第12話:病院の夜話
地下四階、第13微細医療班・オペレーションルーム。
地上の一般病棟が消灯時間を過ぎ、夜の静寂に包まれる頃。第1班から第12班までが三交代制のシビアなローテーションで動く中、第13班はローテーション外の予備として「日勤・夜勤」という変則勤務についている。この日は班が発足して初めての夜勤だった。
「……ふわぁ。さすがに、この時間は静かですね」
あかりは、冷えた緑茶の入った紙コップを手に、メインモニターを見つめていた。
簡易ベッドでは凪が、ソファーでは沙也加と美穂が、束の間の仮眠をとっている。昼間の激しい訓練の熱が嘘のように、電子機器の駆動音だけが規則正しく響いていた。
「お疲れ様、あかりちゃん。夜勤は初めてだっけ?」
コンソールデスクでログの整理をしていた結衣が、眼鏡を外して微笑みかけた。
「はい。夜の病院って、もっとこう……ドラマチックな緊迫感があると思ってました」
「ふふ、何もないのが一番なのよ。それによくある心霊話もないしね。でも……」
結衣はふと視線を落とし、手元のタブレットに表示されている「未帰還者・BD化リスト」を指でなぞった。
「夜になると、時々思い出すの。私たちが間に合わなかった人たちのことを」
結衣のトーンがわずかに落ちた。それは怪談の始まりのような芝居がかったものではなく、現場を見続けてきた看護師としての、重い現実の響きだった。
「あかりちゃん。バルバルスデッド(BD)……その本当の恐ろしさを、学校の教本やビデオ以外で見聞きしたことはある?」
「友達のお父さんが、治療が間に合わなくてBD化したという出来事がありましたが、実際に自分の目の前で見たことはないです……」
「そうなんだ……。あれはね、ただの化け物じゃないの。『本人の記憶と声を持ったまま、愛する人を食らう化け物』なのよ」
結衣は語り出した。
一度BD化が始まれば、バルスは宿主の脳神経をジャックし、捕食のためにその人間の「一番愛されている姿」を利用する。
「あるお母さんの症例だったわ。BD化した彼女は、病室に駆けつけた幼い娘さんの名前を呼びながら、その手で娘さんの喉を狙った。バルスは知っているのよ、人間が何を一番躊躇するかを。……結局、そのお母さんは病院のBD処理班によって『処分』された。救命じゃなく、殺処分よ」
あかりの手の中の紙コップが、微かに震えた。
「残されたご家族は、一生背負うことになる。『お母さんに殺されかけた恐怖』と、『お母さんを殺してもらうしかなかった罪悪感』。社会も残酷よ。BDを出した家は、未知の感染源として差別され、家を追われることもある」
「そんな……救われなさすぎます」
「ええ。だからこそ、凪先生はあんなに口が悪いのよ。命を救うのは当たり前。BD化する前に、『人間として死ぬことさえ許されない絶望』から引き剥がす。それが私たちの本当の仕事なんだって」
夜の病院。壁一枚隔てた先には、死よりも残酷な末路と戦っている患者たちがいる。
病院の怪談では済まされない、バルスの脅威がもたらす現実の恐怖。
あかりは、モニターに映る無数のバイタルデータを見つめ直した。それらは単なる数字の羅列ではなく、守るべき「誰かの日常」そのものなのだ。
「……私、絶対に『処分』なんてさせません。ハミングバードは、そのためにあるんだから」
あかりの言葉に、結衣は優しく頷いた。
「いい目になったわね、あかりちゃん。……さあ、少し休んで。明け方は一番、バルスの活性が上がる時間だから」
あかりは自分の席に座り、膝の上で拳を握りしめた。
暗い通路の向こうに、化け物の影が見えるような気がした。けれど、今のあかりには、それを打ち砕くための光と、共鳴する仲間たちがいる。
決意を新たにするあかりの背後で、仮眠中のはずの凪が、薄く目を開けて彼女の背中を見つめていた。その瞳には、かつて自分が救えなかった誰かの面影と、新しく灯った小さな希望が映っているようだった。




