非常階段に煙は立たぬ
昨日の夜、俺はギルドから支給されたポンコツ試作品を手にしていた。
透明な小瓶に詰められた謎の液体と、コピー紙に雑に書かれた説明書き。
“気化式即効毒ガス試験型”
・絶対安全
・致死率99%保証(モルモット調べ)
・使用後は必ず換気してください(重要、でもたぶん間に合いません)
「たぶん安全ってなんだよ……」
こういう物資が俺のところに回ってくる時点で、Sランク暗殺者とは名ばかりだ。
実力Gランク、記録だけSランク――世の中の最大の誤解が俺の肩書だ。
試作品を手にしながらぼやく。
「……どうせ俺が使えば"必ず"失敗するしな」
机の上で軽く瓶を転がした、その瞬間。
ガシャンッ!
乾いた音とともに瓶が床に落ち、派手に割れた。
白い煙が爆発的に立ち上り、鼻を刺す刺激臭が部屋中に充満する。
「やばっ……これ絶対やばいやつ……!」
逃げようと窓に駆け寄るが、足がもつれて転倒。
目と喉が焼けるように痛い。咳が止まらず、息ができない。
意識がぼやけ、数歩で床に倒れた。
視界が真っ白になり、最後に思ったのは――
「俺、今日も死ぬのか……?」
⸻
耳に入るのはピーピーという心拍計の音。
見知らぬ天井、白い蛍光灯の眩しさに目を細める。
ベッドに寝かされ、酸素マスクをつけられた自分。
「……ここどこ……?」
声はかすれ、喉が焼けるように痛む。
医師が苦い顔で言った。
「危ないところでしたよ。あと数分遅ければ命がなかった」
「いや、その……試作品が……」
言い訳をしようとしたが、咳が止まらない。
体は鉛のように重く、指先がじんじん痺れる。
まるで生きているのが不思議なくらいだった。
説明によると、偶然俺の部屋を訪れた知り合いが通報し、救急車を呼んでくれたらしい。
その“知り合い”が、今回の依頼対象だったという皮肉。
⸻
午後、片桐という中年男が見舞いに来た。
少し咳き込みながらも俺のベッド横に立つ。
「お前んち、あれ何なんだ?死ぬかと思ったぞ」
「……ほんと、助かりました。ありがとうございます……」
普通なら暗殺者と標的は敵同士だ。
でも俺に殺意はなく、彼はただ善意で助けてくれた。
こんな関係、普通の暗殺者ならあり得ない。
「ギルドってヤベェとこだな」
「ええ……俺も早く辞めたいんです。毎回事故ばっかり起きるのに“伝説”とか言われて……」
片桐は呆れ顔で笑った。
「人殺しが嫌いな暗殺者なんて、存在するんだな」
「俺はただ……普通に生きたいだけなんです」
言葉にした瞬間、胸が少し軽くなった。
こんな話ができる相手は久しぶりだった。
⸻
夕方、片桐がタバコを吸いに行くと言い、俺も付き合った。
非常階段は冷たい風が吹き抜け、遠くで車の音が響く。
俺たちは並んで座り、しばし無言。
「お前さ、これからどうするんだ?」
「……わかりません。でも、ギルドは辞めたいです。誰も死なない日を過ごしたい」
片桐は煙を吐き出し、苦笑した。
「だったら俺を殺さなきゃいい。なぁ、今日一日で俺たち、もう友達だろ?」
そう言われて、初めて胸の奥が温かくなった気がした。
その瞬間、突風が吹き、俺のパジャマの裾が手すりに引っかかって足が滑った。
「うわっ!?」
片桐が反射的に手を伸ばす。
「危ねぇ、捕まれ!」
俺は彼の腕を掴んだが――
バキッ!
老朽化した手すりが根元から外れた。
支えを失った片桐が前のめりに倒れ、階段の踊り場から真下へ転落した。
⸻
「きゃあああああっ!!」
看護師の悲鳴、駆け寄る職員。
下に横たわる片桐。必死の心臓マッサージも虚しく、まもなく息を引き取った。
階段の上で立ち尽くす俺に、周囲の視線が集まる。
「……影山さん、あなたが近づくと……」
「助けようとした人が死ぬんだ……」
誰かがそう呟いた瞬間、噂が病院全体に広がった。
「死神に触れると死ぬ」
「助けようとした人が死ぬ」
新しい伝説が、この瞬間生まれた。
⸻
夜、病室でスマホが震えた。
通知にはこう書かれていた。
『本日の依頼対象:片桐康雄
結果:死亡(不慮の事故)
処理スピード:最速級、伝説更新!』
俺はベッドを叩きながら叫んだ。
「違うだろ!俺を助けてくれた人なんだぞ!」
さらにもう一通、ギルド会長からのメッセージが届いた。
⸻
◆ギルド会長からの特別メッセージ◆
『伝説の死神、影山幸太殿。
退院前にもかかわらず、見事な結果を残されたとの報告を受け、心よりお祝い申し上げます。
命の恩人すら結果的に仕留めるその執念……これぞ暗殺者の鑑!
さすがSランク。我がギルドの誇りです。
退院祝いに、次回の試作品を特別にお送りいたします。
※安全性は一切保証いたしません。』
⸻
俺はスマホを握りつぶしそうになった。
「……俺、辞めさせてくれよ……」
でも看護師たちの冷たい視線と、このお祝いメッセージが、
俺がギルドから逃れられる日は来ないと告げているようだった。
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数日後、退院の朝。
玄関を開けると、ギルドからの祝いの品が届いていた。
見覚えのある形状の小瓶と、得体の知れない装置がセットになっている。
「……二度と触らない、絶対に……」
そう誓ったはずだった。
だが数時間後には、荷物の存在をすっかり忘れていた。
玄関の隅に置きっぱなしにされたその試作品が、
やがて次の悲劇を引き起こすことになる。