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懐の小文  作者: 葡萄
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隠し色

 日暮れて街灯もないQ町外れの田舎道を歩く。道の半ばまで来て、いま月の光はあいにくの曇天に群なす叢雲に遮られて鈍い。道辺の風物は自らの色とかたちをしばし不分明にして眼前に在る。道の片側に連なる竹林も雑木林も、ただ墨色の濃淡を浸し合ったのっぺらぼうの影像として目に映じている。もうこの時この場に限っては、「木立の葉の色は緑」とか、「野花の花弁の色は赤や白」などとは、さしあたり潤色せずして表白できない。言葉とイメージは風体の肌裏に隠りいて深々と鎮もり、またの月光の照射を待つ。


 人は、いわばイメージを見え隠れに随伴させた一群の「言葉の集合体」を身内に宿して今ここに在る。それは「記憶と情報体」とも言い習わされる。その広場の中心に言葉の差配者としてのエゴは潜む。その彼もまた言葉、吐言の起点としての「わたし」だ。ありていに言って、言葉の意味内容は辞書的にはさしあたり固定され、完結して在る。人対人、人対世間のスムーズな世俗的営為のためにはそうあってしかるべき。ところが、イメージは時々刻々に自律的に変貌、様変わりして行く。すると既存の言葉が新たなイメージの意味内容を担いきれなくなったり、見失うこともありうる。実際には言葉とイメージの不即不離、表裏一体の関係性はけっして永く固定されてはいない。常にたゆたいのもとにある。また、まだ見ぬ片割れのイメージを恋慕する言葉の、はぐれて寄る辺なき彷徨もある。

 その時、居ても立ってもおられぬ人の内なる言葉の、イメージ探索の旅は始まる。そして旅路の果てに首尾よく巡り合いが訪れた時、言葉(人)は安堵の吐息をもらす。今や言葉はイメージと密に肌合わせして、旅疲れを癒すまどろみの内に在る。そこには、人に呼び覚まされる以前の言葉を内に潜めた物象が、ただ横たわって在るばかりだ。さしあたりもうそれ以上の言挙げの必要はなくなる。ならば、ふと省みれば言葉の道行は、皮肉にも言葉の消失により完遂されることになる。


 景の移り行きの終わりとは、言葉の散策なり旅の終わりでもある。が、古の賢者たちは言う。「万物は流転していっときも同じにあらず」と。万物とは、それらが織りなす「万景」と言っても同じことだ。で、人は生きている間は、必然的に幾度となく新たな光景を求めて旅に赴かせられることになる。否応なく。不承不承ながらも。あるいは喜び勇んで──。


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