第38話 嵐の前の静寂
ダイブポッドのハッチが閉まるまでのわずかな数分間。重苦しい機械音だけが響くハンガーに、場違いなほど必死な足音が駆け寄ってきた。
「待って! これ、これを持って行ってください!」
結衣だった。
彼女の腕には、何枚ものホログラム・シートが抱えられている。その顔は、三日間凪の「徹夜の調整」と「技術局への恫喝」に付き合わされたせいで、幽霊のように青白い。だが、その瞳だけは、かつてないほど強く燃えていた。
「結衣さん……これは?」
沙也加がシートを受け取ると、そこには患者の肺胞一つ一つの損壊率、血管の微細な分岐、そしてあの「黒い城塞」の構造が、狂気を感じさせるほどの密度で書き込まれていた。
「先生が擲弾を調整している間、私もずっとシミュレーションを回していました……。この三日間で、患者さんの容体は一分一秒ごとに変化しています。これは、最新のバイタルから逆算した、今の『敵の急所』です」
結衣の声は震えていた。彼女は看護師というサポート要員。だが、彼女もまた、第13班の一員として地獄を共にしたのだ。
「先生は……凪先生はあんな言い方しかしないけど。あの擲弾、先生が自分でナノマシンの配合比率を微調整して、最後は指先の感覚だけで装填したんです。技術局が作った『未完成の粗悪品』を、先生が自分の命を削って『武器』に変えたんです」
結衣がシートを指差す。そこには、彼女の筆跡で、五発の擲弾を撃ち込むべき正確な座標とタイミングが、数式のように並んでいた。
「先生の視界と、私の地図。……これがあれば、きっと……!」
「……わかったわ。受け取ったわよ、結衣さん」
沙也加が結衣の肩を優しく叩いた。彼女の腰のベルトには5発の擲弾が装着されている。
「おい、いつまで油を売っている。患者の血圧が下がっているぞ。……さっさと地獄へ行ってこい」
通信機越しに響く凪の声は、相変わらず冷酷だ。だが、あかりたちにはわかっていた。その声の裏に、どれほどの焦燥と、どれほどの「生かしたい」という執念が隠されているかを。
あかりは、バッグの中に忍ばせた金沢土産の「あんころ餅」の小さな包みに触れた。
(先生が一人で背負っている絶望も、結衣さんが流した涙も。全部持って、私たちは行く)
「……行きましょう。私たちの、戦場へ」
沙也加の号令とともに、三人はダイブ・スーツのバイザーを下ろした。視界が暗転し、神経系がマシンの神経網と同期を開始する。
「ダイブ・シーケンス、最終フェーズ。……沙也加、美穂、あかり」
凪が珍しく、三人の名を呼んだ。
「死ぬなよ。お前たちが死んだら、この三日間の俺の労働が無駄になる。……それだけは許さん」
「……ふふ。先生らしいですね」
美穂が小さく微笑み、そして――身体は光の速度で、あの「黒い絶望」が待つ微細な世界へと射出された。
体外世界に取り残された結衣は、祈るように両手を組み、コンソールの前に座り込む。
横では凪が、まるで獲物を待つ蜘蛛のように、冷徹な目で数百のモニターを凝視していた。
オペレーションルームを支配するのは、嵐の前の、あまりに静かな静寂。
次にこの部屋に響くのは、勝利の咆哮か、あるいは絶望の崩壊音か。
五発の銀弾を携えた第13班の、命懸けの再挑戦が始まった。




