第3話
どれくらいの時間が経ったのか、気怠くなった体をベッドから起こして時計を見やれば、そろそろ夜が明けるくらい時間だった。彼女と出会ってからの時間はあまりにも短いというのに、時間というのは残酷に過ぎていくのね、と少し回らない頭で考えていると隣からの気配がしてそちらに振り返る。
「……目が覚めたか」
そこにいたのは一人の女性で、同時にあぁ、今夜の出来事は夢でもないのねと再実感させられる。それを言うならこの気怠い身体の感覚こそが現実だと突きつけているようなものなのだが。
衝動。その言葉が何よりも正しいと思うしかないほどの夜だった。私の人生の中で出会うはずのない人間と出会い、その人と体を重ねて夜を明かすなんて思いもしなかったし裸の自分と彼女を前にしてもまだどこか夢現の気分もぬぐえない。
それを知ってか知らずか、彼女はとても優しそうな目で声をかけてきてくれた。
「私、眠ってた……?」
「あぁ。起こすのは少し忍びないと思って。勝手もわからないから、身体のケアは最低限で申し訳ない」
眉を下げて謝る姿は、とても暴力団のトップとは思えないほど。横暴さもなければ自分勝手な感情はどこにもない。私を労わるという思いがすぐに伝わるような彼女の行動に、思わず笑ってしまった。
「なぜ笑うんだ」
「だって、ねぇ……? ふふっ」
「調子が狂うな、由良は本当に」
困ったように眉をまた下げる聖に、再び見とれてしまう。私より年下の彼女の年相応の様子は、少なくとも皆が恐れる姿からはかけ離れているのだろう。逆を返せばそんな姿を見せてくれるほどに彼女の心が和らいだと考えてしまうのは果たして自惚れだろうか。
とはいえ、少し声を出してみるとわかるのは自分の喉の枯れ方だ。大分掠れた声になっていることに驚いたし、追いかけるように感じる腰の鈍痛は先ほどまでの情事を思い起こさせるのには十分で。
「身体はどうだ」
「……正直、結構辛い、かも」
「水をとって来よう。台所を借りる」
ゆっくりベッドから起き上がる彼女の背中を見送ろうとして、その背中に刻まれている刺青が目に入った。あまりにも美しい背中のそれを見ていれば視線に気づいたのか、少し気まずそうにした聖が声をかける。
「悪いな、こんなもの見せてしまって」
「ううん、綺麗だなって思ったの」
刺青なんてそもそも目にする機会も少ないうえに、大きな背中を昇る龍のような刺青は思わず見入ってしまうほど美しいもので、掠れた声でも言わないわけにはいかないと思った。
そんな私の一言にそうか、とだけ残してキッチンの方へと行けば、間もなく戻ってきてくれる。
「飲めそうか」
「……飲ませてくれる?」
「ま、ったく……」
私の返事に頭を掻いてから、その手に持ったコップの水を自分に含んで口付けられる。水の冷たさと彼女の唇の甘さがまじりあい、それだけでもじわじわと熱を帯びてくるのだから、一種の媚薬のようだとさえ思う。こぼさない様にと頬に添えられた手もそれを手伝っているようで、せっかく冷め始めていた熱が再燃してしまいそうだ。
「……そんな目で見るな」
「ごめんなさい。それと、ありがとう。私の我儘を聞いてくれて」
「いや、これくらいは我儘でもなんでもないだろう。私の方こそ少しがっついてしまった」
互いの謝罪に、何とも気まずい空気が流れる。先ほどまでの空気はどこへ行ったのかと言われてしまいそうな空気の違いに、少しの間があってから二人で笑ってしまった。
「なんだか妙な気分だな。さっきまであんなことをしていたというのに」
「本当ね。順番も含めてめちゃくちゃだもの」
何もかもが順番通りにも思い通りにも行かない。世の中そんなことばかりだと思ってはいたが、よもやこれほどとは、とさえ思う。
欲しいものも、手を伸ばしてほしいものも言えない。言ったとしたって手に入らない。
だからこそこうして彼女との夜を過ごした、のかもしれない。
「それで? 私を痛く気に入った由良さんはこれ以上私に何を望むんだ」
再び私の隣に入ってきた聖は、私の髪を撫でながら問う。私を映す瞳から感じられる優しさは、“恐慌”という名前からは想像もできないようなもので、その目に魅入られてしまった私は、ただ見惚れることしかできなくて。
それほどまで、彼女に魅入られ、気に入ってしまったということか。
「……そうね、貴女との関係をこれっきり、っていうのはあまりにも惜しいの」
「正直な話、私とかかわっても何の得にもならないぞ。むしろこれっきりにした方が由良のためでもあるんだが」
「暴力団のリーダーだから?」
「……そうだよ。知っているならなおさらだ」
私の問いかけにはっと目を見開いたかと思うと、すぐにその目は険しくなった。
「あそこであったことも、この家で明かした夜も、これっきりだ。由良はすべてを忘れて今まで通りの生活に戻れ」
「さっきも言ったでしょう? 私は、貴女との関係をこれっきりにしたくないの」
何か言いたげな聖の口が開かれる前に、私は続けて話す。
「私は助けた時、貴女の名前を聞いた時、貴女の正体を知っていたわ。それでも傷だらけの聖をそのままに出来なかったのも本当だし、何もわからないのに私のことを優しく抱いてくれた。今もこうして私のためを思って話してくれている。違う?」
「それはそうだろ。だけど何度も言うが、カタギの人間を巻き込むべきじゃないんだ。こんなことは特に」
どんどん険しさの増していく聖の頬を包み込むように自分の手を添える。一瞬驚きこそ見せたけれど、それは一瞬ですぐにその表情は元に戻ってしまった。
だけどそんなことを気にしていては、きっと彼女は手の届かないところに行ってしまうから。
「私も何度だって言うけれど、貴女のことを気に入ってしまったの。それに、聖の方から望みを聞いてきたんでしょ? 聞いてくれるのよね?」
「内容次第だな」
「あら、必ず聞いてくれないの?」
「貸し借りはない。そうともなれば必ず聞く理由はないだろ」
至極真っ当だ。彼女の言っていることに間違いは一つもない。どちらかと言えば私が始めからずっと勝手なことを言っていて、聖はそれに付き合ってもらっているだけに過ぎない。この家に来たことも、手当てをしたことも、身体を重ねたことも、元を正せば私からの提案だし、それを拒絶しなかったのは彼女が求めている気がしたのも多少はあるが、私が見たあの血まみれの惨状を、そして私に見せた涙を黙殺するための手段に過ぎない。
それらを今夜ですべてチャラにした、というのが彼女の言い分なのだろう。
「それじゃあ一つ、提案があるの」
傷の少ない方の頬をゆっくりと撫でる。表情が曇ったように見えたから、口付けもしてから言葉をつづけた。
「私はこれから、貴女に出資する。織田組への出資、と捉えてもらっても構わないわ」
「は?」
「私ね、これでもお金は持て余している方なの。自分で使い切るのにはあまりにも膨大で、色んな所に投資もしているし。利益も含めたら下手に働かなくても生きていけるくらいにはあるの」
「……だからなんだ」
「だから貴女に出資する。これは投資の話でもあるの」
何かを言いたげで、その前に私が言いたいことを理解するのに時間がかかっているのか、彼女の表情はどんどんと険しいものへと変化している。
「貴女に投資する見返りに、貴女の時間が欲しいの」
その一言にようやく合点がいったのか、聖は大きく首を横に振った。
「冗談はよせ。仮にそれができたとして、お前に何のメリットがある」
「私は聖――貴女との時間が欲しいの。そのための投資よ」
「馬鹿げている。仮にも投資家ならばそれが愚策であるとわかるだろう。時間のために金を払う、なんて言うのはよくできた話だが、そもそも釣り合いが取れる金額なんて、」
「気になるのなら、貴女が提示した金額をそのまま毎月出資しても構わないわよ」
「……」
一歩も引く気のない私に、さすがの聖もお手上げだったようだ。ついに黙り込んでしまった彼女を逃がしたくなくて、少し早口になってきている自覚がありながら、私はつづけた。
「貴女にわかってもらえるまで言うけれど、私は貴方を気に入ったの。気に入った人に投資して、その見返りを選べるのならこうしたいと思うだけよ」
「……時間を得て、何がしたい」
「定期的に私のところに会いに来て? 貴女と話をして、こうして身体を重ねてくれたらもっと嬉しいかも」
「あのなぁ……」
「時間の使い方は自由でしょう? それであれば相応の金額を出資することを約束するわ。必要であれば書類だって準備するわよ?」
もしかしなくても、これはかなり強引な話なことは分かっている。聖が呆れて帰ってしまうことだって考えられるし、私はそれを追いかける権利は今ない。背中の昇り龍の尻尾をつかみたくて足掻く滑稽な人間に見えているかもしれない。こんな私と彼女が似ているかも、なんて言ったら聖に怒られしまうとわかるくらいには愚かな女だとも思う。
それでもここまでしてでも、彼女を手放してはいけないと奥底から聞こえる自分の本心から、きっと目をそらしてはいけないから。
まくし立てるように言い切った私を、聖はじっと見つめてくる。少しだけ鋭い眼光は私の本心を見透かしてくるようで少し怖くて、どうか見つかりませんようにと願いながらその視線から逸らすことはなかった。
続く沈黙。時計の音だけがやけに響いているような気がした。
「……わかったよ。そこまで必死になるな」
「!」
「金額や他の項目に関しては近く予定を合わせてまた来る。その時に話をしよう」
沈黙を破ったのは聖で、同時に折れたのも聖。きっとその答えになるまでのわずかな沈黙の中で色んな事を考えたのだろうし、それを超えたうえでの返答だったのだとわかれば、喜びもひとしおというものだ。
「ありがとう。こんな話に乗ってくれるなんて思わなかった」
「私からしたら悪い話ばかりでもないしな。下手な情報の漏洩もこちらから防げるし」
「ふふっ、確かにそうかもしれないわね」
心当たりがあるのか、少しバツの悪い顔になる聖が何だか可愛くて、思わず少しだけ笑ってしまう。それは同時に先ほどまでの重苦しい空気を一掃したようで、私たちの間に流れてきた新しい空気に互いに気が付いて、目を合わせたら吸い込まれる様にキスを一つ。
「……とんだお嬢様に見つかってしまったのかもしれないな」
「私もよ。思いがけない素敵な夜になったわ」
これはまだ、私たちのプロローグ。未来なんてわからない私たちの物語の始まりだ。




