高血圧だから異世界へ誘われた
診療所の待合室に、中年の男が座っていた。ワイシャツとズボンを身につけて、足元には革靴を履いている。
夜の18時を過ぎた頃。会社の最寄り駅近くの診療所に寄った彼は、ビジネスバッグを足元に置き、浮かない顔で順番を待った。帰る間際に、部長に捕まって嫌味を言われたことが頭をよぎる。
さして年の変わらない部長は、健一のことを活力がないだとか、もう少し明るくできんのかと話していた。そんなふうに言われて明るい顔でいられるほうが変だろう。
「中村健一さま」
診察室から名前を呼ばれて、健一は立ち上がった。部屋に入って、医師から調子を訊かれて「変わりません」と答える。
彼がここに通っているのは、健診で高血圧を指摘されたからだ。薬を飲むことも選択肢のうちだが、まずは食事や運動に気をつけて、ストレスを溜めずに過ごし、定期的に受診するようにと言われていた。
そうはいっても、生きている限りストレスは付き物だろう。昇給しないからと妻に小遣いを削られたし、娘は反抗期に入って、玄関で「ただいま」と言っても「おかえり」を返してくれなくなった。
自分が先に風呂に入った日、娘が湯船のお湯を抜いて、浴槽を洗ってから浸かり直したことを知ったときはさすがに傷ついた。お湯がもったいないだろとその場で叱ったが、たぶん論点はそこではないのだ。
当りさわりのない会話をして、代金を払って診療所を出た。血圧が高くても目立った自覚症状はなかったし、閉まる間際に訪ねたから、長々と診てもらう必要はなかったのだ。
*
会社最寄りの駅まで来ると、喉の渇きを感じた。駅前の広場で立ち止まってお茶を取り出す。「血圧高めの方に」とテレビでよく宣伝しているお茶だった。赤いペットボトルの真ん中に葉の絵柄が入っていて、ラベルの色味は目につきやすい。
蓋を開けようとしたとき、健一はふと呼びかけられた。
「お兄さん」
女の声だった。耳から聴いているはずなのに、脳内に染みるような不思議な響きだった。
顔を上げると、正面から若い女が歩いてくる。
人が行き交う中で、彼女の姿はひどく目を惹いた。背中までの金色の髪に、火のような赤色の瞳。足首までのドレスを身にまとっていた。
娘が小さいときに家族でテーマパークに行って、中世の城を模した建物に入ったことがある。そこの従業員が今のような服装をしていた。
目の前の女は、もっとずっと自然だった。場の空気を塗り替えて、彼女がここにいることが自然だと思わせる。あまりに自然な振る舞いが逆に不自然だった。
ここの駅ビルにはスーパーや書店が入っており、駅の周りにはスナックや居酒屋が点在していた。彼女もまた、仕事終わりの男を呼び込む客引きだろう。
昨今は色つきのコンタクトがあると聞くし、瞳の色ぐらい変えられるんだろう。
絡まれないように駅のほうへ方向を変えたとき。
ふっと周りの音が消えた。
──魔法使いにならない?
彼女は笑みを浮かべて、健一をそう誘った。
*
駅前広場のベンチに腰かけて、女の話を聞くことになった。くたびれた会社員とドレス姿の女が話していたらかなり浮くはずなのに、行き交う者は誰もこちらを見ていない。
隣のベンチでは若者がたむろしていたが、彼らの騒ぎ声も耳に届かない。自分たちだけがこの空間から切り離されたように感じた。
「私の言葉、通じてる?」
「一応は」
状況はさっぱり分からないが、とりあえず日本語として理解できる。西洋の言葉が分からない健一も、彼女と話すことはできた。
「よかった。私の言葉はあなたが一番よく知ってる言葉に訳されるはず。私は別の世界の者だから、ところどころ置き換えられない概念があるかもしれないけど、大筋は伝わると思う」
「……はあ」
周りを見回すと、少し離れた交差点の交番が目についた。危なくなったらどう逃げようか、と考えながら相づちを打つ。相手はドレスでは走りにくそうだし、走ればなんとか逃げ切れるだろう。
「あなたを誘ったのは、その体が魔法を使うのに適してるから」
異世界から来たという彼女は、訝しむ健一を前に説明を始めた。理解が追いつかないながらも、彼女の話を頭の中でまとめながら聞く。
その世界には魔法があって、魔力の源として血液と心臓の動きを使っている。
血液を体に押し出すことで、魔法を発動するために必要なエネルギーを供給する。特に、心臓が収縮した瞬間に血管に強い圧力を生み出すことが鍵になる、と。
向こうの世界でも、魔法を使う能力を計るために装置が発明されているという。こっちで言えば血圧計だろう。
彼女は健一のペットボトルに目を向けた。
「理由はよく分からないけど、魔法の適性がある人はそれを好んで飲むんだってね」
「……血圧が高い人のお茶だ。スーパーで買える」
「で、あなたはどれぐらい出せる?」
「どれぐらいっても、好きでこんなに高いわけじゃないけどな。さっきは上が150だった」
日本語が通じるのなら、数字の概念も同じだろう。
医者から130まで下げろと言われている、と話すと彼女は目を丸くした。
「こっちの人は普段70か80ぐらいよ。100を超える人はめったにいない」
「低すぎないか?」
それで皆が元気に暮らしているのなら、身体の内側の仕組みが違うのかもしれない。
「だから、魔法を使うときは薬草を飲んで、心臓が強く打つようにして、床にうずくまって息を止めて震えながら発動したりするの。こっちの魔法使いが短命なのはたぶんそのせい」
「そりゃ大変だな」
絵面が酷いうえに体にも悪そうである。魔法使いといえば、ローブに身を包んで荘厳な様子で杖を振るところを想像するが、実際はそうもいかないらしい。
女は手を伸ばして、しなやかな指で健一の胸に触れた。ワイシャツ越しに手を押し当てて、うっとりするように目を閉じる。
「すごく綺麗だし、なんというか、力を感じる」
そんなことを言われたのは初めてだった。活力がないと言われ、給料も上がらず、家でも職場でもぱっとしない自分に、彼女は力を感じるという。
視界が滲んでいるのは、涙のせいか。
「今から一緒に来て。あなたはすごい魔法使いになれる。身分は保障するし、今よりいい暮らしができるよ。待ってる人がたくさんいる」
彼女の誘いに、健一は黙ってつばを飲んだ。
数秒の後。
「……やめておく」
彼女の手首をそっと掴むと、自分の胸から引き離した。行き場をなくした指先が宙をかく。
「どうして」
その問いに、健一はぽつぽつと理由を告げた。
「今よりいい暮らしといっても、そっちにはテレビもネットもコンビニもないんだろう。小遣いは少なくても、会社の帰りにたまにコンビニに寄ったり、家でテレビを観たりするほうがずっと贅沢だと俺は思う」
彼女は何か反論しようとして、言葉を探すように口を閉じた。コンビニというものを知らないのかもしれない。
「それにだ。向こうで待ってる人がたくさんいるって話してたな。本当なら嬉しいと思うし、正直気持ちは揺らいだけど、俺にだって家族がいるんだよ」
「女房の尻に敷かれてるし娘は反抗して相手にしてくれないけどな、それでも自分だけ出ていくわけにいかない。俺はわがままだし博愛主義でもないから、見ず知らずの人を助けるよりも自分の家のことで一杯なんだ」
怒って攻撃してきたら怖いなと思ったが、彼女は一言「そっか」と口にした。話の通じる相手で助かった。
その姿が寂しげに映ったので、健一は慰めるように言葉を付け加えた。こっちじゃ高血圧のおっさんは珍しくもないから、他を当たってみたらどうか。誰か来てくれるかもしれない、と。
彼女はうなずいて、片手を軽く振った。
「お元気で」
「ああ」
金髪の女の姿が消えて、広場の物音が戻ってくる。
健一は狐につままれたような気分で、1人でベンチに座っていた。手元のお茶を飲み干して、ペットボトルをごみ箱に放ると、駅に向かって歩き出した。
*
それから数日後。
いつも嫌味を言ってくる部長が姿を消した。部署の噂によると、何の前触れもなく失踪して行方が分からないという。何日か休んでいるのは知っていたが、失踪とは不穏なことだ。
若手の社員が「意味が分からないし心配ですね」と話していて、健一は神妙な顔で相づちを打った。
──そういえば。
部長の机に書類を出しに行ったとき、机に赤いペットボトルが置いてあった。血圧の高い人が飲むお茶。普通のお茶より値が張るから、あえて買って飲む人は限られるだろう。自分と同類だ。
部長は魔法使いになったのかもしれない、と健一は内心で笑った。