第58話 非武装の反逆
オペレーションルームの空気は、摩擦で発火せんばかりに張り詰めていた。
凪宗一郎の指先は、数百万のバイタルデータという名の濁流を、超高速のタイピングで「濾過」し続けている。モニターには、二十三区を覆う不気味なバルスの共鳴波が可視化され、その波形が収束する「一点」を冷酷に追い詰めていた。
「……見つけたぞ。この狂った合唱の、指揮棒を振っている『女王』を」
凪がエンターキーを叩くと、地図上の一点、江東区にある「東部臨海総合病院」が血のような赤で点滅した。
「患者の名は、相沢美奈。八歳。二時間前に激しい痙攣で搬送されている。彼女の体内に潜伏するクイーン個体は、周囲のバルスを統制するだけでなく、宿主の神経系を増幅器として利用している。彼女を救い、クイーンを無力化すれば、このパンデミックは一瞬で瓦解する」
凪は即座に、この特定データと緊急オペレーション・プランを「微細医療局(BMM)」の情報共有ネットワークへアップロードした。
本来、これは全国の応援チームと連携し、最適かつ最短の救命ルートを確保するための、医師としての誠実な「共有」であった。
しかし、そのデータを受け取った政府対策本部の反応は、凪の想定とは真逆の、冷徹な軍事論理によるものだった。
「――特定されたか。感染源さえ消せば、この騒動は終わるのだな」
首相官邸地下。
対策本部長は、モニターに映し出された八歳の少女の顔写真を、ただの「標的」として凝視していた。
「一人の少女を救うために、三人の精鋭をダイブさせ、失敗のリスクを抱えながら貴重な時間を費やすのか? その間にも数百人がデッド化しているのだぞ。……効率が悪すぎる」
「本部長、まさか……」
「『戦術的解決』だ。人を派遣しろ。患者の保護は名目だ。現場に到着次第、感染源を物理的に……『処理』させろ。これは医療ではない。国の自衛権の行使だ」
この非情な命令は、BMMの暗号回線を逆流し、凪の端末へと届いた。
凪はモニターに表示された特命を受けた武装部隊の進撃ルートを見て、その瞳に絶望を通り越した漆黒の怒りを宿した。
「……腐れ外道共が。命を救うための情報を、殺すための座標として使いやがった」
「先生! 武装した部隊が病院へ向かっているようです! 救出じゃなくて、制圧するつもりです!」
結衣の叫びに、あかりは既にダイブ・スーツのヘルメットを掴んでいた。
「……行きましょう。私たちが、彼女の盾になるんです」
「あかりさん、相手はプロの戦闘員よ。この状況では何をされてもおかしくないわ」
緊張する沙也加の言葉に、あかりは静かに、けれど揺るぎない口調で返した。
「私たちは、微細医療のオペレーターです。バルスに脅かされている患者を殺そうとするのが国の命令なら、私は……その国に反逆します」
あかりのその力強い言葉で決まった。
第十三班は、附属病院の車両で江東区の病院へと急行した。
だが、病院の入り口は先に到着していた防護服を着た特命部隊によって封鎖されていた。
彼らの手には、バルバルス・デッドへの対処用として許可された自動小銃が握られている。
「止まれ! ここからは政府の管理下だ。医療関係者であっても立ち入りは禁止する!」
部隊員の制止を無視し、あかりたちは突き進んだ。
もちろん武器は持っていない。彼女たちの武器である医療装備は対バルス戦に特化されているから、人間相手には脅し以外の役には立たない。
今の彼女たちにあるのは、患者を守るという医療従事者としてのプライドと、微細医療オペレーターの証であるNBRC附属病院微細医療局のマークの入った制服だけだ。
微細医療の従事者はバルス罹患者の救命を最優先するという特別法、非武装の人間を攻撃してはならない、例え戦場でも医療従事者を攻撃してはならないという人道法が彼女たちの武器であり盾だった。
「どいてください! 私たちはNBRC附属病院微細医療局の者です。ここにいるバルス罹患者は私たちの患者です!バルスと戦うのは私たちです」
あかりが先頭に立ち、少女の隔離病棟へと続く廊下を走る。
背後から「止まれ、さもなくば発砲する!」という怒号が響くが、誰も足を止めなかった。
隔離病棟の重い扉の前に、あかりが到達した。その瞬間、少女の命を絶つために「処置」を行おうとしていた別働隊と鉢合わせる。
「……邪魔だ、どけ!」
焦燥した隊員の一人が、あかりを威嚇しようと銃口を向けた。
緊迫した空気が臨界点を超え、そして、廊下に乾いた銃声が轟いた。
「――あかりちゃん!!」
美穂の悲鳴が響く。
部隊員の放った銃弾は、あかりのなんの防護もされていない腹部を容赦なく貫いていた。
「……っ……ぁ……」
あかりの身体が、崩れ落ちる。白い廊下に、鮮血が急速に広がっていく。
銃を放った隊員も、自分の過ちに顔を青ざめさせた。しかし、あかりは激痛に顔を歪めながらも、背後の病室の扉を、血に染まった手で強く掴んでいた。
「……この子は……死なせない……。私たちは……医者、だから……」
あかりの視界が、急速に暗転していく。
だが、その時。背後の廊下から、氷のような冷気と共に、圧倒的な威圧感を纏った靴の音が近づいてきた。
「――そこまでよ。これ以上、私の妹分を傷つけるなら、相手が誰であろうと容赦しないわ」
現れたのは、氷室礼だった。
彼女の背後には、同じく毅然とした態度で立ち塞がる応援のオペレーターたちの姿があった。
「……あかり、しっかりして……!」
礼が駆け寄り、血に沈むあかりを抱き上げる。
政府の非道、そしてあかりの負傷。
最悪の事態の中で、それでも「命を救う」ための戦いは、もう一歩も引けない領域へと突入していた。




