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3.白い異邦人

その日は、最初からついていなかった。


ダンジョンからの帰り道、装備についた汚れを落とすために、久遠は一度だけ寄り道をした。汗と埃を流し、気分を切り替えてから換金所へ向かうつもりだった。普段なら、それで問題はない。だがその日は、判断を一つ誤った。


列は思った以上に伸びているのに、ほとんど進んでいない。カウンターの向こうでは職員が頻繁に奥と行き来していて、査定用の台もいくつか空いたままだった。


(……遅いな)


普段なら、この時間帯はもっと回る。

久遠の前に並んでいた探索者が、小さく舌打ちをした。


「今日、なんなんだよ」

「さあ……なんか揉めたらしいっすよ」

「揉めた?」

「買取。変なの持ち込んだ奴がいたって」


変なの、という言い方に幅がありすぎる。

久遠がカウンターに呼ばれたのは、それからしばらく経ってからだった。


「お待たせしました。……あの、こちらの素材なんですが」


受付の職員は、画面を確認しながら言葉を選んでいる。

嫌な予感は、こういう時に限って当たる。


「鑑定できる担当者が、今日は査定が立て込んでいて」

「つまり、明日になる?」

「……はい。申し訳ありません」


(当たりか)


久遠は溜息を飲み込み、頷いた。


「じゃあ明日でいい」


本来なら休む予定だった日が潰れる。それだけの話だ。

だが、換金所全体に漂う妙な空気だけは、どうしても引っかかった。


換金所を出た久遠は、小さく息を吐いた。日は傾き始め、人の流れも少しずつ変わっている。探索者と一般人が混ざり合い、境目が曖昧になった街の空気は、相変わらず落ち着かない。


その時だった。


視界の端に、妙に白いものが映った。反射的に視線を向ける。

街角のベンチ。そこに、一人の男が座っていた。


白いローブ。銀に近い淡色の髪。整いすぎているほど整った顔立ち。年齢は掴みづらい。若くも見えるし、そうでない気もする。全体的に、現実味が薄い。


膝の上には、白い猫がいた。種類には詳しくないが、日本でよく見る猫とは違う。男は猫に向かって、何か話しかけている。声は届かない。だが、口の動きだけははっきり見えた。


――独り言か。


最近は、変わった探索者も多い。覚醒の影響で感覚が歪んだ者もいるし、奇抜な格好も珍しくない。白一色の装備も、今さら目立つほどではない。


それでも。


久遠の足は、自然と止まっていた。


馴染んでいる。街の景色の一部として成立している。

なのに、浮いている。そこだけ輪郭が曖昧で、視線が引っかかる。


久遠は、無意識に鑑定を走らせていた。


瞬間、弾かれた。


「……っ」


情報が入ってこない。

人に鑑定をかけること自体が危険なのは承知している。だが、ここまで何も返らないのは初めてだった。レベル差があれば、引っかかりくらいは残る。それすらない。


白い猫が、そっと顔を上げる。

久遠を見返す視線が、妙に静かだった。ただの動物のそれとは、少し違う。


――誰だ。


久遠は表情を動かさない。距離を詰める速度だけを落とす。男は逃げる様子もなく、猫を撫でたまま、わずかに眉を下げている。


近づくと、低い声が聞こえた。


「……どうしようかな」


日本語だった。少しだけイントネーションが違う。馴染みきっていないが、不自然でもない。

久遠は足を止める。


普段なら、関わらない。面倒事は避ける。それが自分のやり方だ。理屈より先に、身体が反応している。それでも足は動かない。視線だけが外れない。

久遠は肩をすくめ、雑に軽さを作った。


「……大丈夫か」


声をかけた瞬間、男が顔を上げた。


淡い色の瞳が、まっすぐ久遠を見る。逃げもしないし、誤魔化しもない。けれどその奥に、ほんのわずか、息をついたような緩みがあった。


「……うん」


短い言葉だった。

胸の奥が、ざわつく。厄介なものに触れた感触だけが残る。それでも、踵を返す気にはならなかった。


「……何か、迷ってる?」


男は一拍置いてから、猫を抱き上げた。


「うん。ちょっと、分からなくなって」

「どこへ?」

「……帰り道、かな」


曖昧な言葉。だが、困り方だけは正直だった。


白いローブの男。整いすぎた顔。腕の中で静かな白猫。

猫の視線が、人を見るそれに近い気がして、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


「この辺りは探索者が多い。夜は面倒になるぞ」


探るような警告。

男は否定も肯定もせず、周囲を見回した。


「……そう?」


危険を理解していない、というより、心当たりがない反応。


「でも、ここは面白いね」


評価でも感想でもない。事実を置くような言い方だった。


「探索者か?」

「似たようなことはしてる」


間があった。

定義を測っているような間。


「ダンジョンには?」

「行った。少しだけ」


男は視線を落とし、短く考えた。


「……まだ浅いね」


ぽつりと零れ落ちた言葉に、久遠は呼吸を整えた。

この言葉を、自然に使える人間は多くない。


「危険だとは?」

「そう?」


とぼけたように笑う。

視線が、わずかに揺れた。


久遠は距離を一歩分、調整する。


「宿はあるのか」

「まだ」


焦りがない。

それが一番厄介だった。


「……探索者向けのホテルがあるが、紹介は必要か?」

「……私は……いや、助かる」


何事かを考えこむような様子を見せたが、否定するように言葉を切ってから頷く。


「名前、聞いても?」

「リオルでいい」

「久遠だ」

「クオン」


発音は違うが、迷いはなかった。


立ち上がろうとしたリオルが、動きを止める。


「……あ」


小さな声。

猫を抱き直した拍子に、腹のあたりから音が鳴った。


――ぐう。


沈黙。


数秒後、リオルは軽く咳払いをした。


「……歩く前に、何か食べられると助かる」


声が、少し低い。


「……何も食べてないのか?」

「歩いてたら、ここにいた」


説明になっていない。猫が、にゃあと鳴いた。


「もう少し」


真剣な顔で猫に返す。警戒は消えない。

だが、何かがわずかに緩んだ。


「……先に、飯にするか」


言葉は、思ったより自然に出た。


「いいの?」

「腹減ってる探索者を放置する趣味はない」


半分は本音で、半分は誤魔化し。

リオルは一拍置いて、ふっと笑った。


「助かる」


その笑顔は、さっきより無防備だった。

強者の気配。謎だらけの正体。それでいて、腹を空かせて照れる。


違和感しか感じない相手なのに、どこか放ってはおけない。


(――やっぱり厄介だ)


久遠は歩き出しながら、そう思った。




久遠が店を選んだのは、単に一番近かったからだ。


派手さもなく、観光客向けでもない。探索者と作業着姿の客が混じる、ごく普通の定食屋。昼時を外しているせいか、店内はほどほどに空いていた。


「ここでもいいか?」

「構わない」


そう答えたリオルは、暖簾をくぐる前から落ち着かない様子だった。視線が店の奥へ向いている。腕の中の白い毛玉――猫も、そわそわと身じろぎしている。


(……入れないって言いづらいな)


猫は飲食店には入れない。そう言おうとして、久遠は言葉を飲み込んだ。

理由はすぐに分かった。視線の先、カウンター席を占領するように、店の猫らしき住民が丸くなっている。


久遠は一言だけ、店主に投げかけた。


「猫、大丈夫か」


奥から顔を覗かせた店主は、気にする様子もなく頷いた。それで十分だった。

席に着き、注文を済ませる。


久遠が奢ると言うと、リオルは一度首を振った。


「いや、それは……」

「気にしないでいい。これでも稼いでるほうだ」


そう言われて、リオルは少し困ったように黙り込んだ。だが、やがて意を決したようにローブの内側へ手を入れる。


「では……これを」


差し出されたのは、小さなガラス瓶だった。

中には、淡く光を反射する液体が入っている。色は澄んだ青。濁りが一切ない。


久遠は反射的に鑑定を走らせた。


【回復ポーション】

ランク:■■


……読めない。


文字化けではない。

読み取るための“段階”が、足りていない。


(またか)


違和感が、はっきりと形を持つ。


「……」

「ポーションだから安心して。軽いケガなどに使ってくれればいい」


久遠は何も言わず、瓶を見たまま視線を落とす。

リオルは、少し言いづらそうに続けた。


「品質は……最低限治ると思う」


その言葉で、久遠は内心で乾いた笑いを漏らした。


鑑定が通らない時点で、ありえない。

少なくとも、自分の知る範囲の“高品質”を遥かに超えている。


「……これ、使っても?」

「もちろん」


久遠は一瞬考え、瓶をストレージにしまった。


「……分かった。じゃあ、ありがたく」


リオルは、ほっとしたように微笑んだ。

その様子を見て、久遠は確信を強める。


(悪意はないな)


それは確信に近い。

同時に、普通でもない。


料理が運ばれてくる。

定食の湯気が立ち上り、香ばしい匂いが広がった瞬間、リオルの表情がはっきり変わった。


目が、分かりやすく輝いた。


「……すごい」


小さな感嘆。

見るからに日本人ではない相手だ。箸を取る動きはどこかぎこちない。それでも、ひと口食べた瞬間、はっきり分かるほど表情が緩んだ。


「……美味しい」


心底そう思っている声だった。久遠は、それを横目で見ながら、黙って自分の皿に手を伸ばす。


足元では、白い猫――シャルと呼ばれたそれが、用意されたねこまんまを前に不満そうな顔をしている。


「……にゃ」


抗議するような声。


「シャル、贅沢は言わない」

「にゃあ」

「後で、ちゃんとしたものを用意するよ」


納得していない様子で、猫はしっぽを揺らした。久遠は、そのやり取りを見て、思わず口元を緩めた。


「……猫も、食にうるさいのか」

「すごく」


即答だった。


食事が進むにつれて、リオルの緊張は少しずつ解けていった。箸の動きが早くなり、味についてぽつぽつと感想を漏らす。どれも大袈裟ではなく、素直な言葉だった。


久遠は、それを聞きながら、頭の中で情報を整理する。


鑑定が通らない存在。最低限だと言い切る、異常なポーション。

ダンジョンを“浅い”と評する感覚。そして、定食に本気で感動する、この反応。


(矛盾だらけだな)


「……リオル」


呼びかけると、リオルは箸を止めて顔を上げた。


「はい?」

「どこから来た」


真正面からの質問。

リオルは、一瞬だけ言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから穏やかに答えた。


「……遠いところから」


嘘ではない。だが、答えにもなっていない。

久遠は、それ以上踏み込まなかった。


今は、まだいい。

――この違和感が、どこへ繋がっているのか。


それを見極める時間は、これから嫌というほど与えられる。

なぜか、そんな確信だけが、静かに胸に残っていた。


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