第43話 凪宗治の狂気と執念
研究室の奥、錆びついたケージや、色の褪せた薬品瓶が並ぶ棚の前で凪は立ち止まった。
壁には、当時の宗治が書き殴ったと思われる計算式や、無数の「×」印がつけられた症例写真が、狂気を感じさせる密度で貼り付けられている。
「親父は、医者だった。誰よりも『生』を信じていた男だった。だが……」
凪の指が、一枚の写真を指した。そこには、バルバルスに脳まで侵食され、人間としての理性を失い、拘束具を引き千切らんとする患者の姿があった。
「どれだけ最新の抗ウイルス薬を投与しようが、放射線を照射しようが、バルバルスは平然とそれらを『餌』にして増殖した。外科手術で取り除くことも出来ない。その結果、親父の目の前で、何人もの患者が、攻撃衝動だけの怪物に成り果てていったんだ。救う手段がない。それは医者にとって、死よりも残酷な敗北だった」
宗治は、絶望の淵で変わった。
白衣のポケットには常に、亡くなった患者の遺品が詰め込まれ、その瞳からは慈愛が消え、復讐者のような昏い炎が宿るようになった。
「既存の医学では、この野蛮な侵略者には勝てない。……なら、どうするか。親父はある夜、血走った眼で俺にこう言った。『敵がこっちが手も足も出ない顕微鏡の向こう側の住人なら、俺たちもそっちへ行くしかない。同じ土俵に立って、一匹ずつ叩き潰してやるんだ』」
そこから、凪宗治の「バルス研究者」としての孤独な暴走が始まった。
それが、23年前のことだった。
「親父は病院経営そっちのけで、私財をすべて投じて物質の量子的な縮退と、再構築の理論を組み立てた。それが、ミクロダイブ技術の雛形だ」
研究室の隅にある、初期型のダイブ・ポッド。
現代の洗練された流線型とは違い、それはまるで潜水艦の脱出ポッドのような、武骨で威圧的な金属の塊だった。
「動物実験は成功した。ラットを数ミリ単位にまで縮小し、再び元の大きさに戻す。だが、そこには致命的な壁が立ちはだかった。……副作用だ」
あかりたちは、古びたモニターに映し出された実験データのグラフを見つめた。
再構成されたラットの心拍数、体温、脳波が、元の状態に戻った後も激しく乱れ、数時間後には細胞崩壊を起こして死に至っている。
「物質を縮小し、再び等身大へ復元するプロセスは、細胞の代謝系に想像を絶する負荷を強いる。内臓は焼け、血管は脆くなり、精神は激痛で焼き切られる。親父は、この『限界』の壁をどうしても超えられなかった。……どんな屈強な命知らずの人間を連れてきても、一回のダイブで廃人になるのが関の山だったんだ」
凪はポッドの冷たい金属を撫でた。
「実戦投入など不可能。理論は完成していても、それに耐えられる『人間』がいない。親父がその行き止まりで、絶望を通り越し、ある『禁忌』に手を伸ばそうとしていた時……一人の少女が声を上げたんだ」
凪の視線が、研究室のさらに奥、一枚の古びた家族写真へと向けられた。
そこには、若き日の宗治と、まだ幼い宗一郎。そして、二人を包み込むように微笑む、利発そうな面差しの少女の姿があった。




