鍋の火を絶やすな
退院から数日が経った。
久しぶりに平穏な朝を迎え、俺は心の中でこう誓っていた。
「もう事故もトラブルもない。今日は普通に過ごせるはずだ」
部屋の隅には、退院祝いに届いたギルドの試作品の段ボールが置かれていた。
触らない。もう絶対に。そう決めて、俺はスーパーへ買い出しに出かけた。
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スーパーの野菜コーナーで白菜を手に取った瞬間、肩を叩かれた。
「おお、影山じゃないか!」
振り向くと、スーツ姿の男――藤巻亮太、国会議員秘書課の主任補佐だった。
表向きは温厚な中堅秘書だが、裏社会では汚職と資金洗浄の噂が絶えない人物。
依頼リストにも何度か名前が上がっていた。
「いやぁ久しぶりだな。疲れてないか?」
「あ、は、はい……」
「たまには飯でもどうだ?今日は鍋なんてどうだろう。俺の方から誘うなんて珍しいだろ?」
普通の人間らしい会話に、胸が少し温かくなる。
“これが普通の人付き合いかもしれない”と期待してしまった。
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スーパーで肉、野菜、豆腐、出汁まで買い込んだ。
会計時、藤巻が「今日はいい日だ」と笑った。
俺もつい笑ってしまう。
荷物は山盛り。両手が塞がり、帰宅すると鍵が出せない。
藤巻にドアを開けてもらうことになった。
「すみません、鍵を回してもらえますか?」
「おう、任せろ。今日はご馳走になるぞ!」
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カチリ……ピシッ……
ドアを開けた瞬間、聞き覚えのある嫌な音。
玄関の隅、退院祝いとして届いていたギルド試作品の箱が小さく光った。
シュパァン!
毒矢が一直線に飛び、藤巻の首筋に突き刺さる。
毒液が弾け、彼は驚いた表情のまま崩れ落ちた。
「……あ、ああああああああっ!!」
俺は両手の荷物を投げ出し、藤巻を抱き起こすが、もう息はない。
段ボールには、こう書かれていた。
『新型試作品:改良型自動毒矢(玄関設置用)
退院おめでとうございます。』
俺の頭の中が真っ白になった。
玄関は一瞬で惨劇の現場になった。
袋からは散らばる白菜や肉、転がる豆腐、破れた出汁パック。
ただの鍋パーティーのはずだったのに。
「……やっと……普通の飯が食えると思ったのに……」
膝が抜け、玄関に座り込む。
静かな部屋に、スーパーのビニール袋が風で揺れる音だけが響いた。
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夜、スマホが震えた。
『本日の依頼対象:藤巻亮太(国会議員秘書課 主任補佐)
結果:死亡(玄関暴発事故)
処理スピード:世界最短記録更新!』
続いて会長からメッセージが届く。
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◆ギルド会長からの特別メッセージ◆
『影山幸太殿。
退院早々、しかも国家関係者を“玄関で一撃”。
この速さ、まさに死神の名にふさわしい。
ギルド史上最短かつ政治的影響力No.1の案件、素晴らしい功績です。
近日中にマスコミで大騒ぎになるでしょう。
これを機に“国際的死神暗殺者”としての名声が世界に轟くことを期待します。』
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俺はスマホを握りつぶしたくなった。
「俺はただ……鍋を食べたかっただけなんだ……」
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翌日、テレビは大騒ぎだった。
『国会議員秘書、謎の毒矢で死亡』
『現場には“死神”と噂される男の影』
『玄関を開けた瞬間の事故、狙撃説浮上』
SNSには「#死神鍋」「#玄関の処刑人」というタグが並び、
俺の顔写真がまた勝手に出回った。
「もう……俺、外に出られない……」
布団に潜った俺の玄関には、再び新しい段ボールが置かれていた。
“次回作:自動撒菱散布機”と赤字で…