第62話 浄化の共鳴
少女の体内、心臓直下――そこはもはや生物学的空間を超越し、絶望を建築資材とした「黒い神殿」と化していた。
女王を宿した繭は、漆黒の多角形結晶を幾重にも張り巡らせ、拍動するたびに禍々しい重低音を響かせる。
その波動は、ダイブ・スーツの外部装甲をミクロ単位で削り取り、四人のオペレーターの神経を直接、針で突き刺すような激痛となって襲っていた。
「……ッ、美穂さん、盾を! 波動が来るわ!」
「アイギス・フルバースト! でも……防ぎきれない……!」
美穂の叫びと共に、展開された幾重もの光の盾が、ガラス細工のように粉砕されていく。
女王は、宿主である少女・美奈の「孤独」や「死への恐怖」をエネルギーに変換していた。一班三人の限界を超えた四人同時ダイブという「異物」を排除するため、空間そのものが収縮し、物理的な圧殺を試みてくる。
「……っ、目標、高速移動中! 捉えられないわ……脳の処理が追いつかない!」
沙也加の『ジャッジメント』が火を吹くが、超高密度のバルス雲に弾かれ、弾丸は虚しく霧散する。
輸血を受けたばかりのあかりは、傷口から流れる熱い感覚と、ダイブによる神経負荷の狭間で、意識を繋ぎ止めるのがやっとだった。
「……あかり! 意識を離すな!」
礼の白銀の刃が、女王から放たれたドリル状の触手を弾き飛ばす。だが、最強の彼女ですら、その呼吸は荒く、ダイブ・スーツの四肢からは過負荷を示す火花が散っていた。
「ハハハ……笑わせるなよ、バルスの分際で」
体外のドクター席。凪は、血走った眼で数百のコンソールを凝視し、狂ったようにコマンドを打ち込んでいた。
彼の指先は、四人の精神負荷を分散させるために、コンマ一ミリグラム単位で薬剤投与を調整し続けている。だが、モニターに表示される美奈の心拍数は、すでに二百を超えようとしていた。
「先生、患者の脳波が……クイーンの意識に呑み込まれます! これじゃ、美奈ちゃんが……!」
結衣の悲鳴のような報告。
女王は最後の手段に出た。宿主の意識と完全に同化し、自らを破壊すれば少女の脳も焼き切れるという「心中」の構え。
(……ここまで、なのか……?)
あかりの視界が、急速に色を失っていく。
激痛、寒気、そして圧倒的な「悪意」の海。
最強の礼がいながら、天才の凪が支えながら、それでも届かないのか。
静香の命を繋いだこのバトンは、ここで落とされてしまうのか。
その時だった。
静かなる旋律
暗転しゆくあかりの意識の底から、一滴の雫が落ちたような、清冽な音が響いた。
『――大丈夫よ、あかりちゃん』
あかりは、はっと顔を上げた。
視界を覆っていた黒い結晶の向こう側に、淡い黄金色の光が揺れている。
その光の中に、いつも写真で見ているよりもずっと鮮やかで、ずっと温かな笑顔を湛えた少女が立っていた。
『静香……さん……?』
それは幽霊でも幻覚でもなかった。
礼の血を通じ、あかりの同調因子と共鳴した、二十年前の「想い」の残滓。
静香の魂が、礼の体内で二十年間育んできた慈愛の記憶が、あかりの傷ついた神経を優しく包み込んでいく。
『医者はね、病気を倒す人じゃないの。患者さんがもう一度、自分の足で歩き出せるように、暗闇の中でそっと手を握ってあげる人のことなのよ』
静香の手が、あかりの震える手に重ねられた。
その瞬間、あかりの体内を流れる「血」が、真の力を解放した。
「……聞こえる。美奈ちゃんの、泣き声が」
あかりの瞳が、黄金色に発火する。
彼女はもはや、女王を「敵」として見ていなかった。少女を苦しめ、その心を歪めている「汚れ」として捉えていた。
「礼さん、沙也加さん、美穂さん! 私を信じてください!」
あかりの叫びに、三人が目を見開く。
四人のバイタルデータが、凪のモニター上で一つの完璧な正弦波を描き出した。
クアッド・ダイブの真髄――それは個々の力ではなく、四つの魂が一本の糸となって「命の旋律」を奏でること。
「……いいわ。あかり、あなたの『歌』に、私たちの命を乗せなさい!」
礼が先陣を切る。白銀の軌跡が女王の防壁を真っ二つに割り、道を作る。
「弾道計算完了! 障害物、すべて排除するわ!」
沙也加の精密狙撃が、女王が放つ無数の小型個体を一瞬で撃ち抜く。
「誰にも、邪魔させない……アイギス・オーバーロード!!」
美穂が放つ絶対防壁の衝撃波が、女王の精神攻撃をすべて弾き返し、あかりの進路を真空にする。
「美奈ちゃん……怖くないよ。もうすぐ、おうちに帰れるからね」
あかりが『ハミングバード』を正眼に構えた。
それはもはや物理的な刃ではなかった。静香の慈愛、礼の覚悟、沙也加の理性、美穂の献身。
それらすべてを束ねた黄金の波動が、女王の核――美奈の心を閉じ込めていた黒い繭の芯へと、吸い込まれるように突き立てられた。
「ハミング・レクイエム……オール・クリアッ!!」
――カァァァァァァァァン!!
耳を劈くような高周波の破砕音。
女王の繭が、内側から溢れ出す圧倒的な光によって、粉々に砕け散った。
漆黒の結晶は、浄化の炎に焼かれるように、一瞬にして微細な白い粒子へと変わっていく。
パンデミックを統率していた号令が消失し、東京中の罹患者たちの体内で暴れていたバルスが、一斉に活動を停止した。
「クイーンの反応、消失! 全エリアの共鳴波、急速に減衰していきます!」
結衣の歓喜の声が響く。
凪は、崩れ落ちるように椅子に背を預けた。その額からは滝のような汗が流れ、震える手で眼鏡を直した。
「……ふん。遅すぎるんだよ、ガキ共。……よくやった」
体内空間の光の中で、あかりは一瞬だけ、礼の背中の向こうに、自分たちを抱きしめるように微笑む静香の姿を見た気がした。
「……勝ちましたね、礼さん」
「ええ……。私たちの、勝利よ」
礼が、あかりの肩を優しく抱き寄せる。
戦いは終わった。
少女の心拍数は穏やかなリズムを刻み始め、東京を覆っていた絶望の雲が、ゆっくりと晴れていく。
だが、この奇跡の代償と、これから始まる「ウィズ・バルス」の現実。
彼女たちの物語は、一つの大きな節目を迎えようとしていた。




