第45話 20年前の「小さな患者」
地下研究室の天井付近に備え付けられた小さな窓からかろうじて差し込む夕陽が、長く、赤い影を床に落としている。その光は、かつてこの場所で起きた凄惨な「奇跡」を弔うかのようだった。
「20年前。世界はバルスという名の恐怖に塗り潰されていた」
凪の声は、感情を押し殺したように平坦だった。
「デッド化した罹患者による凄惨な事件が連日報道され、社会は疑心暗鬼に陥っていた。そんな中、親父は大手医療機器メーカーの巨額の資本を受け入れ、この地下室を最新鋭のラボへと作り変えた。……すべては、静香という唯一無二の『部品』を組み込んだ、最強の医療兵器を完成させるために」
壁のモニターには、当時の日誌が映し出される。静香のバイタルデータは、もはや正常値を示す箇所がほとんどなかった。ミクロ化と復元を繰り返すたびに、彼女の同調因子は、代償として彼女の生命力を根こそぎ奪い取っていったのだ。
12歳の宗一郎には、眠り続ける姉の細くなった指に触れることしかできなかった。
「親父はもう、姉貴を娘とは見ていなかった。……ただの『演算ユニット』だ。だが、姉貴だけは違った。彼女は、自分の命が消えかかっていることを知りながら、誰かを救う機会を、自らの存在理由としていたんだ」
そんなある日、静香の運命を決定づける患者が搬送されてきた。
救急車のサイレンが止まり、運び込まれたストレッチャー。そこに乗せられていたのは、顔色のない、当時8歳の少女だった。
「……この子、まさか…⋯氷室礼さん…?」
あかりが、掠れた声でその名を呼んだ。
最強と謳われるオペレーターの頂点に20年経っても残っている当時の面影。
「ああ。近所に住んでいた、氷室礼だ。親が共働きで兄弟もおらず、いつも寂しげにしていた彼女を姉貴は本当の妹のように可愛がっていた。俺にとっても、騒がしいが愛嬌のある、守るべき妹分だった」
しかし、搬送された礼の体内では、新種のバルスが急速に増殖し、心臓周辺に強固な要塞を築きつつあった。既存の医学では治療不可能。救えるのは、静香によるミクロダイブだけだった。
「静香の体調は最悪だった。再構成の負荷に、もう一度だけ耐えられる保証はどこにもない。……親父ですら、今回のダイブは見送るべきだと躊躇した。だが、姉貴は笑ったんだ。あんなに弱り切っていたのに、礼の名前を聞いた瞬間、彼女の瞳にだけは命の火が灯った」
静香は、震える手で二通の手紙を書き、ダイブ・ポッドへと向かった。
ハッチが閉まる直前、彼女はモニター越しに、泣きじゃくる宗一郎と、意識を失った礼を見つめて、穏やかな声を残した。
『宗ちゃん。泣かないで。私はね、不幸じゃないの。大好きな礼ちゃんを守れるこの力を持てたことが、私の人生で一番の誇りなのよ』
そして、礼に向かって、聞こえるはずのない声を届けた。
『礼ちゃん。……ごめんね、一緒に遊ぶ約束、守れなくなっちゃうかも。でもね、あなたは絶対に助ける。あなたが大人になって、誰かを守れる強い女性になるまで、私の一部が、あなたの体の中でずっと応援しているから』
「それが、彼女の最後の言葉だった」
凪は、当時の音声記録を止めた。
静寂が戻った地下室で、あかりたちは、その言葉の重さに耐えるように俯いた。
それは、一人の少女が、自分の未来のすべてを賭けて、もう一人の少女の未来を買い取った、あまりに過酷な「契約」だった。




