第56話 飽和する悪意
東京・お台場の海浜公園は、冬の澄んだ陽光を浴びて、うららかな午後の静寂に包まれていた。
家族連れや観光客が憩うその平和な景色が、人類史に残る悪夢の「爆心地」へと変貌するまで、わずか数十秒のことだった。
異変は、一人の少年が上げた短い悲鳴から始まった。
直後、連鎖反応のように周囲の大人たちが次々と膝を突き、喉をかきむしる。吐き出されたのは、どす黒い噴出物と、耳を裂くような高周波の絶叫。
それは「発症」ではない。もはや「侵略」だった。
「――先生! お台場全域、および有明地区のバイタル・モニターが……計測不能です!」
国立バルス研究センター附属病院、第十三班オペレーションルーム。
結衣の悲鳴に近い報告が、静寂を切り裂いた。メインモニターには、東京湾岸エリアが血を流したように真っ赤に染まるアラートが点滅している。
「落ち着け、結衣。各地区の罹患者数を出せ」
凪がベッドから身を乗り出す。だが、次々と表示される数字は、彼の想定を遥かに超えていた。
「……現在、確定した罹患者数……三千五百。さらに、一分ごとに五百名ペースで増加中。嘘、こんなの……」
三千五百。
その数字の意味を、現場にいたあかりたちは即座に理解した。微細医療の基本は「一人の患者に対し、三人一組のオペレーターがダイブする」こと。
つまり、三千五百人を救うには、一万五百人の超精鋭オペレーターが必要になる。現在、日本全土に存在するオペレーターの総数は、その数%500人に満たない。
「……そういうことか。連中、これまでの沈黙の間に『戦い方』を学びやがったな」
凪の声は、低く、怒りに震えていた。
これまでのバルスは、従来型の中で変異型、新型が現れるゲリラ戦のようなものだった。
だが、今回の敵は違う。現在の微細医療の体制が物理的に対処できない圧倒的な「数」による飽和攻撃――いわゆるリソース・アタックを仕掛けてきたのだ。
「オペに備えるんだ。それが俺たちのやるべきことだ」
「先生、でも……この状況では!? 救急搬送が追いつかず、現場ではデッド化が始まって……!」
沙也加がモニターを指差す。お台場の街頭カメラには、すでに理性を失い、周囲の人間に襲いかかる「バルバルス・デッド」の群れが映し出されていた。
政府は対策本部を設置、この未曾有のバイオハザードに対し、自衛隊の治安出動、そして政府による「殺処分」の検討を開始。
人命を救うための微細医療が、圧倒的な物量の前で無力化されようとしていた。
凪は、端末に表示される感染シミュレーションの結果を凝視していた。
今回のバルスは、空気感染や接触感染といった既存のルートではない。特定の波長による「共鳴」で、宿主の体内に潜伏していたバルスの種を一斉に発芽させたのだ。
「……クソったれが!!」
――ゴンッ!!
凪が、拳で鋼鉄のデスクを激しく叩きつけた。
ペン立てが踊り、コーヒーカップが床で砕け散る。常に冷静沈着、毒舌で世界を斜めに見ていた天才・凪宗一郎が見せた、初めての「激情」だった。
「俺が甘かった……! 連中が力を溜めているのはわかっていたが、まさか『医療システムそのもの』を標的にしてくるとはな……! 同調因子を持つ限られた人間頼みという、この技術最大の脆弱性を、完璧に突いてきやがった」
凪の指が、血が滲むほどに握りしめられる。
彼が怒っているのはバルスに対してだけではない。その進化の兆候を掴みながら、対策を講じきれなかった自分自身の「慢心」に対してだった。
「先生、落ち込んでいる暇はありません!」
あかりが、凪の前に立ちはだかった。その瞳には、恐怖ではなく、かつてないほど強い光が宿っている。
「体制が追いつかないなら、私たちがその壁を壊すまでです。静香さんの意志を、ここで途絶えさせるわけにはいきません。……指示を。私たちは何をすればいいですか?」
あかりの言葉に、沙也加と美穂も無言で頷く。
凪は深く息を吐き出し、乱れた前髪を乱暴にかき上げた。彼の瞳から焦燥が消え、再び冷徹な「捕食者」の光が戻る。
「……いいだろう。お前たちがその気なら、こちらも相応の博打を打ってやる。結衣、都内全病院の共有ネットワークを強制接続しろ。金沢の井口にも連絡だ。……奴らの『心臓』を見つけ出すぞ」
窓の外では、お台場方面から黒い煙が立ち上り、虹色の橋は封鎖の赤い灯火に染まっていた。
史上最大級のパンデミック。
微細医療の限界に挑む、第十三班の最後の戦いが、絶望の炎の中で幕を開けた。




