第57話 女王(クイーン)の座
首相官邸の地下に設けられた政府対策本部は、絶望という名の静寂に支配されていた。
巨大なモニターには、東京二十三区全域に広がる赤い感染予測マップが映し出されている。もはや統計学上の数値は意味をなさず、指数関数的に跳ね上がる罹患者数は、この国の医療資源が物理的に破綻したことを冷酷に告げていた。
「……全国からの応援派遣は、現時点では『見送り』だ」
対策本部の高官が、乾いた声で言い放つ。
「地方の精鋭を東京というブラックホールに投入して、共倒れになるリスクは冒せん。二十三区を封鎖し、感染を隔離(封じ込め)した上で、自衛隊による治安維持――すなわち、デッド化した個体の『排除』を優先する」
それは、まだ息のある数万の罹患者を見捨てるという「棄民」の宣告に等しかった。
だが、その冷血な決定を嘲笑うかのように、第十三班のオペレーションルームの通信パネルが激しく点滅した。
「先生、リンク要請です! 発信元は……金沢微細医療センター、井口美也子先生!」
結衣が叫ぶと同時に、メインスクリーンに防護服姿の井口が映し出された。背後には、かつてあかりたちが切磋琢磨した金沢のオペレーターたちが、ダイブ・スーツの装備を整えて並んでいる。
『凪先生、政府の連中が何と言おうと関係ないわ。私たちはもう、小松空港から自衛隊の輸送機を半ば強引に借りて飛び立った。三十分後には入間に着くわよ』
「井口……。お前、自分の立場がどうなるか分かっているのか」
凪が苦々しく、けれどどこか安堵したように問い返す。井口は不敵に微笑んだ。
『立場? 医者にそんなものがあるなら、それは「目の前の患者を救う」という立場だけよ。金沢だけじゃない。札幌、大阪、名古屋、福岡……各地の指定病院の人たちも、非公式なネットワークで繋がっているわ。みんな、自分の意思で東京へ向かっている。……待っていなさい、第十三班。一人で世界を背負おうなんて、傲慢もいいところよ』
通信が切れる。
あかり、沙也加、美穂の瞳に、再び強い光が宿った。
全国の同志たちが、組織の枠を超え、自らの命を懸けてこの地獄へと参戦しようとしていた。
「ふん、物好き共が……。だが、これで少しは時間が稼げる」
凪は再び、モニターの感染マップを睨みつけた。彼の細い指先が、赤いエリアの「縁」をなぞる。
「……結衣、おかしいと思わないか? このパンデミック、二十三区の外には一歩も広がっていない。多摩地域や埼玉、神奈川の境界で、まるで壁に突き当たったかのように止まっている」
「え……? 交通網はまだ完全に封鎖される前でしたよね。普通なら、もっと広範囲に拡散してもおかしくないはずです」
「そうだ。ウイルス的な拡散ならな。……だが、これが『統率された軍隊』だとしたら話は別だ」
凪は、お台場から始まった共鳴波の減衰率を、空中に複雑な数式と共に展開した。
「バルバルスは基本的に群体だ。そしてこれだけの規模を同時に発症させるには、全個体に『号令』を下すマスター・ユニット――クイーン(女王)の存在が不可欠だ。この二十三区の境界線は、行政区画の壁じゃない。クイーンが発信できる生体信号の、物理的な有効射程限界だ」
凪の説明にあかりが息を呑む。
「……つまり、この二十三区内のどこかに、すべてのバルスを操っているクイーンに侵食された『たった一人のキャリア』がいるということですか?」
「ああ。その『女王』を宿した患者を特定し、バルスの指揮系統を叩き潰せば、このパンデミックは止まる。井口たちが時間を稼いでくれている間に、俺たちはその針の穴を探し出すぞ」
凪の瞳が、狂気にも似た冴えを見せる。
数万の罹患者の中から、たった一人の「核心」を見つけ出す。それは、干し草の山から一本の針を探すような絶望的な作業だ。
だが、第十三班の背後には今、静香の遺影が見守り、全国の仲間たちの鼓動が響いていた。
「全病院の患者データを強制クロスクエリにかけろ! 潜伏期間、発症順序、そしてバイタル波形の微細な同調率……。女王は、最も美しく、最も禍々しい歌を歌っているはずだ」
東京の深淵に潜む「女王の玉座」。
凪宗一郎の指先が、都内病院の情報ネットワークという巨大な神経網を、逆流するように駆け巡り始めた。




