セイシの真理・10
本当は妊娠なんかしていなくて、ただのできものではないのかと勝臣は思う。なにか途轍もなく珍しいできもので、症例とか研究とかなんか都合のいい人体実験のために閉じ込められてるんじゃないかと勝臣は思う。だいたい男が妊娠するわけないのだ。それもこんな、睾丸なんかで。誰かとエッチしたわけでもないのに。
潰してしまおうか、と睾丸を手で包む。検査の邪魔になるからと早いうちに陰毛は剃られた。睾丸の皺も、だいぶ伸びてパツパツになっている。手のひらの中の睾丸はヨーヨーのようで、赤ん坊の気配なんてこれっぽちも感じはしない。
切り落とした方がいいかな、とも考える。どうせ手術すれば片方の睾丸しか残らないのだ。だったらもう根元からカッターで切り落とすか。
玉羊羹みたいに針で刺したらプルンと出てこないかな。それで終わったらもう充分じゃないか。
親父は本当に無事なのか。本当はもう死んでるんじゃないか。死んでなくても、変なところに閉じ込められてるとしたら、もう死んだ方がマシだとか思ってるんじゃないか。あと何か月で生まれるんだっけ?その何か月間、親父は正気でいられるのか?俺も頑張れるのか?頑張って睾丸の中の子供とやらを生めるのか?
勝臣は床頭台の引き出しの中から刃物を探そうとするが見当たらない。上の扉も下の扉も開けるがそれらしいものはない。箸1本すら無い。ボールペンも鉛筆も無い。
勝臣はふらふらと部屋を出る。診察室や検査室にはなにかあるかもしれない。何かってなんだろう。見つければわかるはずと思いながら。
「多田さん」
後ろから声を掛けられた。勝臣がゆっくりと振り向くと、松室がレジ袋を掲げて笑っていた。
「なんか、靴下持ってないって聞いたんで」
持ってない……、持ってなかったっけ……?と考え込む勝臣の肩を抱え、「とりあえず戻って履きましょう」と松室は部屋へ誘った。
いかにも暖かそうな分厚い靴下のタグを、松室はポケットから出したハサミで切り取った。そしてハサミはまたポケットへ戻す。
「私は1月生まれなので寒さに強いだろうと言われるんですが、意外と弱くてですね。毎日これ履いてます」
サンダルを脱いで「お揃い」と笑ってみせる。そしてベッドに腰かけた勝臣に履かせながら松室は続けた。
「父はひとり、この近くの山のなかで自給自足の生活をしてたそうなんです。だいぶ変わり者だったみたいですよ」
猟をして畑を作って。山奥の一軒家にひとりで暮らしていた松室の父は、もとは企業で働いていた普通のサラリーマンだった。ある日貯めたお金で古民家を買い取ったという。
「マメな人だったみたいで日記を残してるんですよ。変でしょ。山の中でひとりで暮らしてるのに、何をそんなに書くことがあるのやらって思ったんですけど、まー、猪に畑荒らされたやら、タヌキ食ったやら、大豆がどれだけ収穫できたやら、どの方向のどこそこに野葡萄の木があったやら。それはもう毎日マメに働いてたんだなって」
天候や地盤、雲の動き、風の匂い。五感をフルに使った生活をしていたことが良く分かる日記だった。履かせ終わっても勝臣は松室を見なかった。ただ靴下なのか床なのか下を見ていたが、松室は気にせず椅子に腰かけた。
「それがあるときから『キンタマ』の記述が多くなってくるんですよ。『なんか痒い』とか『ちょっと腫れてるような気がする』とか。普通すぐに病院行きそうなものですけど、『虫に刺されたかな』ぐらいのもので。それも『あそこらへんに行ったからあの虫かな』とか『あの動物触ったからあの虫伝染されたかな』とか、妙に詳しい自己診断でほったらかしてる。医者泣かせですよ」
松室は苦笑する。
「睾丸が大きくなってくれば当然下着も履けなくなってくる。でも本人は『どうせ誰にも会わないから布でもあてとけばいい』と、股にはふんどし代わりの手ぬぐいをあてていたそうです。ズボンはニッカポッカっていうのかな?ダボっとした作業着あるでしょう。あれを着てたから辛うじて履けてたみたいですけど。でも睾丸が動き出して、いよいよ本人もこれはおかしいと気づいたみたいで」
松室は柔らかく微笑んだ。
「変わった人だったみたいですけど、現実的ではあったんですね。睾丸の中で動くものがエイリアンだとか呪いだとかは思わなかったみたいで。家から一番近くにあるこの病院へ来たそうなんです。そして、妊娠だと診断された」
「……お父さんも……」
ショックだったでしょうねと勝臣は続けたかったのかもしれないが、声は出なかった。松室は「それが」と笑った。
「『あー、やっぱり』って言ったそうなんです。普通の顔して」
勝臣は驚いて顔を上げた。松室は困ったように眉を下げて笑っていた。
「父は10年ほどあの山奥に住んでいたみたいなんですが、そのなかで2度、出産途中で死んでいるタヌキを見つけたそうなんです。たしかに日記にも『まさかな~』という感じで書いてありました。『タヌキとはいえ、雄が子供なんか産むのか?』と」
死んでいたタヌキは2頭とも、2番目の子タヌキが尿道の途中で引っ掛かり、陰茎の先っぽは赤い肉片が飛び散るほど無残に裂けていたという。生まれたばかりで目も見えず、乳を求めて徘徊する1頭めの子タヌキは自然の摂理に任せるのが道理である。そう思った父だったがなんだか見捨てることができず、連れ帰ってヤギの乳を飲ませて育てたそうだ。だがそうやって手ずから育てた子タヌキも、大きくなったら発情期でも迎えたのか、自然と山へ帰って行ったという。
「『何故男が』とか『誰の子だ』とか父は全く気にすることなく妊娠を受け入れたそうです。そして楢崎先生のお父様たちが止めるのも聞かず、また山へ戻って行った」
「……無理でしょう……」
小さく驚く勝臣に松室は肩をすくめる。
「人間というより野生動物に近い人だったのかもしれませんね。結局楢崎先生のお父様たちが父の家を見つけて保護しようとしてくれたらしいんですが、動きすぎたのが悪かったのか早産で、見つけたときにはもうお産が始まっていた」
松室は大きくため息をついた。
「父の陰茎をびりびりに引き裂きながら私は生まれて来たそうです」
勝臣の顔色が見るからに青くなった。
「股間を血だらけにしながらもまだ息のあった父を背負って楢崎先生は山を下りてくれたそうです。でも病院までは保たなかった。こと切れる前、先生の背中で言ってたそうです。『強いだろう、俺の息子。自分で生まれて来たんだぜ』って」
松室は笑う。
「日記には『キンタマが邪魔だ』って延々書いてありました。妊娠とわかってからも『頼んでもねえのに』って。『あんまり動くからじっとしてねえとタマ切り開いておっぽり出すぞ!って言ったらおとなしくなった』とか。もちろん気弱なことも書いてある。『生まれて来たってどうせろくな人生送れねえ』とか『こんなとこ来たって楽しくねえのに』とか『なんで俺が』とか。睾丸が大きくなるにつれ行動も制限されるからストレスも溜まって後ろ向きなことが増えてくる。でも、『タヌキにできて、俺にできねえわけがねえ』って」
「タヌキと張り合ってる……」
勝臣が小さく笑うと松室も「ねえ?」と笑った。
「『俺は人間だし、子供は片タマにしかいねえ。生きてコイツ育ててやる』って。結局できませんでしたけど。でも、運よく楢崎先生たちには繋げてくれた。そういう縁を持ってる人だったんだと思います。野生動物の勘かな」
松室は勝臣の目を見た。
「多田さんの事情は研究所の全員が承知しています。身体もお辛いことは充分わかっています。誰も責めないし、なんでも相談して欲しいと思っています。先はまだ長いんです。遠慮なく頼ってください」
勝臣は何度か何かを言いかけて、ようやく声を振り絞った。
「……、俺は、松室先生のお父さんみたいに、強くないです……」
「だから、力になりたいんです」
はたはたと涙を流す勝臣の背中を松室は擦った。
辛い、やめたいと絞り出す勝臣の背中を、いつまでも擦ってやった。




