 ルフスは闘技場の内側の仕組みを、少しずつ知っていった。


 剣闘士には序列があった。いちばん下が蛮族奴隷や戦争捕虜だ。彼らは鎖に繋がれ名も与えられずただ"数合わせ"として砂に送り出される。まともな訓練も受けられない。多くは一戦か二戦で死ぬ。客にとって彼らは剣闘士ですらなかった。ただの獲物だった。強い剣闘士に狩られる獲物。


 その上が志願剣闘士だ。ルフスのような。彼らは名を与えられ、多少の訓練を受ける。勝てば賞金を得る。だが、その分期待もされる。客を沸かせられなければ、すぐに格下の相手にあてがわれ、あるいは格上の相手に潰される。


 そしてさらに上、頂点にスパルドのような花形がいる。不敗の稼ぎ頭。"砂上の華"。彼らは闘技場の宝だった。だが、宝であるがゆえに、決して手放されない。


 ルフスはこの序列を、一つずつ上っていった。勝つたびに、少しずつ良い待遇を受けるようになった。だが、上れば上るほど、彼はあることに気づいた。──上に出口があるわけではなかったのだ。序列のいちばん上は自由ではなく、囚われの頂点だった。


 彼と同じ時期に志願した一人の男がいた。


 マニウスという人間の男だった。彼もやはり、借金を抱えて志願した。ルフスとマニウスは宿舎でよく話した。互いの借金の額を比べあと何戦勝てば、返せるかを計算した。──それが二人の慰めだった。あと五戦。あと三戦。あと一戦。


 マニウスはルフスより先にその「あと一戦」にたどり着いた。


 「聞いてくれ、ルフス!」とある日、マニウスは興奮して言った。「次の試合で勝てば、借金が返し終わる! 俺は自由だ! 農地に戻れる! ──妻と子供が待ってるんだ。あと一戦だ!」


 ルフスは彼のために喜んだ。自分のことのように。──剣闘士の中にこうして自由にたどり着く者もいるのだと。ならば自分にもいつか。


 マニウスのその最後の試合をルフスは砂の外から見ていた。


 相手はカトゥヴェリ荒域から捕獲された単眼巨人《オフタルガス》だった。巨躯の蛮族。マニウスより遥かに大きく力も強かった。──なぜ自由がかかった最後の試合で、こんな格上の相手があてがわれたのか。ルフスには分からなかった。


 試合は短かった。


 単眼巨人《オフタルガス》の一撃がマニウスを砂に沈めた。マニウスは立ち上がろうとした。あと一戦。妻と子供。自由。──だが、立ち上がれなかった。単眼巨人《オフタルガス》の次の一撃が彼を砂に縫いつけた。


 砂が血を吸った。


 ルフスは砂の外で立ち尽くしていた。


 後で、彼は知った。デキウスがわざとマニウスに格上の相手をあてがったことを。──「自由に手が届きそうな剣闘士はもう終わりだ」とある古参の剣闘士が囁いた。「そういう奴は、次の試合に勝てば、すぐ闘技場からいなくなってしまう。支配人は、何とか最後に一稼ぎさせる方法を考える。──だから、自由が見えてきた奴には少しだけ強い相手をあてがい、最期の賭け金を跳ね上げさせる。それがこの闘技場のやり方だ」


 ルフスはそれを聞いて悟った。


 自由は餌だ。だが、餌に手が届きそうになった者には罠が待っている。強すぎれば手放してもらえない。弱ければ、死ぬ。ちょうどいい強さで勝ち続け、しかし自由に手が届くその一歩手前で──殺される。


 また、ルフスは気づいた。報酬は想像以上に安く、借金が減る速さはより遅い。


 自由と農地。それが剣闘士の約束された報酬だった。だが、その報酬にたどり着く前にたいていの剣闘士は死ぬ。あるいは、勝ち続けてもなかなか自由にはたどり着けない。デキウスが稼ぎ頭を簡単には手放さないからだ。


 「もう少しだぞ」とデキウスは勝つたびに、言った。「あと数戦勝てば、自由が見えてくる。──もう少しだ。気合を入れろ、ルフス」


 だが、その「もう少し」は、単に"死の宣告"だったのだ。

 ルフスは少しずつ悟り始めていた。


 この「自由」という報酬は餌なのだと。ロバの鼻先にぶら下げられた人参のように。追いかけても追いかけても決して届かない。届いた瞬間に剣闘士は価値を失う。だから、興行師は決して届かせない。「もう少し」と言い続けて走らせ続ける。──最後の血の一滴まで。


ーーーーーーーーーーーーーー


 ある夜、ルフスは剣闘士たちの宿舎で、"砂上の華"スパルドと話した。


 剣闘士たちは、闘技場に隣接する宿舎に暮らしていた。奴隷剣闘士は鎖に繋がれた粗末な部屋。志願剣闘士はそれより少しましな部屋。だが、どちらも逃げられないことに変わりはなかった。


 スパルドは宿舎の中庭に一人で座っていた。鎖に繋がれた脚で。夜空を見上げて。


 「スパルドさん」とルフスは声をかけた。「隣いいですか」


 悪魔人《ダイモニオン》は頷いた。ルフスは隣に腰を下ろした。


 「あんたは」とルフスは訊いた。「不敗だって聞きました。この闘技場で一度も負けたことがないって。──なら、もうとっくに自由を得られてるんじゃないんですか。なぜまだここに?」


 スパルドは乾いた笑みを浮かべた。


 「不敗だからこそだ」と彼は言った。「──俺はデキウスのいちばんの稼ぎ頭の"奴隷"だ。俺が砂に立てば、客が押し寄せる。俺の名で金が動く。だから、デキウスは決して俺を手放さない。自由なんかくれるものか。──俺はこの闘技場のいちばん高価な道具なんだ」


 ルフスは黙った。それは彼が薄々感じていたことの確認だった。


 「勝てば、自由をやるとデキウスは言う」とスパルドは続けた。「だが、その日はいつも遠のく。俺はもう二十年以上、この砂に立っている。我々"悪魔人《ダイモニオン》"は長寿だが――二十年......二十年だぞ、ルフス。二十年勝ち続けてそれでも自由は来ていない。来るはずがない。俺が価値を持ち続ける限り」


 「二十年……」ルフスは絶句した。


 「俺には」とスパルドは夜空を見上げたまま言った。「想い人がいる。──森精人《エルフ》の女だ。彼女と静かに暮らすことだけが俺の願いだ。もう戦いはたくさんだ。血も砂も歓声ももううんざりなんだ。──ただ、彼女と二人で静かなどこかで暮らしたい。それだけなんだ。それだけが俺の望みなんだ」


 その声には二十年分の疲れが滲んでいた。


 「彼女とは」とスパルドはぽつりと言った。ルフスにというより夜空に語りかけるように。「──十八年前に出会った。俺がまだ砂に立ち始めて間もない頃だ。彼女は俺の試合を見に来た客の一人だった。──悪魔人《ダイモニオン》はこの地では珍しい。だから、俺が砂に立つと皆物珍しさで見に来る。彼女もそうだったのだろう。最初は」


 彼は乾いた笑みを浮かべた。


 「だが、彼女は他の客とは違った」とスパルドは続けた。「他の客は俺の血を見に来る。俺が誰かを殺すのを、あるいは俺の美貌を。──だが、彼女は俺の目を見た。砂の上で殺し合う俺の目にあった"疲れ"を見たんだ。ある日、試合の後、彼女は俺に言った。『あなたはこんなところにいるべき人じゃない』と。──その後の十八年間誰も俺にそんなことを言わなかった。皆俺を"砂上の華"と讃えるだけだった。華は砂の上にいるのが当然だと。だが、彼女だけは俺を砂の外の人間として見た」


 ルフスは黙って聞いていた。


 「悪魔人《ダイモニオン》は」とスパルドは言った。「この地では独りだ。──マナの希薄なこの地では俺たちは本来の力を出せない。仲間もほとんどいない。俺は生まれてこのかた同じ悪魔人《ダイモニオン》に数えるほどしか会ったことがない。──独りなんだずっと。この広い西ヤルアラムで俺はたった独りの異物だった。だが、彼女がいた。彼女だけが俺を独りではなくしてくれた。──だから、俺は彼女と暮らしたい。それだけを願って二十年を生きてきた」


 「その人は」とルフスは訊いた。「今もあんたを待ってるんですか」


 スパルドはしばらく答えなかった。


 「分からない」とやがて彼は言った。「──実は、もう何年も会っていない。デキウスが俺に外の者と会わせないようにしている。俺が逃げるのを恐れて。......彼女がまだ俺を待っているのか、それとも待ち疲れて去ったのか。──俺には分からない。森精人《エルフ》は長く生きる。だが、待つことにも限りがある。十八年だ。彼女が俺を諦めていても俺は彼女を責められない」


 彼は夜空を見上げた。


 「もう戦いはたくさんだ」とスパルドは言った。「血も砂も歓声ももううんざりなんだ。──ただ、彼女と二人で静かなどこかで暮らしたい。それだけなんだ。それだけが俺の望みなんだ。──だが、その望みはこの砂の上にいる限り、決して叶わない」


 ルフスはこの不敗の華がどれほど、疲れ果てているかを初めて知った。市民は彼を"砂上の華"と讃える。貴婦人たちは彼に熱狂する。だが、その華やかな仮面の下でスパルドはただこの血なまぐさい生活から逃れたいと願っていた。想い人と静かに暮らすためだけに。


 「なあ、ルフス」とスパルドは彼を見た。「お前はまだ若い。それに奴隷でもない志願者だ。お前は借金を返して自由を得ようとしている。──だが、憶えておけ。この砂の上で自由を得られる者はほとんどいない。俺のように強すぎれば、"あの手この手"で手放さない。弱ければ死ぬ。──ちょうどいい強さの者だけがたまに自由を得る。だが、その『ちょうどいい』を見極めるのは難しい。強くなりすぎる前に逃げ切れ。それがお前が生きて砂を出るただ一つの道だ」


 ルフスはその言葉を胸に刻んだ。


 強くなりすぎる前に逃げ切れ。──だが、それは矛盾していた。強くならなければ勝てない。勝たなければ、借金は返し切れない。だが、強くなりすぎれば手放してもらえない。──この砂の上には出口のない罠が、どこかに仕掛けられていた。


ーーーーーーーーーーーーーー


 護民官のガイア・プレビリアが闘技場に来ることは稀だった。


 彼女はレームの当代護民官の一人だった。獣人の女。貧困化した自由農民層の代表。──都市防衛と農地開拓の主力を担いながら、かつては政治的発言権を持たなかった、平民の系譜に連なる女。彼女は闘技場を「我欲のはきだめ」と冷静に評していた。


 その日、彼女が闘技場に来たのは興行を楽しむためではなかった。視察のためだった。市民の血への渇望がどれほどのものかを自分の目で確かめるために。


 ルフスはその日砂の上にいた。


 試合が終わったところだった。彼はまた勝っていた。相手はカトゥヴェリ荒域から捕獲された蛮族の若者だった。赤龍人《ドラグル》の若者。個体としての戦闘力は高かったが、ルフスの磨き上げた技の前に敗れた。


 客席が殺せと叫んでいた。


 ルフスは剣を握ったまま、倒れた赤龍人《ドラグル》の若者を見下ろしていた。若者はまだ生きていた。誇り高い龍人の目でルフスを睨んでいた。殺すなら、殺せという目だった。捕らわれ見世物にされそして殺される。──その屈辱に震えながら。


 主催者の親指が下を向いた。


 ルフスは剣を振り下ろした。もう躊躇いはなかった。


 砂が血を吸った。客席が沸いた。


 その沸き立つ客席の一角でガイア・プレビリアは無表情に砂を見ていた。彼女の隣にいた市の役人が言った。「あのトロガスという男、結構人気が出てきましたな。志願剣闘士としては上々です」


 「上々......ね」とガイアは返した。声に冷たいものがあった。「──あの男は、レームの自由農民の子のはずです。父親が奴隷農園に追い詰められ、借金を残して死んだそうです。その借金を返すために彼はあの砂に立っている。──そして、同じように追い詰められた者や、征服された奴隷たちを殺して金を稼いでいる。それを"上々"とあなたは言ったのですね」


 役人は答えに詰まった。


 「これが」とガイアは言った。「レームの繁栄の姿です。征服で奴隷を連れ帰りその奴隷が自由農民を没落させる。没落した自由農民は借金を抱え、その借金を返すために砂の上で殺し合う。そして、その殺し合いを市民が娯楽として消費する。──我欲のはきだめとはよく言ったものです。この闘技場はレームという国の縮図なのです」


 役人は何も言えなかった。


 ガイアは立ち上がった。もう見るべきものは見たという顔だった。


 「あのルフス・トロガスという男」と彼女は去り際に言った。「気の毒に。──あの男は自由を得られると信じているのでしょう。勝ち続ければ。だが、勝ち続ければ続けるほど、あの男は自由から遠ざかる。デキウスが稼ぎ頭を手放すはずがない。......デキウスはかつて、債務者の借金を新たに"発見"してきた悪党です。二年前にフロルシウス法こそ施行されましたが、あの"骨抜き"の法では彼を止めることはできない──トロガスもいずれ、あの不敗の悪魔人《ダイモニオン》のようになるのです。二十年も砂に立ち続ける囚われの華に」


ーーーーーーーーーーーーーー


 ルフスの噂は闘技場の外にも広がっていった。


 ある日、宿舎に一人の男が訪ねてきた。


 太陽人《ソラリス》の男だった。黒肌黒髪の長命の種で、歳は百四十を超えている。上等な身なりをしていた。──ティトゥス・メルカと男は名乗った。


 ルフスはその名を聞いたことがあった。土地を失った貧困市民を職業軍人として雇い上げ海外の遠征や植民地戦争に投入する新興の軍事事業家。レームの政治を攻撃的な方向へ押し出している一派の旗振り役。


 「ルフス・トロガス」とティトゥスは愛想よく言った。「お前の噂は聞いている。勝ちっぷりがいいそうだな。──どうだ砂の上で命をすり減らすより、俺のブラタニアの遠征軍に加わらないか。海の向こうで名を上げれば、奴隷も財宝も思いのままだ。運が良ければ、広大で肥沃な自由農地も手に入る。──闘技場よりよほど、夢のある話だぞ」


 ルフスはその甘い言葉を聞きながら警戒した。


 「遠征」と彼は言った。「──それは、どこかの土地を奪うということですか。今そこに住んでいる人々から」


 ティトゥスは笑った。「奪うとは人聞きが悪い。──開拓すると言え。在地の遅れた文化をレームの進んだ文化で置き換える。それは進歩だ。──それに、お前が気に病むことはない。土地を失った貧しい市民に剣と行き先をくれてやる。俺は奴隷と財宝を持ち帰る。誰も損をせん。良い商売だ」


 ルフスはその言葉の裏を見た。


 土地を失った貧しい市民。──それはルフス自身のような者だった。奴隷農園に追い詰められて土地を失った自由農民の子。ティトゥスはそういう者を集めて海の向こうへ送り込む。そして、在地の文化を破壊し古い部族国家や蛮族領域を荒廃させる。──レームの膨張の先兵として。


 「あんたは」とルフスは言った。「レームの貧しい者を集めて、海の向こうの貧しい者から土地を奪わせる。──俺たちは貧しい者同士で殺し合わされてるんだ。闘技場でも遠征でも。同じことだ」


 ティトゥスの笑みがわずかにこわばった。


 「面白いことを言う」と彼は言った。「だが、若いの。世の中はそういうふうにできている。上の者が下の者を使う。下の者はもっと下の者を踏みつける。──それが嫌なら、上に行くしかない。俺の遠征軍で名を上げて上に行け。そうすれば、お前も踏みつける側に回れる」


 「──断ります」とルフスは言った。


 「......まったく」ティトゥスは肩をすくめた。「気が変わったら、いつでも来い。──だが、憶えておけ。闘技場で自由を得られる者はほとんどいない。お前がいくら勝ってもデキウスは手放さん。俺の誘いはお前がこの砂から出る数少ない道の一つだ。──まあゆっくり考えるといい」


 そう言って彼は去っていった。


 ルフスはその去っていく背中を見ながら思った。


 闘技場でも遠征でも同じだ。貧しい者が命を賭けて上の者を肥やす。自由という餌をぶら下げられて。──どちらの道も出口ではなかった。ただ、死に方が違うだけだった。


ーーーーーーーーーーーーーー


 そして、その日が来た。


 デキウスがルフスを呼んだ。


 「ルフス」と支配人デキウスは言った。その目に興行師の計算高い光があった。「お前、次の大興行でスパルドと当たる」


 ルフスの心臓が止まりそうになった。


 「スパルドと……」


 「そうだ」とデキウスは頷いた。「不敗のスパルドと勝ち上がってきた志願剣闘士ルフス・トロガス。──いい物語だろう? 客が押し寄せる。金が動く。──お前も望むところだろう。スパルドを倒せば、お前は一躍この闘技場の頂点に立つ。自由も農地も見えてくる」


 ルフスは答えられなかった。


 スパルドと戦う。──あの疲れ果てた砂上の華と。想い人と静かに暮らすことだけを願っているあの悪魔人《ダイモニオン》と。


 「......おい、デキウス」とルフスは掠れた声で言った。「もし俺がスパルドに勝ったら。──スパルドはどうなるんだよ」


 怒気の混じった彼の声に、デキウスは少しのあいだ黙った。「......勝つ気、か」それから、事務的に言った。


 「ふむ。それはその日の主催者次第だ。が──」彼は言葉を切った。「不敗の華が敗れる。それは大きな見世物だ。客は興奮する。そして、興奮した客はたいてい血を求める。──スパルドが敗れれば、客は殺せと叫ぶだろう。長年無敗だったあの華が砂に沈むのを見たがる。人はそういうものだ」


 ルフスはめまいがするようだった。


 「主催者が」とデキウスは続けた。「その客の声に応じるかどうかは分からん。スパルドは稼ぎ頭だ。俺としては殺されては困る。──だが、興行というのはそういうものだ。何が起こるか分からん。客があまりに殺せと叫べば、主催者も無視できん」


 彼はルフスの肩に手を置いた。


 「いいか、ルフス」と彼は言った。「お前はただ勝てばいい。勝ってスパルドを砂に沈めろ。その後のことはお前が気にすることじゃない。──お前が負ければ、お前が死ぬ。お前が勝てば、お前は頂点に立つ。それだけだ。単純な話だ」


 だが、ルフスにはそれは単純な話ではなかった。


 勝てば自由が見えてくる、だと?適当なことを。勝てば、スパルドの唯一の願いを──想い人と静かに暮らすというただ一つの願いを──永遠に砂に沈めることになるだけだ。

 あの疲れ果てた華が、客の歓声の中で殺されるのだ。ルフスの剣によって。


ーーーーーーーーーーーーーー


 試合の前夜。


 ルフスは宿舎の中庭で、スパルドを探した。


 悪魔人《ダイモニオン》はいつものように一人で夜空を見上げていた。ルフスが近づくと、スパルドは振り返らずに言った。


 「聞いたよ」と彼は言った。「お前と当たるそうだな。──明日の大興行で」


 「スパルドさん」とルフスは言った。声が震えた。「俺は……どうすればいいんですか」


 スパルドはしばらく答えなかった。


 「勝て」とやがて彼は言った。静かに。「勝って俺をあの砂に沈めろ。──それがお前の道だ。お前はまだ若い。借金を返して自由を得るチャンスがある。俺を踏み台にして頂点に立て」


 「でも」とルフスは言った。「俺が勝てば、人気者のあんたといえど、客は殺せと叫ぶかもしれない。──あんたには想い人がいるんでしょう。静かに暮らしたいって願いが」


 スパルドは乾いた笑みを浮かべた。


 「願いか」と彼は言った。「──ルフス。俺は二十年その願いを抱いてきた。二十年だ。だが、一度も叶わなかった。叶うはずがないんだ。俺が価値を持ち続ける限り、デキウスは俺を手放さない。俺の想い人はもう待ち疲れている。森精人《エルフ》は長く生きる。だが、待つことにも限りがある。──いつか彼女は俺を待つのをやめるだろう。そのとき、俺の願いは完全に死ぬ」


 彼は夜空を見上げた。


 「だから」とスパルドは言った。「いっそ砂の上で終わりたい。──不敗のまま囚われ続けるより。お前に勝たせてお前の自由への道を開いて。そして、俺はこのうんざりする生活から解放される。それが俺に残されたただ一つの自由だ。死ぬという自由だ」


 ルフスはその言葉に寒気を覚えた。


 スパルドは死のうとしている。ルフスに勝たせることで。それが彼の唯一の逃げ道だと思っている。──二十年勝ち続けてたどり着いた結論がそれだった。生きて自由を得ることではなく、死んで解放されること。


 「そんなの」とルフスは言った。「間違ってる」


 スパルドが彼を見た。


 「間違ってる」とルフスは繰り返した。声が大きくなった。「あんたが死んだとして、客は一日興奮してそれで終わりだ。──あんたの死で得をするのは、あんたをこの砂に縛りつけてる連中だけだ。あんたは最後まであいつらの見世物として消費されて死ぬ。それのどこが自由なんだ」


 スパルドは答えなかった。


 「俺は」とルフスは言った。「あんたを殺したくない。あんたに勝って自由を得たくない。──そんな自由は要らない。あんたの命を踏み台にした自由なんて」


 「じゃあどうする」とスパルドは静かに言った。「戦わなければ、二人とも罰せられる。逃げれば、俺は奴隷法の下でお前は剣闘契約の下で、追われて殺される。──この砂の上に選択肢はない。勝つか負けるか。殺すか殺されるか。それだけだ」


 ルフスはしばらく黙っていた。


 そして、彼は一つの考えにたどり着いた。それは危険な考えだった。だが、それしかなかった。


 「一つだけ」とルフスは言った。「選択肢がある。──客が望むものを与えない、選択肢が」


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 大興行の日が来た。


 闘技場は満員だった。二万の観客。不敗の華スパルドと、勝ち上がってきた志願剣闘士ルフス。その頂上決戦を見ようと、レーム内外から市民が押し寄せていた。貴族も平民も。貝紫《かいむらさき》の外套に象徴されるレームの富を纏った者から、その日の糧にも困る者まで。


 観客席の一角に護民官ガイア・プレビリアの姿もあった。彼女はこの興行を視察するために来ていた。市民の血への渇望が頂点に達するこの日を自分の目で見るために。


 砂の上に二人が現れた。


 ルフスとスパルド。歓声が闘技場を揺らした。特に、スパルドが現れると貴婦人たちの黄色い声が飛んだ。砂上の華。その美貌の悪魔人《ダイモニオン》。──だが、その華が今日敗れるかもしれない。その期待と興奮が闘技場を包んでいた。


 二人は砂の中央で向かい合った。


 「本当にやるのか」とスパルドが低く囁いた。「──失敗すれば、二人とも殺される」


 「やろう」とルフスは囁き返した。「──どうせこの砂の上に自由はない。なら、せめてあいつらの望みどおりには死なない。それが俺たちに残された唯一の自由だ」


 スパルドはしばらくルフスを見ていた。


 その赤い目に何か久しく忘れていたものが宿った。──希望ではなかった。もっと静かな何か。諦めとも違う何か。


 「……分かった」と彼は言った。「乗ろう。お前の賭けに」


 主催者による合図が鳴った。


 試合が始まった。


 二人は剣を構えて対峙した。客席が固唾を呑んだ。──そして、二人は戦い始めた。


 それは見事な戦いだった。ルフスの磨き上げた技。スパルドの二十年の経験。二人の剣が火花を散らした。攻めては退き退いては攻める。客席が沸いた。歓声が闘技場を揺らした。──だが、その戦いは客の目には分からないある約束の上に成り立っていた。


 二人は決して致命傷を与えなかった。


 それは殺し合うことより遥かに難しい技だった。


 本気で殺し合うなら、相手の隙を突くだけで済む。だが、殺さずにしかし殺し合っているように見せるには、互いの剣を正確に読み、寸前で逸らし、しかし客には紙一重の攻防に見せなければならない。一瞬でも呼吸が狂えば、片方が本当に相手を斬ってしまう。──二人は命を預け合って踊っていた。殺し合いに見える舞踏を。


 スパルドの剣がルフスの肩を掠めた。血が飛んだ。だが、それは浅い計算された傷だった。客席が沸いた。──次に、ルフスの剣がスパルドの腕を裂いた。これも浅い計算された傷だった。血が砂に落ちた。砂はそれを吸った。


 「うまいぞ、ルフス」と剣を交えながらスパルドが囁いた。客には聞こえない声で。「その調子だ。──客は俺たちの舞踏に酔っている」


 「あんたこそ」とルフスも囁き返した。剣を受けながら。「二十年の経験は伊達じゃない。──俺、あんたと本気で戦ったら、一瞬で負けてる」


 スパルドがかすかに笑った。剣を交えながら。「そうだな。──だが、今日は勝ち負けの話じゃない」


 浅い傷は負わせた。血も流れた。砂はそれを吸った。だが、二人とも相手を殺そうとはしなかった。互いの剣を受けいなししかし決して深くは斬らなかった。──それは戦いのふりをした共同作業だった。客を欺くための。命を預け合った二人だけの秘密の舞踏だった。


 時が経った。


 二人とも疲れ始めた。息が上がった。だが、勝負はつかなかった。つくはずがなかった。二人とも勝とうとも負けようともしていなかったからだ。


 客席がざわめき始めた。


 なぜ勝負がつかないのか。なぜあの不敗の華はいつものように鮮やかに相手を仕留めないのか。なぜあの勢いのある志願剣闘士は決め手を欠くのか。──客は苛立ち始めた。血を見たがっていた。決着を求めていた。


 「殺せ!」と誰かが叫んだ。「どっちでもいい殺せ!」


 その声が伝播した。「殺せ! 殺せ!」──二万の観客が血を求めて叫び始めた。


 ルフスとスパルドは剣を下ろした。


 二人は砂の中央で並んで立った。息を切らして。血を流して。だが、互いを殺さずに。──そして、二人は客席に背を向けた。主催者の席へ顔を向ける。


 闘技場が静まり返った。


 剣闘士が戦いをやめた。互いを殺すことを拒んだ。──そんなことは前代未聞だった。客席がどよめいた。主催者たちが席から身を乗り出した。デキウスが砂の外れで蒼白になっていた。


 「もう、うんざりだ!」ルフスは剣を砂に突き立てた。


 「俺たちは」と彼は闘技場に響き渡る声で叫んだ。「もう殺し合わない!」


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 闘技場が凍りついた。


 「見ろ!」とルフスは叫び続けた。「あんたたちは俺たちに殺し合わせてそれを娯楽にしている! 俺たちはあんたたちの玩具じゃない! 俺たちは借金を抱えたあんたたちと同じレームの民だ! こいつは──」彼はスパルドを指した。「こいつは二十年この砂に縛られてきた! 想い人と静かに暮らしたいというたった一つの願いを抱いたまま! それをあんたたちは娯楽として消費してきたんだ!」


 客席は静まり返っていた。二万の観客がこの前代未聞の光景を見つめていた。


 だが、その静寂は長くは続かなかった。


 客席のあちこちから怒声が上がり始めた。「何をふざけたことを!」「戦え!」「金を返せ!」──客は興ざめしていた。彼らが金を払って見に来たのは血と死だった。剣闘士の演説ではなかった。


 主催者が立ち上がった。そして、親指を下に向けた。


 二人とも殺せ。──そういう合図だった。戦いを拒んだ二人の剣闘士を見せしめに殺せと。


 砂の控えから他の剣闘士たちが呼び出された。その先頭にいたのがガドバだった。殺しを愉しむ大鬼人《オーガ》。返り血を浴びるのが無上の喜びのあの男。


 「はっ!」とガドバは笑った。「面白いことを始めたな若造ども! だが、砂の上で殺し合いを拒むなら──俺がお前らを殺してやる! それもまた余興だ!」


 ガドバが巨大な剣を構えて二人に迫った。


 ルフスとスパルドは背中を合わせた。


 「やはり」とスパルドが乾いた声で言った。「賭けは外れた、か」


 「かもしれない」とルフスは剣を構え直した。「でも後悔はしてない。──少なくとも、俺たちはあいつらの望みどおりには死ななかった」


 「そうだな」とスパルドは笑った。二十年ぶりの心からの笑みのように見えた。「そうだ。──俺たちは俺たちのやり方で死ぬ。それが俺たちに残された唯一の自由だ」


 二人はガドバに、そして後続の剣闘士たちに立ち向かった。もう殺し合いを演じるためではなかった。ただ、生き延びるために。あるいは──自分たちの選んだやり方で終わるために。


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 その光景を護民官ガイア・プレビリアは観客席から見ていた。


 二万の観客が怒声を上げていた。裏切られたと。金を返せと。彼らは血を見に来た。だが、その血が彼らの望むものと違っていた。剣闘士が殺し合いを拒む。それは彼らの娯楽を否定するものだった。


 ガイアは立ち上がった。


 彼女は護民官だった。

 護民官とは、執政官に次いでレームで二番目に強い権限を持つ公職である。さらには、貴族には就くことが許されず、平民が複数で担当するレームの要職。『法案拒否権』や『身体不可侵権』をはじめとする強力な権限を持つ、平民の代表である。

 ──だが、その権限は闘技場の砂の上には及ばない。彼女にできることは限られていた。


 だが、彼女は動いた。


 「止めなさい!」と彼女は叫んだ。護民官の声だった。よく通る声だった。「その二人の剣闘士を殺すことを、私は護民官の名において止める! 特に彼、ルフスはレームの市民だ! 志願剣闘士は奴隷ではない! 市民を見せしめに殺すことは許さない!」


 闘技場がざわめいた。


 ――護民官が有するもう一つの特権『救済権』。これは公権力から市民を保護する権限。しかし、剣闘試合とは市民による私的な空間であり、加えて剣闘契約とは私法である。本来ならこの権限は剣闘士には及ばない。だが、その政治的な圧力は無視できるものではなかった。主催者は迷った。デキウスが蒼白なまま主催者に何か耳打ちした。──稼ぎ頭を失うことへの計算。護民官を敵に回すことへの計算。そして、この前代未聞の騒動がどう転がるかへの計算。


 ――だが、ガドバは剣を止めなかった。


 「うるせえ!」と大鬼人《オーガ》は笑った。「護民官がなんだ!権限がなんだ! 俺は殺しがしたいんだ! 俺はさっき、こいつらを殺すことを許された! なら、殺す! それだけだ!」


 彼は二人に斬りかかった。


 ルフスとスパルドはそれを受けた。二人がかりで。ガドバは強かった。殺しを愉しむその狂気は凄まじい力を生んだ。ルフスの技とスパルドの二十年の経験をもってしても、勝算は決して高くないだろう。


 砂の上で三人が激突した。


 血が飛んだ。砂がそれを吸った。──客席は皮肉にも、その本物の殺し合いにまた沸き始めていた。演説より共闘より血のほうが彼らには分かりやすかった。彼らはまた血を見ていた。それで満足しかけていた。


 だが、その戦いの最中。


 スパルドが動いた。


 彼はガドバの剣を自らの身で受けた。わざと。大鬼人《オーガ》の剛剣がスパルドの腹を深々と貫いた。──だが、その一瞬ガドバの体勢が崩れた。そして、その崩れた隙にルフスの剣がガドバの首を刎ねた。


 大鬼人《オーガ》の巨体が砂の上に崩れ落ちた。


 殺しを愉しんだ男は最後まで笑っていた。自分が殺されることすら余興だと言わんばかりに。


 そして、"砂上の華"スパルドも砂の上に崩れた。


 「スパルド!」とルフスは叫んだ。彼のそばに駆け寄った。


 悪魔人《ダイモニオン》の腹から血が流れ出していた。もう助からない深さだった。この地では魔法的な治療も乏しい。──スパルドは死のうとしていた。


 「ルフス」とスパルドは掠れた声で言った。「──これでいい」


 「なんで」とルフスは言った。声が震えた。「なんでわざと受けたんだ! せっかく二人で生き延びようとしたのに! ──あんたには夢があるんだろう。あの人と静かに暮らすっていう、たった一つの夢が!」


 スパルドは薄く笑った。


 「……正直に言おう」と彼は言った。「あの夢はな……とっくに死んでいたんだ......──何年か前の、ある日。ふと気づいた。俺はもう、彼女と暮らす日が来るなんて、心の底では信じていないと。……辛い夜には、あの夢を糧にした。あの夢の話をお前にもした。だが、心底では信じていなかった。──夢というのはな、ルフス。信じていなくても、糧にはなる。惨めな話だが、本当だ」


 「スパルド……」


 「だから、今の俺の夢は、別のものだ」とスパルドは言った。血の混じる息の下で。「──お前だ。お前が生きて、この砂を出る。自由になる。……それが俺の夢だ。……いいか、これは諦めじゃないぞ。俺が選んだんだ。俺の夢のために、俺の意志で死ぬ。──これが、俺の自由だ」


 彼は震える手でルフスの腕を掴んだ。


 「だがもし……いつか彼女に会うことがあったら……伝えてくれ。……あんたのくれた夢で、二十年生きた男がいたと。……それだけでいい」


 「スパルド……!」


 「なあ、ルフス」と悪魔人《ダイモニオン》は最後の力で笑った。「砂は……血をよく吸う……だが……夢までは吸えない……。──俺の最後の夢は……どうやら……叶いそうだ……」


 その手が力を失った。


 スパルドは砂の上で事切れた。──最後の夢の、その叶う先を見つめたまま。


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 ルフスは生き延びた。


 護民官ガイア・プレビリアの介入と、前代未聞の騒動の後始末をめぐる様々な思惑の中で。──だが、あの日砂の上で起きたことは、砂の上だけでは終わらなかった。


 ガイアは動いた。


 彼女は騒動の直後から、護民官の権限によって闘技場の帳簿と契約書を洗い始めた。──出てきたものは酷いものだった。字の読めない志願者に読ませぬまま押させた印。法外な違約の条項。返済の近づいた剣闘士に都合よく"発見"される"捏造された"借金。帳簿の隅には、ルフスの父の名で仕立てられた「新たな借金」の下書きまで残っていた。そして脅迫、折檻、市民であるはずの志願剣闘士への、実質的な虐待の数々。


 ガイアはデキウスを告発した。

 志願剣闘士は奴隷ではない。レームの市民である。その市民を騙し、脅し、捏造した借金で砂に縛りつけた──告発状はそう述べていた。

 裁判は長くはかからなかった。デキウス・アラトスはレーム市民権を剥奪された。さらに、市民の庇護を失ったその身は、闘技場の獣に投げ与えられる――猛獣刑に処されることとなった。


 処刑の日、老獣人は武器も鎧も持たぬまま、馴染み深い砂の上へ引き出された。――かつて自分が幾人もの市民を縛りつけた、その同じ砂の上へ。

 市民たちは、その日もひとつの物語を楽しんでいた。数多の市民を食い物にした悪党が、丸裸で砂に転がされ、惨めに嬲られて果てていく──後味のよい正義の筋書きを。

 歓声はいつもと変わらず沸いた。デキウスの悪行に、自分たちは関係がないというようだった。


 そして、ルフスは自由になった。


 頂上決戦の賞金は莫大だった。跳ね上がった賭け金。そこに、デキウスの没収財産からの賠償が加わり、捏造と認められた借金は無効とされた。──借金は消えたどころか、多くの金が手元に残った。――本来剣闘士が受け取れるはずのないほどの額だった。


 ルフスはその金で、市壁の外に広大な農地を買った。かつて父が耕し、少しずつ手放していった土地を含む、一帯の広大な農地を。


 ルフスは奴隷を買わなかった。


 代わりに、土地を失った貧しい市民を小作農として雇い入れた。かつての父のような、かつての自分のような者たちを。──だが、その徴収する小作料はほんの僅かにした。そして、ルフスは彼らに約束した。払った小作料の累計が地価を上回ったとき、その土地はお前のものになる。お前は自由農民に戻るのだ、と。


 小作農地では主に、葡萄を育て、酒を醸した。一般的な農場奴隷では、奴隷による雑な剪定によって蔓が傷むことが多く、これが病害を招いていた。だが、ルフスの小作人は、やがて我が物になる畑を、自分の指のように手入れした。結果的に値段では敵わずとも、味では敵わせなかった。ルフスの畑の上質な葡萄酒は、いつしかレームの食卓に名を呼ばれるようになった。


 ルフスは利潤を農地の拡大に充てた。農地が広がれば、雇える者が増えた。雇った者がやがて自由農民になる頃には、その隣にまた新しい者を雇った。また、彼らの一部が生活に困窮した際にお金を出し合う契約――共済金も創った

 ――それは緩やかな仕組みだった。だが着実に、レームに広がっていった。


 「もう少しだぞ」とルフスは、雇った小作と会うたびに言った。「あと数年すれば、自由が見えてくる。──もう少しだ。気合を入れろ」


 だが、砂の上での「もう少し」とは違う。あれは決して届かぬよう吊るされた餌だった。

 『勝てば勝つほど、貧しくなる』──父は死ぬまでそう言っていた。

 ――ならば、とルフスは思った。俺の土地では逆にしてやる。働けば働くほど、自由に近づく土地に、そういうレームにしてやる。


 スパルドの想い人は見つからなかった。


 手がかりを辿って分かったのは、その森精人《エルフ》の女が十年ほど前にレームを去ったらしい、ということだけだった。行き先は誰も知らなかった。森精人《エルフ》は長く生きる。この広い世界のどこかで、今も生きているのだろう。


 伝えられなかった言葉を、ルフスは抱えて生きることにした。──『あんたのくれた夢で、二十年生きた男がいた』――スパルドの言葉だ。いつかどこかで彼女と会えたなら、それを伝える。それまでは俺が憶えている。


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 闘技場そのものは、結局なくならなかった。


 護民官ガイアはそれを承知していた。闘技場は市民の不満のはけ口であり、なくせば不満は行き場を失う。支配層は決して手放さない。──だから、彼女は正面からではなく、搦め手で攻めた。


 まず、志願剣闘士には試合前の誓約書が義務付けられた。死の危険を承知し、それでも自らの意志で砂に立つと誓う書面。観客の目の前で読み聞かせた上で、署名か押印を押させる。──さらに、その誓約が脅しや騙りなしに公正に行われているかを監視する監査官が置かれた。市の予算ではなかった。ガイアと、有志の私財で賄われた、しかし公的な権限を持つ監査官だった。


 剣闘奴隷については別の理屈が使われた。人道ではない。奴隷供給の逼迫と歳入の拡大──その口実の下で、剣闘奴隷が砂の上で死ぬたび、興行側が多額の税を納めねばならない法案が通った。対外遠征によって枯渇した国庫の存在もあり、容易にこの法案は通った。これにより今後、興行師たちは奴隷を安易に死なせなくなった。死なせれば損をするからだ。


 もっとも、市民の剣闘への熱は収まらなかった。

 むしろ、ガイアへの憎悪が増した。出資側の富裕層は当然として──貧困層の一部、平民の一部までもが彼女を嫌うようになった。彼らは、剣闘の無料席の増枠を訴えていた。血の見世物は、日々の糧にも困る者たちに残された、数少ない娯楽だったからだ。──貧しい者の血を吸う構造を締め上げた護民官を、貧しい者の一部は憎んだ。ガイアはその皮肉を静かに受け止めた。


 「我欲のはきだめ」と彼女は一人呟いた。「──この闘技場はレームという都市の縮図だ。それは変わらない。征服で肥え太り、その影で貧しい者が殺し合い、さらにその殺し合いを娯楽として消費する。この構造が続く限り、第二のルフスが、第三のスパルドが囚われかけるだろう」


 だが、と彼女は思う。


 あの日、砂の上で二人の剣闘士が殺し合いを拒んだ。客の望みどおりには死ななかった。──それはこの非情な構造に開いた小さな風穴だった。そして今度は、その風穴は塞がれなかった。誓約書という楔が、監査官という楔が、税という楔が、小さな穴を小さいままに、しかし確かにこじ開けていった。市壁の外では、"砂上の夢"――ルフス・トロガスが、貧しい者たちに、餌ではない「もう少し」を授けていた。


 レームの構造はまだ続く。彼女一人の力ではそれは変わらない。──だが、それでも......


 闘技場の上空を鳥が舞っていた。

 中央には今日もまた新しい砂が撒かれるだろう。次の血を待つ、乾いた砂が。


 しかし、血を底なしに吸う闘技場《アレーナ》の砂でも吸えない夢は、確かにあったのだ。

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