0.プロローグ
その日、空は最初からおかしかった。
雲の流れが鈍く、光の当たり方が不自然で、どこか現実の奥行きが狂っている。理由は分からない。ただ、見上げた瞬間に胸の奥がざわつき、言葉にできない違和感だけが確かに残った。
空が、壊れかけている――そんな直感だけが、はっきりとあった。
やがて、その異変は誰の目にも明らかになる。雲が裂け、光が走り、空間そのものが引き伸ばされるように揺らぎ始めた。爆音も衝撃もない。ただ、静かすぎる異常が、じわじわと現実を侵していく。
東京都心の上空。
本来なら存在しないはずの景色が、空の向こうに透けて見えていた。それは鏡のようでありながら、映し出されているのは現在の日本ではありえない街並みだ。石造りの建築、見慣れない塔、異質な色彩。それらが、空の裂け目の向こう側に、確かに“存在している”。
――ぶつかる。
そう理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
映る景色は次第に鮮明になり、その範囲も少しずつ広がっていく。このままでは、あの街並みが東京に落ちてくる。それはもはや幻想ではなく、時間の問題として迫っていた。
警報が鳴り、通信が錯綜し、地上では人々が動き始める。逃げる者、立ち止まる者、空を指差す者。混乱が街を覆う中で、しかし誰もが、ある一点に目を奪われた。
空の裂け目の中央。
光の揺らぎの中に、人の形をした何かがあった。
遠目には人間に見える。だが、近づくほどにその認識は揺らいでいく。長い髪が風もないのにゆるやかに揺れ、白いローブが境界の光を受けて淡く輝いていた。背後には、幾何学とも神代文字ともつかない紋様が、ゆっくりと浮かび上がっている。
浮いている、のではない。
そこに立っているのだ。まるで、空という場所が最初から足場であったかのように。
その存在は、静かに腕を上げた。指先が触れたのは、崩れかけた世界の境界。重なれば破壊しか生まれなかったはずの、脆い接合点だった。
次の瞬間、光が舞う。
眩しさではない。柔らかく、温度を持った輝きが、読み取れない幾何学模様のようなものを散りばめながら粒子となって広がっていく。それに触れた空間は軋むこともなく、静かに、しかし確実に“広がっていった”。
圧迫感が消える。
押し潰されるはずだった街が、違和感のない形でそこに収まっていく。建物も、人も、道路も、何一つ欠けることなく。
それは破壊ではなかった。融合ですらない。
小さすぎた器を、中身を壊さないよう慎重に拡張する――そんな行為に、あまりにも似ていた。
誰かが、呆然とした声で呟いた。
「……そんなこと、できるのか……」
別の誰かが、震える声で名を呼ぶ。
「大賢者……」
それは問いだったのか、確認だったのか。だが、その名を知る者たちの間に、ざわめきが広がっていく。
「大賢者リオル・カーマイン……!」
その名は、知らない者には意味を持たず、知っている者には、信じがたい重さを伴って響いた。
名を呼ばれた存在は振り返らない。ただ一度、空を見渡し、次に地上を見下ろす。その表情は遠すぎて読み取れなかった。けれど、なぜか――困っているように見えた。
やがて光は収束し、裂けていた空間は、最初からそこにあったかのように静まり返る。
街は残っていた。人も、建物も、文化も、何一つ失われていない。
世界は壊れなかった。ただ、元からそこにあったかのように、増えただけだった。
理解が追いつかない地球側を置き去りに、彼を知る者たちは言葉を失い、ただ空を見上げていた。
――やってしまったな。
――止める気は、なかったのか。
――いや……あれは、止められる類の存在か?
その中心にいたはずの存在は、初めからそこには何もなかったかのように、痕跡すら残さず消え失せていた。
この出来事は、後に名付けられる。世界融合現象・第一次安定化事例。
だがそれは、すべてが終わり、整理され、意味づけされた後の話だ。
この時点では、誰も知らなかった。
この少し前の、ごく平凡な地上の一角で。
白いローブを纏った異邦人が、途方に暮れたように立ち尽くしていたことを。




