第2話
彼女と夜を過ごすのは、当然の流れだった。
「その傷の手当をさせて」
返り血に塗れ、頬に深い傷を負った彼女と出会って、私が触れた指先が傷に触れると痛みをこらえるように眉をひそめた。そんな姿を見たら自然と言葉が漏れて、しかしそれは彼女には求められていないものだった。
「カタギの人間を巻き込むつもりは無い」
「じゃあなに? 私は傷だらけの人を放って帰れって言うの?」
「そもそも私と関わることが間違ってる」
頑なに首を縦に振ろうとしない彼女は、しかしその目には助けて欲しい、と訴えてくる。本人に自覚は無いのかもしれないけれど、初めてその目を見た時からずっと変わらない視線に、彼女の求めるものはある程度理解出来てしまったから。
ーー似ているのだ。私と。
「たとえ間違っていたとしても、私は所在のない貴女を放って帰る方が嫌」
「そんなことはない。私は帰る場所もある。傷は、帰ったらいくらでも治療できる」
「心の傷は帰っただけでは癒されないの」
「……っ!!」
図星をつかれたように顔を顰めた彼女は、私の思った通りの反応だった。自覚があるだけマシなのかも、と思ってしまうのは過去の自分と照らし合わせているからかもしれない。
「せめて手当てはさせて」
「……お前を巻き込みたくない」
絞り出すように漏らしたのは、何よりの本音だろう。彼女は自分の立場を理解していて、関わる人を選んで、その中で必死にもがいているのだ。彼女の名前を聞いた時から、そんなことをずっと考えていた。
織田聖。指定暴力団としてこの地域では有名な織田組の一人……いや、確か彼女はそのトップだ。恐慌と呼ばれ、見るものを怯えさせる迫力の片鱗は確かに感じた。苛立ちと怒りに身を任せられた視線は言いようのない恐怖があるのだから、おそらく間違っていないだろう。
しかし、今私の前にいる彼女からそんな片鱗は感じない。あるのは言うなればーー捨てられた犬のようだった。
人を愛し、愛されたが様々な因果で愛した人間に捨てられた犬。拾われてもまた捨てられてしまうかもしれないという漠然とした恐怖が彼女に牙を見せ、私に威嚇しているのだ。
これ以上、傷付きたくない彼女なりの防衛本能。
「貴女は私に巻き込まれてくれればいいの」
「何を、言って」
「初対面の、お節介な女の世話になるだけ。貴女の事情も聞かないし、私は貴女の傷を手当てする。それだけでしょう?」
だから私は、そんな彼女の手助けをする。伸ばして欲しいのに助けを求められない彼女に、道標を示すのだ。逃げ道だと言われようと、それで彼女の傷が少しでも癒えるなら、構わないと思った。
聖は目を見開いて私をじっと見やる。信じられないものでも見るような目は、正気の沙汰かと言わんばかりだ。
「お前に何の得もない。……弱みを握ったと言うなら殺すまでだ」
先程のことーー赤子のように私の胸の中で泣いていたことを思い出したのだろう。それを引き合いに出してくるのは、彼女は私の真意を理解していない証だった。
「損得で人助けするような人間じゃないわ」
「口先だけではいくらでも言える」
「じゃあどうしたら証明出来る? 貴女は納得する?」
「……関わるな、と言ったはずだ」
頑なな意思はそう易々と解けない。頑固ね、と笑って見せても睨まれるだけで、これ以上踏み込むのは彼女の流儀に反するようだ。
でもそんな流儀は、私にとって優しさでしかなくて。
「優しいのね、貴女」
「何を言ってる」
「だってそうでしょう? 優しくなかったらいつだって殺せる私にそんなこと言うんだもの」
「っ! てめぇ!」
私の安い挑発に乗る彼女は、かっと目を開いて拳を振り上げてーー力無く下ろされた。その拳はもちろん私に降りかかる訳もなく、項垂れた聖の姿だけがそこにはあって。
「ほら、優しい」
「……興ざめしただけだ」
「だったとしてもよ。貴女が思ってる以上に、私は貴女を気に入っちゃったから」
極めつけにそう言って笑ってみせると、ついにお手上げだと思ったのか、大きな大きなため息をついてからゆっくりと私と目が合った。
「……手当、頼めるか」
「もちろん。喜んで」
手負いの彼女がそろりと伸ばした手を取って。威嚇をしながら噛み付いてきた彼女になんてことない顔をして。人を愛することへの恐怖に怯える貴女に、私は今一度ゆっくり微笑んだ。
「私の家、ここからそんなに遠くないの。人気の無い道の方が都合いいわよね」
「あぁ。変なのに見つかってお前まで共犯だと思われるのは不本意だから」
「ほんと……優しいのね、聖は」
「カタギにこの問題を巻き込むのはお門違いなんだよ、そもそも」
どこか居心地悪そうにする聖のバツの悪い顔は、先程までの警戒が少しは解かれたのだろうかと思わずにはいられない。そして彼女の配慮された優しさは本来の姿のひとつなのかもしれない。
並んで歩かず、少し後ろをついてくる。周囲からは他人と思える距離で、一言も発することなく、しかし私を見失わないような距離にいる彼女は、血塗られたストーカーと思われてもおかしくない。そうならないようになるべく少ない人通りを選んで歩けば、間もなく見慣れた我が家が姿を現した。視線だけ動かして辺りを見たが、幸いなことに人の気配はなく彼女を匿うタイミングとしてはこれ以上ないだろう。
「……聖」
名前を呼ぶ。思ったより口馴染みのいいそれに反応したように彼女も少し足早に玄関をくぐった。
ここに人を呼んだのは、もしかしたら初めてかもしれない。ふと、そんなことが頭をよぎる。家を出てから両親は当然、友人と呼べる人もそうでない知り合いも。当たり障りのない関係だけを築いてきた私は、この家に呼ぶだけの関係ではなかったのだ。
なのに今、私は今日会ったばかりの彼女を、この場所に招いているなんて。
「綺麗だな。整えられてる」
「そう言って貰えて嬉しいわ。ちょっと雑多かなとも思っていたから」
玄関をくぐり、そんなことを言う聖にこそばゆい気持ちが胸の奥をくすぐった。手早く玄関を閉めればこの場において私たちのことを邪魔する存在はいなくなる。
暴力団の幹部ーーいや、そのトップをこうして匿う日が来るなんて誰が想像しただろう。数年前の私じゃ想像もつかないような展開が目の前にあるのは、どんな運命の悪戯か。
「ひとまず手当てするわ。こっち」
「あぁ」
リビングに案内して、ソファーに座らせる。ここまで来たことである程度の警戒は解かれたのか、大人しく私の言うことを聞いてくれた彼女がなんだかおかしくて、笑ってしまいそうになった。聖はどこか落ち着かない様子で、一定の警戒を解いてくれたとはいえ一筋縄ではなさそうなのは確かだった。
戸棚の中から救急箱を取り出す。滅多に使われないそこにしまわれた一通りのものを見てほっと息をつき、使えそうなものをいくつか取り出してから彼女の元へと戻ると、私の様子を注視していた聖と目が合った。
「そんな見なくても、変なものなんて渡さないわよ」
「お前の素性が知れない以上、用心するに決まってるだろ」
「んー……それもそうね。でも安心して、そんな無粋なことなんてしないから」
「どうだか」
私の言葉に半信半疑な聖は、当然な反応。でもいちいち気にしていたらキリがないと割り切って早速持ってきた消毒液やガーゼを準備する。
「……っ、!」
消毒液の染み込んだガーゼで触れた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。ついで短い声が聞こえ、顔を見やれば一瞬だけ顔を顰めた彼女と目が合う。
「やっぱり、随分深いわね」
「……放っておけばどうにでもなる」
「さっきも言ったけど、こんな綺麗な顔に傷跡を残すなんて、もったいないわ」
「これは、残ってるくらいがちょうどいい」
ガーゼを当て、周囲の血や傷口を手早く消毒していく。その度に小さくうめく彼女の声には聞こえないふりをして、なるべく早くその手を進めた。周囲の軽い切り傷や擦り傷は時間が何とかしてくれるだろうが、一番深手となってしまった右頬の傷は、やはり時間経過で塞がる傷とは思えない。彼女はそれを望んでいても、やはり見るのは辛いものがある。
「これでよし、っと……」
相応の処置を済ませ、ふっ、と息をつく。大人しくしてくれていたおかげで恙無く済んだそれに触れると、聖は少し驚いた声を上げた。
「なに?」
「いや、随分手際がよかったもんだから」
「これくらいは当然でしょ? 最低限しか出来てないわ」
「上出来だ。……ありがとう、助かった」
「あら……」
思わぬ言葉に、声を上げる。そんな言葉が返ってくるなんて思ってもいなかったし、そんな私を見て心底不思議そうに私のことを彼女は見つめている。
「なんだ、おかしなことでも言ったか?」
「いいえ? お礼があるなんて思わなかったから」
「そこまで常識外れじゃない。ったく……」
ため息をこぼした聖の顔は、今まで見てきたどの顔よりも温かみがあった。警戒が解けたからとか、そういう次元の話ではなく、きっと彼女の本来の姿なのだろう。
不意にこぼれた、という方が近いその顔に、私は見惚れてしまったのだ。
「今度はなんだ、ジロジロ見るな」
「……やっぱり、綺麗ね」
傷の少ない左の頬に触れる。当たり前のようにある彼女の温もりを感じて、それがたまらなく私の心を惹きつけてやまないのだ。
頬に触れられた聖も、私の手を振り払わない。簡単に振り払うことの出来る力のない私の手を、むしろ彼女はそっと重ね合わせてすら来たから驚いた。その表情も柔らかくなり、彼女の全てに視線が、心が奪われて。
吸い込まれるようにキスをしたのは、私の方だった。そのキスも受け入れてくれた彼女は、少し驚いた顔はしたものの目元が小さく緩む。
「そんな、素敵な顔もするのね」
「そんなふうに見えるのはお前だけだよ」
「特権ね、嬉しいわ」
他愛ない会話。そこにある空気は初めて会ったにもかかわらず、それを思わせない。まるで何度も重ねたような空気をまとい、私たちの間に生まれる空気に飲まれれば、たどり着くのはただ一つで。
「……傷は? 大丈夫なの?」
「お前のおかげで、な」
「お前じゃない、由良よ」
私の言葉に薄く苦笑いを浮かべてから、今度は聖の方からキスを贈られた。もちろん私はそれを拒むこともなく、ただ受け入れて重ね合わせた。
甘い吐息、優しい視線。――しかしそこにある確かな獰猛性は、私の心を簡単に射抜いてしまうから。
座っていたソファーの上で、そっと押し倒される。見上げた先にいる彼女は、いいのか? と改めて聞いてくるのだから、ここまでしておいて聞くあたりが律儀なのだなと笑ってしまう。
「言ったでしょう? ――私、貴女が気に入ったの」
だから、私は彼女に道を示す。間違ってないのだと、この後起こる出来事に罪悪など抱く必要はないのだと。
「……つくづく、お前は奇特な奴だよ、由良」
「だからいいんじゃない。貴女に惹かれたんだもの」
口元は弧を描き、彼女に触れて、先を強請った。これ以上の言葉は不要だと視線で訴えれば、その了承を受け取った彼女はまた少しだけ困った顔をしたけれど、ゆっくりと覆いかぶさって私の服に手をかける。
これから始まることの準備に、私の心はいつもよりも高鳴っていた気がした。




