第28話:瞳に映る明日
激闘から一夜明け、微細医療局にはいつもの平穏が戻っていた。
あかりは一人、病院の屋上へと足を運んでいた。そこは、遮るもののない空が広がり、地上の喧騒が遠く潮騒のように聞こえる場所だ。
「……空って、こんなに広かったんだ」
手すりにもたれ、あかりは目を細めた。
体内世界の暗闇の中で、音だけを頼りに死神と対峙したあの緊張感。今、網膜に映る鮮やかな青空が、自分たちが守り抜いた「日常」そのものであることを実感する。
ピアニストの藤崎ルナは、順調に回復に向かっているという。彼女が再び鍵盤を叩く時、そこにはどんな旋律が流れるのだろう。
「――光化学スモッグと紫外線に、そんなに見惚れる価値があるか?」
聞き慣れた、低くて気怠げな声。
驚いて振り返ると、そこには白衣のポケットに手を突っ込んだ凪が立っていた。
「な、凪先生! 先生が地上にいるなんて珍しいですね」
「……空調の調子が悪い。外気を吸いに来ただけだ」
凪はあかりの隣に並ぶと、相変わらず不機嫌そうな顔で遠くを見つめた。
「第1班との合同訓練、インビジブルの撃破。……お前は、俺の予想以上に早く『こちら側』の住人になったな」
「こちら側……ですか?」
「英雄気取りの兵士じゃない。泥に塗れても患者を救う、業の深いドクターの仲間入りだと言ってるんだ」
凪はそう言うと、ポケットから無造作に紙包みを取り出し、あかりに押し付けた。
「……やる。昨日の分の報酬だ」
「えっ、羊羹ですか?」
「開けてみろ」
あかりが慎重に包みを解くと、そこにあったのはいつもの羊羹ではなかった。
それは、老舗菓子屋の銘が入った、瑞々しくも重厚な「きんつば」だった。
「これ……高級な和菓子じゃないですか! どうしたんですか、これ」
「たまたま目に入っただけだ。……お前たちの『甘味』への執着には、俺の計算も狂わされるからな」
凪は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
あかりはさっそき一切れを口に運んだ。
上品な小豆の甘さが、疲れの残る体に染み渡っていく。
「美味しい……。先生、ありがとうございます!」
「……フン」
凪は小さく鼻を鳴らすと、踵を返して出口へ向かった。
「食ったらすぐに戻ってこい。第2班の復帰プログラムに、お前のソナー・データが必要だ。……休みは終わりだぞ、あかり」
「はいっ!」
あかりは去り行く凪の背中に、力強く答えた。
最強のライバル、頼もしい仲間、そして不器用で誰よりも熱い信念を持つリーダー。
この場所で、自分にしか奏でられないメロディが、きっとある。
あかりはもう一度、広い空を見上げた。
瞳に映るのは、不確かな明日。けれどその瞳には、どんな「見えない絶望」をも射抜く、確かな光が宿っていた。




