トク爺のこと
酒呑み処でもないのに喫茶店内の照明はやけに薄暗かった。赤、白、緑、と縁日で売る紙風船を思わせる色使いの半球形のライトの傘が天井から吊り下がり、各テーブルにちょっと野暮ったい明かりを落としていた。わたしとKの友人のトク爺とは初対面だった。
「あそこはただの小汚い街で、なんのドラマもなかった」とコーヒーをひと啜りしたトク爺が言った。
「でもないでしょう。ちょっと……」
わたしは上着のポケットからスマホを取り出し、画面をタップしてKのブログを開いた。最新記事は、〈彼は、傷口から侵入したウイルスが潜伏するように、チャイナタウンの路地裏の、安宿の一室に半年近くもジッと身を寄せていた〉と始まっていた。
「いやそれは、まんざら嘘八百でもないが、ブログをいいことに、Kがいつもの調子で話を盛ったのね。安宿って言っても、タイで家賃二万近くの家具付きのサービスアパートメントだったし、チャイナタウンの近所ではあったけれど、路地裏でもなかった」とトク爺が言った。
「へえ、そうだったんですか。いかにもKさんらしい虚実ないまぜの潤色ですね。でも読まさせられますよ。この記事は」わたしはテーブルの上に開いたままのスマホの画面を上にスクロールして、結末近くで止め、
「この、奥様についてのくだりはどうです。〈彼女はその渦中にあって、一言の愚痴もこぼさず、泣き言も言わなかった。実に健気だった〉とありますね。この泣かせ所はノンフィクションでしょう」
「ああそこは半分ホント。僕に、ではなくKに対してのことね。おのれの不祥事の事後処理を、女房とたった一人の友達に丸投げして異国にバックれる夫に、三つ指ついて『いってらっしゃいませ』また帰国して『おかえりなさいませ』とのたまうほど彼女もお人好しじゃない」とトク爺は苦笑いして言って、通りに面したガラス窓に顔を向けた。窓から国道沿いに丈低く並ぶ、通り向こうの店明かりが見えていた。店々の頭上背後の均一な夜の闇が、いかにも郊外近くの片田舎の風情を醸していた。
「彼女とはもう友達の間柄で、今はごくたまにKを交えて外で食事するぐらいなんだけどね。やっぱりね、この先、この世とオサラバするまでには、事の帳尻を合わせとかないとね」とトク爺が言った。
「落とし前をつけるってことですか」
「えっ」
「あっ、すみません」
「いや、そのとおりだね。落とし前をつけるってことね。帳尻合わせなんてことではなく……」とトク爺はいささか自嘲気味に、尻すぼみに言って、また窓外を見た。そして右耳を右手の指でほぐすように揉み、次いでその指で首筋を掻き、それからわたしに顔を向け直して、
「ひょっとして、あなたもブログかなんかにに書くの、僕のこと」と訊いた。
「ダメですか、今日の話は」
「いや、べつにいいんだけど」
「僕はKさんみたいには盛りませんから」
「いやむしろテンコ盛りにしてもらったほうが」とトク爺は笑った。そしてスマホの画面をタップした。Kからのメールらしく、「店に着いたらしい、行きますか」と彼は言って伝票を摘んだ。