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第4話

 あの夜から数日が経った。自分でもあの夜は夢だったのではないかとたまに疑ってしまいたくなるのだが、それは彼女が数日後に送ってきた書簡が現実だったと間違いなく認めていた。

 契約なのだから、約束をしたからと律儀な彼女は自分の価値として差し出す金額を送ってきたのだ。始めに来たときはその律義さに少し驚いてしまったけれど、そのおかげであの日にあったことは夢でもなんでもなかったのだと聖の方から教えてくれている気がして、それもなんだかこそばゆい感覚がした。

 金額も、約束事も必要最低限のもので、何なら金額に関しては自分のことを少し過小評価しすぎなのでは? と疑ってしまいたくなるような金額だったが、それはあくまで彼女が提示した金額だし、そこに文句を言うのはきっとお門違いだ。約束事――と言うより金額に対する報酬も私があの夜に話したことだけ。とても簡素な内容は、それだけ最低限の繋がりでいいのだと彼女からの意志を感じるほどだった。

 だけど、決まりは決まり事。契約を交わした私たちはあの夜から、言葉にしてしまえばとても簡素な関係になったのだ。

 これでいい。これ以上を望むのはきっと――

 そんなことを考えながらハンドルを握っていれば、目の前の信号が赤に変わる。ゆっくりとブレーキを握り減速すれば、身体に負荷のかからない形で停車する。ヘルメットやスーツを通じて感じる風はなく、穏やかな空と雲が時間の流れの緩やかさを物語っているようで、雲の切れ間から覗く太陽の光に少しだけ目を細めた。

 向かっている場所は街はずれ。私の家からバイクで30分ほどにあるそこは、私が家を出てから唯一定期的に通う場所で、今日の目的地も、目的の人もそこにいる。

 私とは似たような境遇でありながら、正反対な道を行く人。


「世羅、なんていうかしら」


 そんなことを小さくつぶやくと、目の前の信号が間もなく青になる。アクセルを回して軽快な音を鳴らし、ギアを上げて走り出す。

 なんてことないお茶会の話のタネになればいいのだけれど、と思い返すのは聖との夜のことだった。


          ***


「おっ、今日もいつも通りだねぇ」


 目的地に着いてバイクを止めていれば、その音で気が付いたのか家主が玄関先から顔を出した。


「当たり前でしょ。渋滞もなかったし」

「いやいや、いつも悪いねぇ」

「思ってもない言葉は薄っぺらいわよ」

「思ってるって。さすがにほら、こんな奴が由良の家に行ったらそれこそ不審者で通報されかねないっしょ」


 私の軽い悪態を意に返さない彼女はからからと笑うと、私の荷物をさりげなく攫って家の方へと招いてくる。それにつられるわけではないが、私も同じ方へと歩き出した。

 こじんまりとした一軒家。マンションを買うより楽だからという理由で買われたそれは、外装こそ周囲の雰囲気にマッチしているが、玄関をくぐればあまりの殺風景さに若干引いてしまう。慣れないものね、と心の中でぼやけばそれがどうやら顔に出ていたようで、またその顔、と藤嶺世羅は笑った。


「いい加減慣れた方がいいって」

「生活感がなさすぎるのよ、貴女の家は」

「ははっ、違いない。これでも掃除はしてもらってるから綺麗だと思うけど」

「綺麗すぎるのが逆に気味が悪いって言ってるの」


 そんな話をしながら廊下を進めば、同じく生活感の薄いリビングが顔を出す。ダイニングテーブルと数脚の椅子。棚らしいところにある程度の本がある程度で、それ以外は特にない。部屋に行けばある程度必要なものはあるのだろうけれど、それにしたってこの家の殺風景さには何度来たって慣れるものじゃない。


「まぁ座ってなって。紅茶でいい?」

「えぇ。世羅に任せるわ」


 世羅の軽い返事を聞いてから荷物を置いて、彼女の紅茶を待つ。間もなくすればキッチンから柔らかい葉の香りが漂ってきて、それとともに運ばれてきたティーカップを受け取って、どちらからともなくお疲れさま、と言い合った。


「最近何か面白いことは?」

「いきなりそれ? 貴女ほど刺激的な生活なんて送ってないんだから、特にないわよ」

「まぁねぇ、カジノのディーラーなんていろんな人間見るのが仕事、ってくらいだし」


 カラカラと快活に笑う世羅の左目の蝶のタトゥーが目じりに合わせて少しだけ羽ばたく。見た目も口調も私とは正反対なのだが、これでも立派な私の幼馴染だと思うと、少し頭が痛くなる気がした。


「逆に由良はそんなに刺激的な日々はご所望じゃない?」

「そうね……下手なことをしてしまえば、お父様たちの耳にもすぐ届くし」

「本家の人間は大変だねぇ。分家ですらめんどくさいって言うのに」

「そんな家から勝手に出て行ったのは誰だったかしら」

「おっと、さて何のことかね」


 家の話になると途端に嫌な顔をする世羅はもう見慣れたものだ。家が嫌いで幾度と繰り返してきた家出の最終形態、と言っても過言ではないそれを踏まえれば当然の話だが。


「財閥令嬢様は大変なことで」

「思ってもないこと言わないで」

「今の一人暮らしだって向こうも知ってるんだろ? 鎖に繋がれた感じがしてあたしはやだね」

「それはそうだけど……一応社会を知るため、って名目もあるのよ」


 ため息をついた私を大変だねぇ、の一言で片すのはいかがなものかとも思ったが、現状彼女には本当に関係のないことだから当然といえば当然だった。そして世羅にそれらを押し付けることも、協力してもらうのも違う気がしていた。

 だってこれはあくまで、私の問題で、金杉財閥という家の問題でもあったから。


「そう言えばだけど、この間由良の家の近くで殺人事件あったんだっけ」

「あぁ……」


 世羅の言葉に、声を詰まらせる。

 彼女の言っている殺人事件は間違いなく聖とのことで、あの日の後にそこそこ話題になっていたから世羅の耳にも自然と入ってきたのだろう。それに彼女の職業柄、もしかしたら被害者とも加害者とも面識があってもおかしくないし、そうじゃなかったとしても近しい関係の人物たちと面識がありそうだとも思った。


「いやぁびっくりしちゃったよ。あの被害者さ、結構カモにしてた上客だったから」

「へぇ……」

「ん? 由良なんか上の空じゃん。なんか心当たりとかあるわけ?」


 世羅の質問にすぐ返事ができなかった。そのわずかな間を彼女が許すはずもなく、新米ディーラー時代につけられたという右目の傷がピクリと震えた。


「え、マジ?」

「……まぁ、家からそんなに遠くなかったから。事件現場の近くを通ったのよ、あの日」

「うそぉ! え、犯人とか見た?」


 思わぬ話に世羅の目が輝く。まるで子供のような目の輝きは昔から変わらないな、と現実逃避のようなことを考えながら私は小さなため息をついた。


「そんなわけないじゃない。事件現場の近くに居ただけだし、あんな路地裏じゃわざわざ行かないとわからないわよ」

「んー、確かにそうだけど。由良がもったいぶるから」


 まさか本当に見ていたなんて言えるわけがない。真実を伝えた後の彼女の反応も怖いし、既に片足を突っ込んでしまっているなんて知られたらそれこそその状況を面白がりそうなのが藤嶺世羅、という女性だ。


「でもさ、これあくまでも噂でしかないんだけど、あの犯人ってこの辺の暴力団の幹部、とかって噂らしいよ。だから警察もあんまり踏み込んだところまで調べられないんだってさ」

「そうなの? というかこんなところに暴力団なんてあったかしら」


 我ながら白々しい、と心の中で自嘲する。あの日、そうだと知った上で聖と邂逅していたのに、こんな風にとぼけているなんて、と。


「あるある。織田組、ってあるじゃん。こっからだとそこまで遠くないところに幹部たちが住んでるお屋敷あるよ」

「世羅のお客さんもいるの?」

「そりゃね。割とお得意様もいるし。んー、でもあの組織って結構特殊だって聞くよ」

「特殊、ねぇ……」


 お茶を濁す様に、紅茶を一口。じんわりと広がる葉の香りが口に広がって、ざわついた心を落ち着かせてくれる。


「そっ。なんでも下部組織は織田組が完全に配下にした後の集団、って感じなんだけど幹部とか本部の人間ってみんな身寄りがなくて、現当主と前当主に拾われたんだとか」


 世羅の話を聞きながら、調べたとおりだったと答え合わせをしている気分だった。何なら調べた直後はあまり信じられずに半信半疑だったところだが、世羅も同じようなことを言っているからきっと本当なのだろう。


「なんでも今回の被害者のあれは、織田組の幹部に昔ちょっかいかけたんだって。その報復、みたいな感じらしいよ」

「結構詳しいのね」

「まっ、仕事柄そういう情報はいろんなところで飛んでるしね。聞き逃すようなアホなことはしないよ。自分の命もかかってるしね」


 冗談めかして笑う世羅に、私はため息をつくことしかできない。客の機嫌一つで命のやり取りも行われる可能性があるという世界で生きる人だというのに、言葉があまりにも楽観的だ。

 世羅に言わせれば、「それくらいの気概じゃないとこの世界やっていけないって」と笑われてしまいそうだが。


「とにかくまぁ、あの辺色々あるから気を付けな」

「えぇ、ありがとう――あっ、」


 そんな話をしていると、私のスマホが小さく震える。何かと思って視線を映した先に見えた文字列に、心に靄がかかるのを感じた。

 声を上げた私の視線をたどった世羅もそれを見たようで、うわぁ、とあからさまに嫌そうな声を出した。


「まだかかわってたの、それと」

「……当然でしょ」

「よくもまぁ、関わり続けられるよね……マジで由良のこと尊敬する」

「そんな尊敬はいらなかったかも」

「だって、あんな兄貴とでしょ? あたしなら絶対無理。なんなら思い出しただけで反吐でそうだもん」


 げぇ、と吐く真似をする世羅に苦笑いをすることしかできない。

 私だってできることなら、世羅のように他人事でいたかった。

 だけどそれは、実家の方針が許してはくれないのだ。


「だって仕方ないじゃない……――あれでも、婚約者なんだから」


 改めてスマホの画面に映ったその人からの通知を見やる。簡素に書かれているはずなのに、彼の性格をよく知る世羅からしたら鳥肌が立ちそうな程気味悪いのだろう。


『本日19時、いつもの喫茶店で待っている』


 とだけ書かれた文字。婚約者からの連絡、と言うより事務連絡に近い形のそれは、私と彼の間に間違いなくある壁の一つだ。


「……行くわけ? 行かなくてもよくない?」

「そんな嫌そうな顔しないでよ。私だって行きたいわけじゃないんだから」

「でもさぁ、これ――」

「世羅もわかってる通りよ。行かないともっと面倒になるの。だから――」


 私に残された選択なんて、あってないようなものだ。実質的に縛られた選択に返事をするように『わかりました』とだけ返事を一つ。その様子をずっと嫌そうな顔で見ている世羅にその顔やめて、と眉を下げながら力なく言い返した。


「決められたものなの。向こうからの誘いだから」

「そうやって付け上がらせてるからめんどくさいままなんだって」

「そうしないともっとややこしいことになるでしょ。これでいいのよ、これで――」


 それはまるで、世羅に言い聞かせるための言葉じゃなくて、自分に言い聞かせるような言葉だったのかもしれない。

 私が自由でいられるのは、この人との結婚が決まっているから。

 まるで鎖に繋がれているみたい、と言った世羅の言葉が皮肉にもぴったりだと思えてしまうくらいのそれは、確かに私の中にも存在しているから。


「……まっ、由良がそういうならそれでいいんだろうけど。とにかく、この間の事件のこともあるから道中は気を付けて」

「お気遣いありがとう。貴女の近況でも話しておく?」

「まっぴらごめんだよ。もう帰りたくないからね、あんな家に」


 言葉に籠るのは嫌悪という嫌悪のすべて。すべてを捨てた彼女にとって、私に見える鎖は呪いのようにも見えているのかもしれない。


「そう。……それじゃあそろそろ行かなくちゃ」


 重い腰を上げる。この後に向かう場所を思い浮かべて、私の気持ちは一向に上がらない。むしろ靄がどんどんと強くなっている気がして、それを振り払うように大きく頭を振った。




 だって仕方ないことなのだ。これは、私に定められた運命なのだから。

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