第9話:朝靄のライバルと沈黙の肖像
「……ふぅ、よし。あと一セット!」
病院の近くにある独身寮の周辺。
朝五時の冷たい空気を切り裂いて、あかりはランニングの最終スパートをかけていた。
体内ミクロの世界は水中での動きと同じになるから、心肺機能の強化と体幹の安定はオペレーターにとって呼吸と同じくらい欠かせない「基礎」だ。
汗を拭いながら寮に戻ると、自動ドアが開いた瞬間、ロビーで刺すような緊張感があかりの肌をなでた。
「おはよう……随分と余裕ね、沙也加。第13班なんていう『ゴミ捨て場』のリーダーに就任して、優雅に朝の散歩かしら?」
ロビーの中央。トレーニングウェア姿の沙也加が、一人の女性と対峙していた。
相手は、緩やかに巻いた金髪に近い茶髪を揺らし、仕立ての良い服を着こなした攻撃的な美貌の持ち主だ。
「……おはよう、エリカ。相変わらず朝から元気ね」
「当たり前よ。私は第3班の前衛として、今日は難易度Aのオペに臨むんだから。どこかの新米チームとは格が違うの」
皮肉混じりの言葉を交わしながら睨み合う二人。火花すら見えそうな状況に、あかりは思わず二人の間に割って入った。
「おはようございます。あの……沙也加さん、どなたですか?」
女性は、あかりの姿を頭の先からつま先まで、品定めするように眺めると、ふんっと鼻で笑った。
「あなたが例の新人? ……せいぜいリーダーの足を引っ張らないようにね。未熟な駒から順に、あそこで写真になるのがこの世界のルールなんだから」
彼女はそれだけ言い捨てると、高いヒールの音を響かせて去っていった。
エリカが言い残したルールの意味がわからず、あかりは首を傾げる。
「……はぁ。朝から疲れるわね」
沙也加が深く溜息をつき、肩の力を抜く。
「おはよう、あかりさん。今の人は藤堂エリカ。第3班のオペレーターで、私の同期で訓練学校時代からの……腐れ縁よ。本当は第13班のリーダー候補、彼女と私で争っていたの。私が選ばれたのが、相当面白くないみたい」
「第13班は予備のはずなのに、そんなに執着するもんなんですか?」
「エリカは上昇志向が強いから。どんな形であれ、自分が『選ばれなかった』ことが許せないのよ」
沙也加は少し表情を曇らせると、「気を取り直して、あなたに見せたいものがあるの」とあかりを促した。
向かったのは、病院敷地内の北端。木々に囲まれ、ひっそりと佇む小さな白い建物だった。
「ここは?」
「――殉職者追悼室」
沙也加が重い扉を開くと、そこには線香の香りと、数十枚に及ぶ「笑顔」が並んでいた。
かつてバルスと戦い、散っていったオペレーターたちの遺影。
ある者はバルスの攻撃を受けて致命傷を負い、ある者は代謝限界を超えて宿主の白血球に飲み込まれた。ミクロの世界で消滅した彼女たちの遺体は、この世のどこにも残っていない。
先ほどエリカの言い残した「写真になる」という言葉の意味を、あかりは理解した。
「今の微細医療は、全部ここにある彼女たちが命をと引き換えに残したデータの上に積み上げられたものなの」
あかりは、自分と歳の変わらない少女たちの写真を見つめた。
人々を守る戦いの裏側にある、あまりにも残酷で、けれど尊い犠牲。
「バルスが現れてもうずいぶん年数が経つけれど、未だに患者の体外からバルスを駆除する方法はない。私たちが行くしかない。さっきのエリカの言い方はきつかったけど……事実は事実よ。一歩間違えれば、私たちもここに並ぶ。……それでも、行く?」
沙也加の問いに、あかりは遺影の一枚一枚をしっかりと目に焼き付け、力強く頷いた。
「はい。彼女たちが繋いでくれたバトン、私が落とすわけにはいきません。……救いに行きましょう、一人でも多くの人を」
あかりの瞳には、朝陽よりも熱い決意が宿っていた。




