第64話 共鳴の先へ、春の嵐を越えて
パンデミックの狂騒から二年。
東京に再び巡ってきた春は、かつての絶望を淡い桃色の花びらで覆い隠すように、穏やかな陽光を街々に注いでいた。
国立オペレーター訓練学校の校庭。
風に舞う桜の下で、一人の女性が凛とした姿で教壇に立っていた。
氷室礼。
かつて最強のオペレーターとして戦場を支配した彼女は、三十歳を前にして潔くそのダイブ・スーツを脱ぎ、次代を育てる「導き手」の道を選んだ。教え子たちを見つめる彼女の瞳には、かつての凍てつくような冷徹さはなく、静かな慈愛が宿っている。
一方、附属病院地下四階の微細医療局フロア。
第一微細医療班のオペレーションルームでは、藤堂エリカが不機嫌そうに活動実績グラフを睨んでいた。
第一班リーダーの座。それは本来、沙也加に打診されたものだったが、彼女は「私はこの場所で、見届けるべき背中がある」と辞退した。
「見ていなさい、沙也加。私たちがライバルであることは、一生変わらないんだから!」
最強の座を巡る火花は、形を変えてなお、二人の間で熱く散り続けていた。
第十三班のオペレーションルームでは、看護師の結衣が、淹れたてのハーブティーをトレイに乗せて運んでいた。ふと、数ヶ月前まで美穂が座っていた空席に視線を落とすと、温かな記憶が蘇る。
それは、美穂が結婚を報告したあの日のことだ。
「……あ、あの! 皆さん、お話があるんです」
いつになく顔を真っ赤にして、指先をモジモジさせながら切り出した美穂。
「私、一般病棟の内科の先生と……結婚することになりました。だから、その……春にはオペレーターを引退します!」
「ええっ!? 美穂さん、本当におめでとう!」
あかりが自分のことのように飛び跳ねて喜び、沙也加は「……そう。あなたらしい、いい選択ね」と、少しだけ寂しそうに、けれど慈しむような笑みを浮かべた。
凪は相変わらずベッドに寝そべったまま、「ふん、盾役を辞めて自分が守られる側に回るか。おめでたい頭だな」と毒を吐いたが、その直後、「……式の予定を早めに結衣に送っておけ。ここのシフトを空けるのは骨が折れるからな」と、彼なりの不器用な祝福を口にした。
結衣は、あの時の美穂の、世界で一番幸せそうな泣き笑いの顔を忘れない。
「……いいなぁ、寿退職。美穂さん、今ごろハワイで旦那様に守られてるんだろうな」
結衣は小さく溜息をついた。彼女にも第一班への異動の打診があったが、迷わず断った。
「私、ここが好きなんです。あかりちゃんたちの心の温度を一番近くで測れるのは、このオペレーションルームだけですから」
「準備はいいか、あかり。今日も『女王候補』の反応が上がっているぞ」
コンソールの前で、凪が声を上げる。
彼はパンデミック時に握った政府の弱みを盾に、バルス対策予算をそれまでの数倍に増額させていた。
そして今、父・宗治も諦めた「患者の体外からのバルス駆除」の研究に本格的に着手している。
「先生、もしそれが完成したら、私たちオペレーターは全員、失業ですね」
冗談めかして笑うあかりの瞳には、かつての氷室礼が持っていた威圧感と、凪静香が湛えていた慈愛が同居していた。彼女は今、第十三班を牽引する「最強」の柱となっていた。
「……当たり前だ。これほど嬉しい失業が他にあるか」
凪はタブレットから視線を外さずに鼻で笑った。
オペレーターの献身と犠牲に頼らないバルス対策を実現すること。
それこそが、一人の弟として、そして医師として捧げる、亡き姉・静香への最大の供養になると信じていた。
その時、オペレーションルームのドアが、ためらいがちな音を立てて開いた。
「……失礼します! 本日付けで第十三班に配属されました、新人の……!」
そこに立っていたのは、真新しい制服に身を包み、緊張で顔を強張らせた少女だった。
美穂の去ったあとの空席を埋める、新しい雛鳥。
あかり、沙也加、結衣、そして凪が、一斉に彼女を振り返る。
「ようこそ、第十三班へ。大変な職場だけど……覚悟はいい?」
あかりが、かつて礼に憧れたあの頃と同じ、太陽のような笑顔で新人を迎え入れる。
その光景を、部屋の隅の追悼スペースから、一枚の遺影が見守っていた。
埃ひとつない額縁の中で、凪静香は穏やかに微笑んでいる。
彼女が繋いだ命のバトンは、いま、新しい春の風に乗って、また次の誰かへと受け継がれていく。
微細な世界で奏でられる鎮魂歌は、いつしか、明日を生きる者たちのための力強い賛歌へと変わっていた。




