エピローグ そして……静かなる夜明け
第十三班が新人を迎えてから、さらに十年の歳月が流れた。
かつて「最強」と謳われた者たちも、時の流れという不可避の代謝限界には抗えない。
早乙女沙也加、藤堂エリカといった黄金世代は既に三十歳の壁を越えて引退し、それぞれが指導者や技術顧問として後進を支える側に回っていた。
そして今、かつての第十三班アタッカー、天宮あかりもまた、三十歳の誕生日を数日後に控えていた。
微細医療特別法の規定により、彼女がダイブ・スーツを纏える時間はあと僅か。
その「最後の日」を静かに待つあかりの前に、十年前に微細医療局コマンドドクターの座を退き、国立バルス研究センターの地下にある研究室に籠もり続けていた凪宗一郎が姿を現した。
その背後には、巨大な白銀の繭のような装置――非侵襲・多次元共鳴型バルス駆除システム『静(SHIZUKA―Selective High-intensity Impedance-Zapping & Universal Kinetic-collapse Apparatus)』のプロトタイプが、静謐な威容を湛えて鎮座していた。
1. 聖域の起動
国立バルス研究センター附属病院、最深部。
かつての第十三班のオペレーションルームを改築したその部屋には、伝説の面々が集結していた。
コンソールを操作するのは、長年、凪の偏屈な研究を公私共に支え続けてきた看護師、結衣。
数年前、凪の不器用過ぎるプロポーズを受け入れて今は姓を変えているが、職場では旧姓のまま、あの東京パンデミックを経験したベテランとして微細医療の現場で重きをなしている。
そして、傍らには、訓練学校から教え子たちの未来を背負って駆けつけた氷室礼が立ち、その鋭い視線でモニターを凝視している。
そして、モニターの向こう側――自宅や職場では、結婚して母となった美穂や、訓練学校で後進の指導に当たる沙也加、そして第一班を率い続けてきたエリカたちが、固唾を飲んでこの歴史的瞬間を注視していた。
「……バイタル、安定。チャンバー内の位相共鳴、予定値まで上昇」
結衣の声が、震えを帯びて響く。
中央のチャンバーに横たわるのは、既存の微細医療装備では太刀打ちできない「多層変異型バルス」に侵された重症患者。これまでは、あかりが命を削る『クアッド・ダイブ』でしか救えなかった症例だ。
「あかり。万が一、システムが暴走するか、駆除に失敗した場合は、お前が引きずり出してでも救え。……それがお前の、最後の仕事だ」
凪が、かつての不遜な態度のまま、しかしどこか慈しむような声で告げる。
あかりは、三十歳という年齢を感じさせない凛とした仕草でNLSのヘルメットを脇に抱え、深く頷いた。
「わかっています、先生。……でも、必要ないでしょう? あなたが作ったものですから」
「ふん。……起動しろ」
2. 見えない刃の旋律
凪の合図と共に、『静』が起動した。
激しい電子音も、肉体を軋ませる衝撃もない。ただ、空間が微かに水面のように揺らぎ、超伝導共鳴チャンバーから放たれた不可視の波動が、患者の細胞を、血管を、神経を素通りしていく。
『静』は、患者の体内にあるバルス個体の一つ一つの「悲鳴(固有振動)」を逆位相で完璧に打ち消していく。
モニターに映し出されたナノ・スキャンの映像の中で、あれほど強固だったバルスの細胞壁が、まるで春の雪が陽光に溶けるように、音もなく崩壊し、無害なタンパク質の塵へと変わっていく。
「バルス反応、急速に減衰……。九十、七十、四十……」
結衣のカウントが続く。
「……消失。バルス個体、全滅を確認」
沈黙が室内を支配した。
三十年前、静香が命を賭して拓いた道。それから今日まで数多のオペレーターたちが血を流して走り抜けた道。
その険しく残酷な「戦場」が、今、人知を超えた英知によって、平和な「治療室」へと塗り替えられた歴史的な瞬間だった。
3. 嬉しい失業
ハッチが開き、麻酔から覚めたばかりの患者が、わずかに手を挙げた。
患者のそばへ駆け寄った結衣がバイタルを確認するが、従来のオペレーション後のように安定していた。
この歴史的なオペの様子をライブ中継でモニター越しに見ていた沙也加は、眼鏡を外して目元を拭い、美穂は幼い我が子を抱きしめながら安堵の涙を流した。
エリカは「……ふん、面白くないわね。私の出番がなくなるじゃない」と強がりながらも、その口元には満足げな微笑を浮かべていた。
そして、あかりは結局一度も被ることのなかったヘルメットを、静かにコンソールの上に置いた。
「……あかり」
凪が、ベッドから降りて彼女に歩み寄る。
「予定より三日早かったな。お前、定年前に失業だ。おめでとう」
「……はい。でも、こんなに嬉しい失業はないです。最高の退職祝いですね、先生」
あかりの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは最強の重圧から解放された安堵と、この技術がもっと早くあれば救えたであろう多くの命への、鎮魂の雫だった。
礼は、その光景を背後に、涙が零れ落ちないように天井を見上げた。
彼女は自分の血管を流れる「静香」の意志に、そっと語りかける。
(……しず姉。やっと、宗兄がやり遂げたよ。もう、誰もあなたのようにはならない。もう、誰も泣かなくていいんだよ……)
「もっとも、こいつが量産されて全国の病院に普及するにはまだ時間も金もかかる。それまでは相変わらずの人力頼みだ。お前らの責任は重大だぞ」
「はい、先生!」
凪の現実的な言葉に、現職教官の礼、定年退職後に訓練学校の教官就任が内定しているあかりは力強く頷いた。
4. 孤高の天才の背中
後年、この『静(SHIZUKA)』の開発成功は、目に見えない人体の侵略者を一掃した「医学史上最大級の革命」として絶賛された。
スウェーデンのノーベル賞選考委員会は、凪宗一郎へノーベル生理学・医学賞を贈ることを決定した。
しかし、凪は躊躇うことなくあっさりと辞退したのだ。
彼は、病院の屋上でいつものように不機嫌そうにタブレットを操作しながら、山のように積まれた祝辞の電報をゴミ箱に放り込んでいた。
「先生、本当にいいんですか? 世界中の医師が憧れる賞なのに」
呆れ顔でコーヒーを運んできた結衣が尋ねる。
「くだらん。他人が決めた価値など、俺の数式の解よりも価値がない。……俺が欲しかったのは、あんなメダルじゃない」
凪は、ポケットから三十年前の古い「押し花」を取り出し、風に揺らした。
「……親父と姉貴に、胸を張って『終わったぞ』と言える。それだけで十分だ」
屋上のフェンスには、かつてのように、あかり、沙也加、美穂、そして引退した仲間たちが集まって、騒がしく笑い合っている。
そこにはもう、バルスの恐怖に怯える影はない。
静香が夢見、凪が創り上げ、あかりたちが守り抜いた、本当の青空がどこまでも広がっていた。
(ミクロダイブ・エマージェンシー 完)




