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第1話

 その日は、やけに静かな夜だったと思う。

 何か特別なことがあったわけじゃない。いつも通りに買い出しを済ませて少し陽が落ちるのが早くなったなとほとんど暮れた空を眺めながら帰路についていた時のこと。

 ――ふと、何かが視界の端を掠めた。


「……?」


 それは路地裏の隅。かなり入り組んだ場所で、普段であれば何かの見間違いか気のせいか、と色々と理由をつけてその場所へ行くことはないのだけれど、この時はなぜかそれが気になってしまった。

 見えたのが、赤い飛沫だったから。

 この辺りは閑静な住宅街だし、そんな物騒なことが起こっていることを考えるのはあまり現実的なものではない。それに自分の想像している出来事が起こっているのだとすれば、私がするべきことはそれを目撃するのではなく、警察やそれ相応の場所に通報して、専門の人たちに対応してもらうことだ。一般市民である私ができることなんてそれくらいで、逆にそれ以上のことをすれば余計なことだといわれてしまうこと間違いない。

 でも、その時はなぜか。なぜか自分の足がその場所へと向かっていた。

 単なる好奇心だったのかもしれない。単調な日々に嫌気がさしていたのかもしれない。

 自分の置かれている状況から、現実逃避したかったのかもしれない。

 あの時の私は半ば自棄になっていたのだろう。死ぬならそれも一興ね、なんて思っていたくらいだったから。

 歩みを進めるのは、その路地裏のほう。何かあったら逃げればいい、逃げられなかったらこの場所が自分の最期かもね、なんて頭のどこかで考えながら進めた先にいたのは、二人の人影だった。

 人影、と一言で片づけてしまうのにはあまりにも衝撃的だったが。

 一人の女性がもう一人の男性の胸倉をつかみ、もう片方の手で殴りつけている。男性はほとんど息をしていないくらいボロボロであったし、その周囲にはいたるところに赤い染みがまき散らされている。女性の振り上げている手にも同じ赤がべったりとついているし、人が一度二度殴ったところでつかない色味は、逆を返せばその色が浮かぶまで殴り続けていたという動かぬ証拠だ。

 暴行事件。なんて言葉で片づけるのには些か生易しいとさえ思ってしまう程の光景だった。

 男性は何も言わない。もはや息をしていないのかもしれないと思えるほど力なく体は垂れており、そんな状況にもかかわらず女性の方はその拳を振り上げては殴りつけている。

 その目に浮かんでいたのは、あまりにもやるせないという気持ちだ。

 そしてその気持ちが目の前の男に注がれているというのに、一向に晴れることのない気持ち。どれだけ足掻いたとしても、決して報われることのない現実を知っていて、そのうえでその手を止められないのだろう。


「どうしたの、そんなところで」


 ――だから、自然と声が出た。

 声がしたのか驚いた女性ははっと顔をこちらに向ける。男に対して向けていた鋭い眼差しが、そのまま私の方へと牙をむいた。

 改めて対峙したことでわかる、彼女の圧倒的な空気。纏っている和服の至る所に飛び散った赤は着物の柄でないことは明らかだし、亜麻色の髪と同じ色味の眼光は今にも私を殺しそうなほどの殺意を纏ったままだ。


「……死にたいのかい、アンタ」


 私に向けて放たれた一言目は、あまりにも冷たく強いものだった。鋭い視線のままの言葉に、普通の人なら足をすくませてしまうのだろうし、声を上げて逃げ帰るのかもしれない。はたまた何もできずにこの人に手をかけられる可能性もあるし、なんにせよ関わったこと自体を強く後悔するのだろう。

 だけど私に浮かんだのはそのどれもではなく、いうなれば全くの逆。

 この人に殺されるのなら、いっそいいのかもしれないわね。

 自殺願望があるわけじゃない。事件に巻き込まれたいわけじゃない。目の前にいる人は明らかに常人ではないし、血飛沫を見ても平然としているということは“そういうこと”に対して何の抵抗もない、私たちの住む世界の人とは全く違う人たちなのだということもわかる。だからこそ関わる必要もなければむしろ関わってはいけないと、頭の片隅で冷静な自分は何度も語りかけてくる。

 でも同時に、この人を独りにしてはいけないと思った。

 殺人鬼を放置するからとか、そんな殊勝な考えなんかじゃない。

 ただ単純に、彼女の眼光から感じる哀しみから、私が目をそらせなかったからだ。


「まだ死にたくはないわね。やらなきゃいけないこともたくさんあるから」


 若干の声の震えは伝わっていないだろうか。声が震えていたら私が本心では怖がっていることを察知させられてしまうかもしれないし、わかられてしまったら私の真意を見抜いてきそうな気さえした。


「馬鹿かアンタ。こっちは人を殺した後なんだ。アンタをついでに殺すなんて造作もないことなんだ」「それもそうね。とっても気が立っているのは見ればわかるもの」

「……」


 言葉を間違えてしまわないように。何とも言えない綱渡りのような会話に宿る緊張感は、それこそ一触即発で何一つ間違えられないこの状況は人からすれば早く立ち去りたいことだろう。彼女だってそういう空気を出しているし、むしろそのまま帰ってくれ、とさえ思っているのかもしれない。

 悪い夢だったと割り切ってくれれば、なんて考えているのかもしれない。

 だけどそんな誘いには乗ってあげない。悪い夢なんかにしてしまったら、この時間を無為にしたくなんてない。

 その結果として、私が殺されることになったとしても。


「忠告はした。無視したのはアンタだよ」


 短い会話と時間を経て、彼女が一歩近づく。そのすがらで先ほど手についた血を拭いながら、鋭い視線はそのまま私に次なる標的を定めたようだ。

 死んでしまう、とは思わなかった。不思議なことに。

 それよりも先に、この人はきっと今までもこうして戦ってきたのだろうと思いいたって、孤独の中を戦うこの人を、放っておくことができなかった。

 一歩間違えれば死んでしまう。そんな初めての死の間際で、私はゆっくりと微笑んだ。


「ねぇ、貴女」


 私の声に彼女の肩が震える、少し見えた迷いのようなものを見逃してあげるほど、今の私は優しくはない。


「疲れるでしょう? 一人で戦うのは」


 その一言に、彼女の足が止まる。明らかな動揺は、それが誠だと自白しているようなものだ。

 一人で戦うことの辛さ、それ自体の苦労は知っている。自分の置かれた立場に問答しながら、それでもなお様々な決断を強いられることの重圧も、その選択で変わる人生の多さも。

 そんな様々な重圧に耐えながら一人で生きる、その強さと脆さも。


「たまには息抜き一つしたって、誰も咎めないわよ」

「っ、お前に何が!」

「さぁ? 私は今貴女がどうしてそんなに血塗れなのかも知らないし、貴女自身がどんな人かも知らない。なんとなくこういうことには手馴れているんだなぁ、ってくらいの認識しかないわ」

「それなら、」

「辛そうな顔、してるもの」


 私の指摘に、言葉が詰まる。は、っと息すら飲んで、勇んで私を殺そうとしていた脚はぴたりと止まってしまった。だから、私は言葉をつづける。


「人を殺したって言うにはあまりにも辛そうな顔をしているわ。貴女がきっと、私と同じような世界に生きている人間とは違うのはなんとなくわかる。平気なフリして私を殺そうとするなんて常人じゃ考えられないもの」


 ――だけど不思議ね、今の貴女は全く怖くない。

 思わず出た本音に、解けかけていた彼女の拳が強く握られる。小さく震えているのはきっと彼女の触れてほしくないことに触れてしまった、もしかしたら彼女の大切なものに傷をつけてしまったのかもしれないと直感で理解したけれど、だからと言ってこれ以上傷ついた彼女を――私とどこか似ている人を、傷ついたままにしておけなかった。


「いいのよ、たまには息を抜いても、甘やかされたっていいの。そんな傷ついた顔をして、助けを求められちゃ放っても置けないのよ」


 それに、言葉にして初めて私の本心とも向き合える気がしたから。


「そんな、こと……、」

「青いわねぇ。でも、そんな所もそっくり」


 立ち止まってしまった彼女の元へ、一歩近づく。手を伸ばせば届くところまで来た私に身構える彼女だったけれど、そんなのは知らないふりをして彼女の頬にゆっくりと触れた。

 責任という重責を背負いながら、誰にも頼れずに戦う姿は、私の理想なのかもしれないと。


「ねぇ、私貴女のこと気に入っちゃった。どうしたら気に入ってくれるかしら」


 思考するより先に言葉が出る。この人を前にしたら、私も素直になれる気がして、だからやめてあげられない。


「や、めろ……、っ」


 頬の一部に触れた時、彼女の身体が一気に強張る。軽いぬめりを伴った手を離せば、私の手にべったりとついていたのは血液だ。慌てて顔を上げて彼女の顔を見れば、その頬から一筋の傷が目に入る。生々しい傷はできてからそんなに時間が経っていない。打ち捨てられている男性の近くにはナイフのようなものもあるし、その先が赤くなっているところから連想されるのは――と考えるよりも先に手が動いていた。持ち合わせているとカバンを探ったが救急セットがなく、ひとまずはとハンカチで彼女の頬を拭う。傷口に触れないようにと優しく触れたつもりだったが、苦悶の表情を浮かべる彼女からそこそこの傷なのだと想像がついた。


「少し深いわね。相当やってたの?」

「……殺さなきゃいけないやつだったんだ。私がどうなっても」

「そう。でもこれじゃあ傷跡残っちゃうわ。せっかく綺麗な顔をしているのに」


 間近に見て、素直な感想だった。髪色と同じ瞳の奥に見える優しさ、臆病さ。それらを兼ね備えつつ整った顔立ち。和服美人ね、と呑気なことを考えるくらいには見惚れてしまいそうなくらいだった。


「いいさ。どうせ滅多に外に出るわけじゃない。それにこの傷が癒えてしまったら、要は……」


 そこまで言って、ぴたりと止まる。震えた声は何かをためらっている――というより自分の目をそらしていた事実を突きつけられることに怯えているような、そんな子供みたいな顔をした。


「要は、こんなことをしても、帰って……こない、んだ……」


 なんとか絞り出すように出た言葉は、やはり彼女にとって大切だったもの、なのだろう。みるみるうちに目には涙を浮かべ、呼吸が浅くなっていく。泣く前の子供のような表情に笑ってしまいそうになるけれど、そんなことをしたら心を閉ざしてしまいそうだったからあえて言葉にはしなかった。だけど堪えられなかった涙が私の方に一粒落ちたことを皮切りに、一粒、また一粒と私の服に染みを作っていく。

 我慢していた子供の本心を見せてくれたような気持ちだった。


「大切な人だったのね、貴女にとって」


 隠れてしまいそうな彼女の表情を見逃したくなくて、頬を包んで視線を合わせる。すると困ったように眉を下げて、私の言葉に返事をくれる。


「あ、ぁ……本当に、本当に大切だった、んだ……なのに、わたし、は」

「無理に話さなくていいのよ」


 一人でよく、戦ったわね。お疲れさま。

 自然と出た言葉を最後に、彼女が私を強く抱きしめたと思えば子供のように泣いていた。私の肩に顔を押し付けて、私よりずっと大きな身長をたたむように丸めて、許される限りの声をあげて泣いた。その間は何も言わずにい続けて、背中に回した手で何度も彼女のことを撫でて抱きしめ返した。

 それはあの頃、私が幼かったころにしてほしかったことのように。



「……アンタ、名前は」

「私? 私は金杉由良。貴女は?」

「……織田、聖だ」

「素敵な名前ね、聖」

「世辞でも嬉しいよ、由良」



 これはそんな、とある場所で出会った二人の始まりの話。

 織田聖という、“恐慌”と呼ばれる暴力団の首領と、ままならない世界に生きる金杉由良、と言う人間の始まりの話だ。

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