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1.アークヘイム・オンライン

――アークヘイム・オンラインというゲームが、あった。


久遠は今でもはっきり覚えている。あのゲームに初めて触れた時の、言葉にできない違和感を。


ARKHEIM(アークヘイム)ONLINE(オンライン)》。通称、アクイム。


剣と魔法の世界、中世風の街並み、モンスター、ダンジョン、職業。表面的には、どこにでもあるファンタジー系オンラインゲームだった。

でも――入った瞬間に思った。


――妙に、重い。

処理落ちやラグの話ではない。世界そのものに確かな質量があるような感覚だった。

視界の端に映る建物も、人の気配も、単なる背景として流れていかない。人の気配が、演出として消えない。

ただ配置されているのではなく、そこにあって、時間の中に残っている。


フルダイブが当たり前になって十数年。

意識だけをネットワークに接続する技術は、もう珍しくない。久遠も、そういう世代だった。


それでも、アクイムは違った。


現実と仮想の間には、普通は差が残る。

触感の遅れ。匂いの薄さ。どこか曖昧な手触り。「これは現実じゃない」と、ふと意識させられる瞬間。


だが、アクイムには、それがほとんどなかった。香りも、触感も、味覚も、現実との差異を見出せないほどに再現されている。五感は現実とほぼ変わらず、痛覚ですら完全には切り離されていなかった。これではもう一つの現実だと言われても違和感はない。


(……これ、ゲームだよな?)


そう思わせるくせに、その感覚を否定するかのように視界の端にはステータス表示が浮かび、世界はどこか機械的なルールに従って処理されている。だからこそ、これはゲームなのだと理解できる。


視界の端、半透明のウィンドウ。ステータス、ログ、クエスト。無機質な情報が、淡々と並ぶ。

だから理解できる。理解はできるのに、納得がいかない。


クオリティが高い。没入感がすごい。そう言って済ませるには、何かが引っかかった。


特にーー死の扱いだ。

プレイヤーは死ねば復活する。

ただし代償は軽くない。経験値が削られ、ステータスにペナルティが入り、装備は壊れる。

レベルが高いほど損失は重く、場合によっては取り返しがつかない。


一方で、NPCは違う。

死ねば終わり。復活しないし、都合よく入れ替わらない。


それが設定文ではなく、空気として徹底されていた。誰かが欠ければ、そのまま欠けた状態で世界が進む。


NPC殺しは重罪。繰り返せば、世界そのものから敵と見なされる。

やがて現れるのは、個人ではまず太刀打ちできない“執行者”。


当時は、運営の演出だと思っていた。世界観を守るためのギミック。そう納得していた。

でも今思えば、もっと単純な話だったのかもしれない。


――越えてはいけない線が、最初から引かれていた。


久遠はアクイムの初期からそこにいた。ベータテストにも参加し、仕様変更や調整のたびに、世界の変化を見てきた。


プレイヤーネームは《シオン》。

苗字を一文字変えただけの名前で、特別な意味はない。


目立つつもりはなかったが、気づけば上位に名を連ねる程度にはやり込んでいた。


自由度が高いゲームだった。

冒険でも商売でもいい。騎士でも聖職者でもいい。

明確なストーリーは、あるようでない。世界には流れがあるが、辿る道は人それぞれ。


同じゲームをしているはずなのに、遊び方がまるで違う。


シオンのプレイスタイルは基本的にソロ。探索とトレジャーハントを主軸に各地を渡り歩いた。一撃離脱、生存最優先。依頼を受け、土地に滞在し、また次の場所へ向かう。

世界を旅する、それだけで十分に楽しかった。パーティを組まないわけではなかったが、常に一人で動く方が性に合っていた。他人の判断やミスを計算に入れるより、自分の感覚だけを信じた方が楽だったからだ。


気がつけばプレイヤーよりも、各地のNPC――住人たちの方が知り合いが多くなっていた。

魔法も使えたが、あくまで補助。主軸は身体操作と反射。敵の動きを見切り、距離を測り、地形を使って生き残る。だからこそ、久遠は“見る”ことに長けていた。敵の挙動、ダンジョンの癖。そして、世界のわずかな歪み。


その中で何度も耳にする名前があった。


――大賢者カーマイン。


直接姿を見ることは、ほとんどない。関わるクエストも存在しない。だが世界の歴史や重大な事件の記録を辿ると、必ずその名だけが浮かび上がる。

存在しているのに、関わらせる気がない。あまりにも露骨な距離感。


(上手い演出だな)


当時は、そう思っていた。世界を深く見せるための背景設定。“動かせるけど、あえて動かさない存在”。


アクイムはそういう作り込みが異様に上手かった。名前だけが前面に出てくるレアなNPCは他にもいたし、幸運にもその中の数人と関わることができたこともある。


運営会社の実態が見えないことも当時は深く気にしていなかった。

ダミー企業、表に出ない開発者、課金要素のない運営。不自然ではあったが、不満はなかった。面白かったからだ。世界が、ちゃんと回っていたから。


だから誰も、本気では考えなかった。

どれほどリアルでも、この世界が現実と混ざることなんて、ありえない、と。


アクイムが突然、サービス終了を告げた日。

理由は不明。引き継ぎも移行もない。唐突に終わった。


そして、ほどなくして。現実にダンジョンが現れた。


世界が変わったと、多くの人がはっきり自覚したのは、ダンジョンが見つかるより少し前のことだった。日本時間で20××年12月31日、0時00分。年が切り替わる、その瞬間。


久遠は自宅で静かに新年を迎えていた。除夜の鐘の音がテレビ越しに流れている。画面を見ているようで、実際にはほとんど見ていなかった。


数日前に、やり込んでいたゲームが突然終わった。理由も説明もなく、ただ消えた。年末年始は腰を据えて潜るつもりで、仕事の調整までしていた。それがすべて無駄になったという事実よりも、あの世界と完全に切り離された感覚のほうが、じわじわと効いていた。


だからだろう。その表示を見た瞬間、久遠は悲鳴も声も出さなかった。


視界の端に、半透明のウィンドウが浮かんでいる。


名前:シオン(久遠玲司)

種族:人間

職業:-

レベル:1


スキル:

【★鑑定 Lv.1】

【アイテムストレージ(使用制限)】


幻覚だとは思わなかった。なぜか、「ある」こと自体はすんなり受け入れられた。


レベルは1。職業欄は空白。能力値も表示されていない。かつて積み上げてきた数値は、どこにも残っていなかった。あるのは空のストレージと、鑑定だけだ。


久遠はテレビから目を離し、ウィンドウを見つめた。


――戻ってきた。


そんな感覚が、胸の奥に浮かぶ。冷静に考えればおかしい。それでも、この時の久遠は、少しだけ嬉しいと感じていた。

同じ現象は世界中で起きていた。自宅にいた者、初詣の人混みにいた者、仕事中だった者。混乱とざわめきが一気に広がり、SNSには意味の分からない投稿が溢れ始める。


アクイムを知らない人々は、集団幻覚だ、冗談だ、悪質なフェイクだと切り捨てた。一方で、同じウィンドウを見ている者たちは、互いの存在を察し始める。


結論が出る前に、次の異変が起きた。


唐突に、門が現れた。


人の行き交う場所から、ほんの少し離れた地点だった。石でも金属でもない、不思議な物質でできた枠。装飾も文字もない。ただ門の形をして、そこに立っている。


向こう側は見えない。内側には黒とも白ともつかない濃い靄が漂っている。裏に回っても同じで、扉も奥行きもない。それなのに、確かに「向こう」がある。


発見者がSNSに投稿し、ニュースが飛びつき、人が集まった。画面越しにその映像を見ていた久遠は、無意識に息を止めていた。形は違う。だが、似すぎている。


アクイムで何度も潜ってきた、あの入り口の感覚に。


『……ダンジョンじゃないか?』


誰かの呟きが拡散されていく。

好奇心に負けた誰かが実況と称して門の中へ踏み込んだ。姿はすっと消えた。数分後、青ざめた顔で戻ってきたその人物は、震える声で言った。


『……中、あるぞ』


それで十分だった。ダンジョンは、現実に存在していた。


政府の対応は早かった。門の周囲は封鎖され、警察や自衛隊が動き、専門家を名乗る者たちがテレビに並んだ。特番が組まれ、正体不明の構造物だ、新種の災害の可能性だと、さまざまな言葉が飛び交う。


だが封鎖が意味をなさないことも、すぐに知れ渡った。門は一つではなかった。人目につかない場所にも、街の外れにも、無作為に現れる。先に見つけた者が先に入り、戻ってきた者たちは口々に同じことを言った。


「中は別の世界みたいだった」

「奥行きがある」

「変な生き物がいた」


久遠が最初にダンジョンへ足を踏み入れたのは、世間がゲートの存在を受け入れ始めてから数日後のことだ。人目を避け、まだ騒ぎになっていない門を見つけた。


近づくほど、空気が変わる。圧迫感でも恐怖でもない。ただ、自分の中の何かが切り替わる感覚があった。


門をくぐった瞬間、足裏に確かな感触が伝わる。地面があり、天井があり、奥へと続く空間があった。呼吸が深くなり、視界が冴える。身体が、妙に軽い。


視界の端に、表示が固定される。


名前:シオン(久遠玲司)

種族:人間

職業:斥候

レベル:1


STR:6

DEX:8

AGI:10

VIT:2

INT:4

LUK:30


スキル:

【★鑑定 Lv.1】

【アイテムストレージ(使用制限)】


外では見えなかった能力値が表示され、鑑定が使える。


「はは……跡形もねぇな」


乾いた笑いが漏れた。積み上げてきたものは白紙で、残っているのは最低限の形だけだ。


それでも、神経が冴え、距離感の把握が正確になる。完全ではない。アクイムの頃ほど、何でもできるわけじゃない。


それでも――戻ってきた。


それだけで、今は十分だった。


「ずいぶん、多いな?」


初期値は確か20だった。

けれど今のステータスはそれぞれ30のポイントが振り分けられているようである。LUKも覚えているよりは随分と高い。個人差の大きい数値で、通常のレベルアップではほとんど伸びないステータスだ。シオンとして遊んでいた頃も、多少高めではあった気がするが、それにしても妙だった。


それが何を意味するのか、この時の久遠には分からない。ただ数字を眺めているうちに、理由の分からない納得だけが胸の奥に残った。元から自分は、多少運がいい方だった。なら、そんなものか、と。


激変しているはずなのに、久遠にとっては数日ぶりに目にするこの表示の方が重要だった。懐かしさに近い感覚が先に来て、細かい違和感は後回しになる。今思えば、この時の自分はかなり浮き足立っていたのだと思う。


神経が冴え、距離感の把握が異様なほど正確になる。少し前まで、あの世界で当たり前に使っていた感覚だ。完全ではない。アクイムの頃ほど、何でもできるわけじゃない。


ダンジョンの内部は、外とは切り離された空間だった。音の響き方が違い、光の減衰も違う。外では鈍っていた感覚が、ここでは自然に機能する。久遠はそこで初めて確信した。これは単なる現象でも、錯覚でもない。明確な構造を持った、作られた場所だ。


政府はゲートを管理下に置こうとした。調査隊を組み、資源の持ち出しを制限し、情報を統制する。だが門の中では思うようにいかなかった。銃火器が役に立たない。理由は分からないが、使おうとすると不調が起きる。逆に、身体を使い、武器を手に取り、感覚を研ぎ澄ませる者の方がはるかに動きやすかった。


それが意味することを、久遠はまだ言葉にできなかった。ただ一つはっきりしていた。この場所では、これまでの常識がそのまま通用しない。


人々は、思っていたよりも早くそれを受け入れた。力を得た者は試し、得られなかった者は距離を取る。それでも誰もが、この世界が変わったことだけは否定できなくなっていった。ダンジョンはそこにあった。理由も説明もないまま、当たり前のように。


ダンジョンの正体について、世界はすぐに騒ぎ出した。神の仕業か、悪魔の侵攻か、異世界からの侵略か。テレビでは専門家が議論し、宗教家が警鐘を鳴らし、SNSでは終末論が飛び交った。


だが、どれも決定打にはならない。確かなことは一つだけだった。アークヘイム・オンラインとの異様なまでの一致だ。ゲートの奥に現れるモンスターは、名前も姿も動きも、どこか見覚えがある。ドロップする魔石も同じだった。色も形も用途も、かつてゲーム内で流通していたものと区別がつかない。


世界中の元プレイヤーたちは、半信半疑のまま過去の記録を掘り返した。残っていたのは、人の手で積み上げられた攻略情報だけだ。今は存在しないゲームは、誰が作ったのか。なぜ、あれほどの世界が存在したのか。


アークヘイム・オンラインの開発者を探す動きも起きたが、辿り着いた先には何もなかった。運営会社は実在せず、登録されていた企業情報も中身がない。責任者も開発者も、誰一人として表に出てこない。


課金要素のないゲームだった。広告も、ほとんど見かけなかった。それでも、あのゲームは確かに存在し、世界中に広がっていた。


――本当に、人が作ったものだったのか。


疑念だけが、後から遅れて浮かび上がる。答えは出ない。ただ一つだけ分かっていることがあった。アークヘイム・オンラインと、現実に現れたダンジョン。その間には切り離せない繋がりがある。そして、その向こう側には、まだ誰も手を伸ばせていない“何か”があった。

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