第60話 禁忌のクアッド・ダイブ
東部臨海総合病院にほど近い区立運動場の芝生は、二機の巨大な鉄の鳥が発するダウンウォッシュによって激しく波打っていた。
『CH-47J・メディカル・カスタム』
NBRC附属病院が誇る、微細医療専門大型ドクターヘリだ。機内に二基のダイブ・ポッドを搭載してバルス罹患者一名のオペが出来る、いわば空飛ぶオペレーションルームだ。
陸上自衛隊木更津駐屯地から発進した一号機と、パンデミックの激化に伴い大阪から飛来した二号機。
タンデムローターが奏でる重低音の唸りは、平時の救命活動とは一線を画す、戦場の鼓動そのものだった。
二機の機体は、凪の指示によって数メートルという超近接距離で並列駐機され、その間を極太の光ファイバーと神経同期ケーブルが、さながら血管のように繋いでいる。
ヘリ内部、拡張されたオペレーション・エリアは、無機質な計器の光と、生命維持装置の規則的なビープ音に支配されていた。その中央に鎮座する手術台は、もはや医療の枠を超え、神聖かつ禍々しい異教の祭壇のような趣を呈している。
そこに横たわるのは、パンデミックの根源たる「女王」の苗床とされた八歳の少女、相沢美奈。彼女の白い肌の下では、黒紫色の「バルスの地図」が、呼吸に合わせて不気味に脈動し、少女の命を内側から食い荒らしていた。
「……見ての通りだ。この『空飛ぶオペレーションルーム』には、物理的な制約で一機につき二基のダイブ・ポッドしか載らん。航空班の連中が二人一組なのはそのためだ」
凪は不機嫌そうに、ポケットから取り出した練り羊羹の包みを歯で裂き、一口かじった。糖分が脳に回る刹那、彼の眼光に冷徹な計算が走る。
「だが、相手はクイーンだ。小細工なしの正面突破を挑むには、航空班二人だけでは戦力不足……計算上の勝率は三割を切る。そこで俺は、一号機と二号機の演算サーバーを強引にバイパスで連結し、仮想的な『トリプル・ポッド・システム』を構築した。システム負荷は通常の四倍だが、背に腹は代えられん」
凪は指を鳴らし、モニターに映し出されたダイブ・チームの構成を表示させる。
「礼、お前が軸だ。お前の『スノーホワイト』の処理能力がなければ、この不安定な同期には耐えられん。そして、後援には沙也加の精密射撃と、美穂の防御壁を置く。……これが、現時点での最適解だ」
「当然の差配ね」
礼は、既に純白のダイブ・スーツ『スノーホワイト』の接続確認を終えていた。
二十年前、彼女が静香に救われたのも、今の美奈と同じ八歳の時だった。その宿命の輪を閉じるかのように、礼の瞳には氷のような決意が宿っている。
「……ふん。沙也加、美穂。準備しろ。一分後に出撃だ」
凪が冷たく言い放ち、二人がポッドへ向かおうとしたその時、ハッチの陰から一人の少女が這い上がるようにして現れた。
「――待ってください。ポッドは、まだ一基……空いているはずです」
あかりだった。
彼女の腹部の包帯からは、特命部隊に撃たれた際の傷跡が僅かに滲み出し、白いダイブ・スーツを赤く汚している。蒼白な顔には脂汗が浮かんでいたが、その黄金色の瞳だけは、かつてないほど激しく燃え上がっていた。
「あかりちゃん!? あなた、その体で何を……!」
美穂が悲鳴に近い声を上げるが、あかりは震える足でしっかりと床を踏みしめ、凪を見据えた。
「二機合わせて、ポッドは四基あります。一基余らせたまま、美奈ちゃんを危険に晒すなんてできません。……私も、行きます」
「馬鹿か、貴様は」
凪の冷徹な声が、ヘリの騒音を切り裂いた。
「三人でのダイブですら、患者の脳にかかる『意識の干渉』は致死圏内だ。四人目が潜れば、美奈の精神は、お前たちの同期波形に焼き切られて一瞬で廃人になる。……医学的に、四人ダイブ(クアッド・ダイブ)は『殺人と同義』だ」
「……なら、これを使ってください」
あかりが指し示したのは、凪が万一の事態に備えて、裏ルートで入手していた治験段階の未承認新薬――『レテ・ヘリックス』のバイアルだった。
それは、患者の神経系を一時的に「空白化」し、外部からの多重意識を受け入れるための精神的バッファを強制的に構築する禁忌の薬剤である。
理論上、この薬を使えば、患者のバイタルを一定の等比数列に基づく安定曲線へと誘導し、複数人の同時ダイブによる神経負荷を分散・相殺できる。
だが、副作用のリスクは計り知れない。成功すれば奇跡だが、失敗すれば美奈は肉体ごと崩壊する。
「……チッ。勝手に持ち出しやがって。だがな、あかり。これは俺の一存では決められん。この薬は、まだ『人間』に使うための許可が降りていない毒薬だ。身内の承諾なしに投与すれば、俺も、お前も、このセンターも……すべて終わりだぞ」
凪は忌々しそうに吐き捨てると、ヘリのハッチの外で、震えながら救急チームに寄り添っていた少女の両親――相沢夫妻を呼び寄せた。
「お父さん、お母さん。聞いてください」
あかりは、両親の前に膝をついた。負傷した傷口が痛み、呼吸が荒くなるのを必死に抑えながら、彼女は切々と訴えた。
「今のままでは、美奈ちゃんを救える確率は決して高くありません。でも、この薬を使い、私たちが四人で潜れば……美奈ちゃんの中に巣食うクイーンを、確実に、一秒でも早く叩き潰せます。……私の体は、これ以上ないほど美奈ちゃんとシンクロしています。私の命を、美奈ちゃんのために使わせてください。……お願いします、美奈ちゃんを、助けさせてください!」
あかりの瞳から溢れる涙と、負傷してもなお美奈を救おうとするその凄烈なまでの意志。
相沢夫妻は、目の前の「英雄」ではなく、一人の「少女」としてのあかりの覚悟に圧倒されていた。
まだ高校生くらいにしか見えない彼女が、血を流しながら、それでも見ず知らずの他人の子の命を救おうとしている。
「……お願いします。美奈を……美奈を助けてください」
父親が、震える声であかりの手を握りしめた。母親は、泣き崩れながら深く頭を下げた。
少女の命は今、国家の命令でも、政府の打算でもなく、一人のオペレーターの情熱へと託された。
「……決まりだな。結衣、レテ・ヘリックスを美奈の点滴ラインに。……全ポッド、緊急起動! 演算負荷を四等分しろ、一台でも同期がズレれば全員の脳がパーだ!」
凪の怒号が響き渡る。
結衣の手によって、燐光を放つ乳白色の薬剤が美奈の体内へと注入されていく。
あかり、沙也加、美穂、そして氷室礼。
四人のオペレーターが、それぞれのポッドへと横たわった。
「ダイブ・シーケンス、最終フェーズ……! 四人の精神波形を一つに重ねろ! ターゲット、相沢美奈に巣食う……女王の玉座!」
二十年の時を超えた宿命と、傷だらけの友情が、今、禁忌の扉を抉じ開けた。
「――天宮あかり、氷室礼、早乙女沙也加、如月美穂……クアッド・ダイブ、エントリーッ!!」
四つの魂が光の束となり、絶望に満ちた少女の体内へと、真っ向から射出された。
視界が開けた瞬間、彼女たちが目にしたのは、もはや「人体内部」とは呼べない光景だった。
美奈の心臓付近。そこには、赤黒い結晶体が幾重にも重なり、巨大な花弁のように広がっていた。中心部で拍動するのは、数万のバルスを統べる「女王」の繭。
『……お姉ちゃん、助けて……』
空間そのものが震え、少女の泣き声のような思念波が四人を襲う。
それは、クイーンが宿主の記憶を餌に作り出した、精神的な防衛反応だった。
「惑わされないで! これは偽りの声よ!」
礼の叫びと共に、四人は白銀の閃光となって「女王の玉座」へと突進した。
傷を負い、血を分かち、禁忌を超えた四つの魂。
一班三人の限界を突破した「クアッド・ダイブ」が、絶望の深淵に最初の一撃を刻み込もうとしていた。




