第30話:金沢の女医、井口美也子
金沢駅のシンボル、巨大な「鼓門」を潜り抜けた瞬間、あかりの鼻腔をくすぐったのは、雨上がりの潤んだ土と、微かに漂う潮の香りだった。
「帰ってきたんだ……」
「本当に綺麗な街ね。空気がしっとりしてるわ」
感嘆の声を漏らす美穂と、観光気分を律するように周囲を警戒する沙也加。
そんな三人を出迎えたのは、スーツ姿の一人の女性だった。
「NBRC附属病院の皆さんですね。金沢微細医療センターの井口美也子です。遠路はるばる加賀までようこそ」
ふわりと花が咲くような笑み。
金沢には井口という女医がいるーー3人は凪の言葉を思い出した。
井口美也子は、あかりが想像していた「凪の知人」という刺々しいイメージとは裏腹に、驚くほど穏やかで知的な美貌の持ち主だった。
センターへの移動車中、美也子は助手席から振り返り、後部座席の三人に視線を投げた。その瞳は笑っているが、奥底にはスキャナーのような鋭さが潜んでいる。
「まずは、オペレートリーダーの早乙女さん。インビジブル戦での精密な狙撃、記録で見ました。素晴らしい……と言いたいところですが、少々『凪色』に染まりすぎていませんか?」
「……え?」
沙也加が微かに眉をひそめる。美也子は楽しげに言葉を継いだ。
「あの状況で味方を盾にしてでも撃ち抜く判断。それは一見合理的ですが、バックアップの信頼関係を数値化できていない証拠です。あなたの論理は、彼という『絶対的な正解』に依存しすぎている。今のままでは、彼がいない戦場で、あなた自身が論理崩壊してしまいますよ?」
「……っ」
沙也加が言葉を詰まらせる。反論の余地を与えない、静かだが辛辣な指摘。
「次に、シールド・オペレーターの如月さん。あなたの慈愛は素晴らしいわ。でも、戦場での自己犠牲は、時に医師への最悪な甘えになります。あなたが傷つけば、コマンドドクターの計算式に余計な変数が一つ増える。優しさを免罪符に、チームの効率を下げてはいませんか?」
美也子の笑顔は崩れない。美穂は困ったように微笑みながらも、その言葉に宿る熱量に、ただの嫌味ではない「何か」を感じ取っていた。
「そして、アタッカーの天宮さん」
最後に名指しされ、あかりは背筋を伸ばした。
「あなたの『ハミング・ソナー』。非常に泥臭くて、医学的根拠よりも執念が勝った、ひとことで言えば蛮勇ね。……でも、故郷に戻って気が緩んでいるのなら、今のうちに東京へ帰ることをお勧めします。私の現場では、運任せの奇跡は、無能な怠慢と同じ意味ですから」
三人が沈黙する中、美也子は窓の外を流れる金沢の街並みに目を向けた。
「……凪宗一郎という人は、昔からそうでした。人の努力を『ゴミ』だと笑い、絶望の淵でようやく使い物になる欠片だけを拾い上げる。私も20歳の時、散々罵倒されました。『お前のオペレートは死体のダンスより価値がない。さっさと辞めて、せめてその理屈を医術に活かせ』とね」
美也子の声には、かつての凪に対する確かな憎しみと、それ以上の深い敬意が混ざり合っていた。
「私はそれからすぐ、オペレーターを辞めました。そして、彼が持っていない『普通の人間』の苦しみと限界を理解する、コマンドドクターになる道を選んだんです」
彼女が振り返る。その瞳には、地方の微細医療を守り続けてきた者特有の、静かな情熱が宿っていた。
「ここは東京のような充実した設備も、凪宗一郎という奇跡もありません。あるのは、一秒でも長く生きようとする患者と、それに応えようとする地道な医術だけです。……さあ、着きましたよ」
車が止まったのは、古都の景観に溶け込むように建てられた、重厚な医療センターだった。
「二週間、しっかり可愛がってあげますから。覚悟してくださいね?」
美也子の完璧な笑顔。それは、凪の冷徹さとは別の意味で、あかりたちに戦慄と――そして、新しい「強さ」への予感を与えるものだった。




