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懐の小文  作者: 葡萄
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虹色のまなざし

再投稿です。二度見のお手間をおかけした方、ご容赦ください。

 その茶店は大仏塔のあるボダナート広場から、一時間ほども未舗装の田舎道を歩いたカトマンズの村里にあった。その日いつもネパール人の老親父一人の茶店に、十二、三歳くらいの少女がいた。チャイ(ミルクティー)を飲みながら丘の上に建つチベット僧院や、遠くの山並みをぼんやり眺めていると、それを遮るようにして少女がわたしの目の前に立った。異国の者がめずらしいのかと、「ナマステ(こんにちは)」と一つ覚えのネパール語を言ってみた。が、彼女は無言だった。「挨拶の仕方はそれでいいわよ。でも……」とでも言いたげな、なにか母親が幼児を見る感じの大人びたまなざしで、どれほどかわたしを見つめていた。

 サモサ(ジャガイモの揚げスナック)を揚げていた老親父が何か言った。少女の名を呼んだようだった。彼女は振り向くと、老親父に手招きされて奥へと戻って行った。老親父はわたしと目を合わせ、片ほうの手のひらで自分の側頭部を二度ほど軽く叩いた。老親父は英語を話さなかった。わたしは「解った」のつもりで無言で頷いた。そのとき少女は老親父のかたわらにぽつねんと立ち、幼児が中空を見るときのような虚ろなまなざしでわたしのほうを見ていた。背丈は老親父より少女のほうが高かった。

 二杯目のチャイを飲んでいるとき、ふたたび少女はわたしの前に来て立った。今度は手に一冊の本を携えていた。老親父がさきほどのように何か言おうとしたが、わたしは「かまわないから」と示したくて、手のひらを老親父に向けてそれを制した。少女はわたしの向かいの椅子に腰掛け、本をテーブルの上に置き、パッと真ん中辺りのページを適当に開いた。それは幼児向けの英単語図鑑といった趣きの絵本だった。一ページに九つの絵があり、それぞれに一つずつ、九つの英単語が付してあった。あるいは、その図鑑は、茶店を訪れた外国人ツーリストにでもプレゼントされたものなのかもしれない。

 少女は「さて」といった感じにわたしをまっすぐに見た。今度は、目で語るよりも、目に写すことをもっぱらにするタイプの幼児のあどけなさと、小賢しい大人のはかりごとを言葉なくして一瞬にして見透かし射貫く、といった賢さがミックスされたような瞬き少ないまなざしでわたしを見た。まず彼女はチャイ・グラスのそばのわたしのウエスト・バッグにかるく手で触れた。それから絵本を数ページめくって、「カラス」の絵を人差し指で押さえた。少女の意図はすぐに解った。バッグの色はいかにも黒だ。次に彼女はブルーの表紙カバーのメモ帳に触れ、図鑑の「青空」に指先をあてた。そのとおり、答えは青、ブルースカイの色と同じ。ここまで彼女は「フッー」とか「ハッ」という笛の音にも似た合の手を発しただけだった。

 少女はここで一息といったふうに顔を上げ、耳元から縮れた長髪に指をさし入れた。そうして空いた片方の手の人差し指を伸ばし、バッグを狙い打ちするようにして前に運び、ファスナーに触れた。彼女はたぶん「さあ、次ぎの課題はなに」と促しているのだ、と見受けられた。で、わたしはバッグを開けて、中から青いデニムのカバーの文庫本、茶色の小銭入れなどの五点を出して、バザールの売り物のようにテーブルの上に並べた。少女は「それでいい、それでいい」といったふうで、なにかご馳走でも目の前にしたように何度かにこやかに頷いてみせた。彼女はその一つひとつに図鑑と色合わせしていった。

 けれど最後の一品、布製のポーチに取り掛かったとき、少女は「ええっ、なに」といったふうな戸惑いの表情を浮かべた。それは、わたしの母親が生前集めていた和服の端切れを、妹が二センチ幅くらいの短冊状に切り、縫い合わせたものだった。彼女はパスポートくらいの大きさのそのポーチに般若心経のミニ経本を納めて、旅のお守りとして出立前のわたしに持たせた。

 少女に謎掛けをするつもりはなかった。多色のポーチは、色数が多くて余分に彼女が色合わせを楽しめるだろう、と単に思ったからだった。その縦縞のストライプの色は縮緬の紫、赤、桃色、紬の黄色など。しかしいまさらのように改めて見ると、それぞれの地色に黒や白の糸で小紋が織り込まれていて、絵本ようにベタ塗りの単色ではなかった。そのひとときの少女の困惑は、わたしの疑惑でもあった。「この布地の赤は単一に赤なのか。紫は、桃色は……」

 少女がポーチを見ることと、絵本のページをめくることを何度か繰り返したあと、わたしに教示したのは、「虹」の絵だった。「そのとおり、そのとおり。レインボー。色合いも、シマシマ模様もおんなじふうだ」とわたしは日本語で口に出して言い、拍手した。彼女も喜色満面で「フィーイアー」と聞こえるつぶやきを洩らした。それはネパール語なのか、それとも少女の、「やっとひと仕事終えたよ」といったふうの、ただの安堵の吐息ででもあるのかは分からなかったが。いつからか老親父もこちらを見ていて微笑んでいた。


 その日の午後は、雲ひとつない晴天だった。ことさらに空が高く見えた。わたしは野道を宿へと歩く道すがら、──あるいは、あの少女は、虹色の数をひとつ、ふたつとカウントできないのかもしれない、とふと思った。さらに、もしそうなら、この村里の雨後の空に虹が出たとき、彼女はその七つの色を一望のもと、一つの色として見て取ることだろう。そしてそのとき言葉の目くらましのない彼女のカラフルなまなざしと、虹の色とが親しく会い交わり、少女は「フィーイアー」と、さきほどのように路上を瞬時に通り過ぎるの疾風の口笛にも似たつぶやきを洩らすのかもしれないな、とも思えた。


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