4.日常の延長線
料理を食べ終える頃には、店内の客も少しずつ入れ替わっていた。
仕事終わりらしい作業着姿が増え、探索者同士の短い会話が飛び交う。さっきまであった、どこか浮いた空気は薄れ、店はただの街の一部に戻っていく。
リオルは最後まで丁寧に箸を動かし、空になった皿をしばらく眺めていた。
名残惜しそう、というほど大げさではない。ただ満腹というより、ひと区切りついた、という顔だった。
「……ごちそうさま」
小さく言って、箸を揃える。
腕の中のシャルも、いつの間にか不満そうな表情をやめ、丸くなって静かにしていた。
会計を済ませ、店を出る。
外はすっかり夕方の空気で、空の色は低く、少し鈍い。人の流れは相変わらず多いが、昼間ほどのざわつきはない。
「宿に案内する」
久遠がそう言うと、リオルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから素直に頷いた。
歩き出してすぐ、久遠は気づく。
リオルとの距離が開いていた。足が遅いわけではない。ただ、きょときょとと物珍しそうに周囲を見ている。信号、看板、店の明かり。どれも確認するように視線を向けている。
(……珍しいものでもないはずだがな)
通りを一本外れ、探索者向けの簡素なホテルへ向かう。派手さはないが、ゲートから近く、料金も安い。久遠自身も、必要な時に何度か使ったことがある場所だ。
途中、すれ違った探索者の視線が、一瞬だけリオルに向く。
白いローブが目立つせいもあるが、それだけじゃない。
視線が引っかかり、理由を掴めないまま、判断を保留して通りすぎるような。
(……視線が集まりすぎるな)
久遠は歩調を変えず、自然な動きで立ち位置を少しだけ前にずらした。
ホテルの前に着く。
受付は簡素で、探索者用の登録も最低限だ。身分証と簡単な確認だけで済む。慣れた流れで、久遠が先に手続きを進める。
リオルは、ロビーの隅で落ち着かない様子のまま立っていた。
周囲を見回しては、視線を戻し、また同じ場所を見る。待たされているというより、判断を委ねている態度だった。
「……今日はここにいろ」
久遠は鍵を受け取りながら言った。
「代金はこちらで払う。明日の朝また来るから、それまで外に出るな」
少し強めの言い方になったが、リオルは反発せず、むしろ安堵したように頷いた。
「分かった」
その返事が、妙に素直だった。
部屋の前まで案内し、最低限の説明だけを済ませる。
リオルが乗り込んだエレベーターが閉まるのを見届けてから、久遠は踵を返した。
(……何やってるんだ、俺は)
素性不明。鑑定不能。持ち物は異常。危険要素はいくらでもある。
それなのに、不快感がない。
むしろ、どこか懐かしい感覚が、胸の奥に残っていた。
理由は分からない。
ただ、あの世界に踏み込んだ時と同じ、静かな引っかかりだけがある。
(……アクイムに、触ってる時と似てるな)
久遠は一度だけ振り返り、ホテルの灯りを見上げた。
面倒事のはずだ。それでも、もう関わってしまったという実感だけは、はっきりとあった。
◇◇
一方その頃ーー
ホテルの一室で、リオルは静かに窓の外を眺めていた。
扉を閉めると、外の音がすっと遠のく。人の気配はあるが、壁の向こうに押し込められていて、直接触れてこない。落ち着く、と判断していい空間だった。
仕組みも分かりやすい。
寝具。洗い場。温度を調整できる水。鍵の概念。
細部は違うが、根本は彼の知っている「宿」と大差ない。
リオルは少しだけ手順を間違えながらも、シャワーを浴びた。
水の温度を上げすぎて、すぐに下げる。髪を洗う順番に迷い、結局もう一度流す。
(……まあ、いいか)
濡れた髪を拭き、ローブを脱いで、用意されていた服を身につける。布の感触は悪くない。機能的で、主張がない。鏡に映る自分を一度だけ見て、すぐに視線を逸らした。
ベッドに腰掛ける。
柔らかい。沈み込みすぎない。
リオルはそのまま、少しだけ背中を丸めた。
足元では、白い猫――シャルが丸くなっている。
環境に文句を言うかと思ったが、意外にも静かだった。
「ねぇ、シャル」
声は小さかった。誰に聞かせるでもない調子。
「不思議な人だね」
シャルの耳が、わずかに動く。
「……ふふ」
リオルは、少しだけ笑った。
「急だったのに、放っておかなかった。警戒してたのに、切り捨てなかった。ああいう距離の取り方、久しぶりに見たよ」
ベッドの縁に指をかけ、考える。
「たぶん、自分でも理由は分かってないんだろうね。でも、面白い判断をする」
「……にゃあ」
シャルが、半目でこちらを見る。
呆れたような、諦めたような鳴き声。
「うん、分かってる」
リオルは頷いた。
「いいよね。彼」
ふふ、とリオルは笑う。
「世界の見方が、少しだけ歪んでる。ちゃんと立ってるのに、どこにも属してない感じ」
シャルは尻尾を揺らし、何も言わない。
「……会えてよかった」
それだけ言って、リオルは背中を倒した。
天井を見上げ、目を閉じる。
この世界は、まだ浅い。でも――人は、思ったよりずっと興味深い。
◇◇
翌朝。
目覚ましが鳴るより先に、端末が震えた。
枕元に置いていた端末を、半目のまま手繰り寄せる。画面を点けた瞬間、通知が二つ並んでいた。
ひとつは、探索者ギルドから。買取査定の進捗と、今日中に来てほしいという事務的な文面。予想通りだが、朝一番に見ると気分は良くない。
もうひとつは、個人メッセージ。
――《昨日の連れ、誰?》
短い一文。送り主の名前を見て、久遠は小さく舌打ちした。
「……誰の連れだよ」
声に出してから、無視する。だが既読だけは付いた。付いてしまったものは仕方ない。
昨日のことを、頭の中でなぞる。白いローブ。銀色の髪。街中でも嫌というほど目を引く見た目。あれで「目立たない」は無理がある。実際、視線は集まっていたし、声をかけられなかっただけで見られてはいた。
(そりゃ、話題にもなるか)
探索者同士の距離感は近い。特に、ダンジョン区画周辺は噂が回るのが早い。誰がどこで何をしていたか、知らないうちに共有されている。
問題は――。
(……着替えさせるか)
思考が、自然とそこへ行く。昨夜はホテルに放り込んで終わりだった。深く考える前に眠気が勝ったのも事実だ。だが今日このまま外を歩かせるのは、さすがに目立ちすぎる。
それに。
(あいつを、どうしたいんだ)
自分に問いかけてみても、答えは出ない。
助けたつもりはない。放っておけなかった、というほど感情的でもない。気づけば声をかけていて、流れで飯を食わせて、宿を取った。それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない……はずだった。
ベッドの上で上体を起こし、ストレージを呼び出す。昨日受け取った小さなガラス瓶。淡い青の液体が、朝の光を反射している。
久遠は、もう一度鑑定を走らせた。
【回復ポーション】
ランク:■■
やはり、見えない。
レベル不足の感覚はある。だが、ここまで完全に遮断されるのは異常だ。情報が弾かれる、というより、最初から「触れさせない」ような感触に近い。
「……ほんと、なんなんだよ」
小さく呟いて、瓶を戻す。
寝起きの頭では、どうにも考えがまとまらない。理屈を組み立てる前に、感覚だけが引っかかっている状態だ。こういう時に無理に結論を出すと、大抵ろくなことにならない。
久遠は立ち上がり、シャワーを浴びに向かった。
湯気の中で、頭を空っぽにする。熱い湯を浴びると、余計な思考が一度流れていく。呼吸が整い、ようやく「考える準備」が整う。
(まず、今日やること)
ギルドに行く。買取の続きを終わらせる。その足で、ホテルに寄る。
(動くなって言ったけど……)
あの様子なら、言いつけは守っているだろう。守っていなかったとしても、驚きはしない。
次に、服。
最低限、街に溶け込む格好は必要だ。派手でなければ何でもいい。ローブは、目立ちすぎる。
そして――。
(……何者か、少しは分かるか)
そこまで考えて、久遠は一度思考を止めた。
昨日もそうだった。考えれば考えるほど、深みに入る。だから、今は順番を守る。
身体を拭き、服を着る。いつもの動作。いつもの朝。
なのに、どこか落ち着かない。
端末を手に取り、ギルドからの通知をもう一度確認する。その下に、未返信のメッセージが並んでいるのが目に入った。
――《で、誰?》
久遠は画面を伏せ、溜息をついた。
「……知らねぇよ」
そう呟きながらも、頭の中には昨日の淡い瞳が浮かんでいる。
関わるつもりはなかった。面倒事は避ける主義だ。
それでも。
(……気になる)
その事実だけは、どうやっても否定できなかった。
久遠は鍵を取り、部屋を出る。
エレベーターを待ちながら、心のどこかで覚悟を決めていた。
今日は、昨日の続きになる。
ただそれだけの話だ――そう、自分に言い聞かせながら。




