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記憶が戻らなければ

 

 翌朝、妻より先に目覚めたディートリヒは頭を抱えていた。

 隣で眠るカトリーナは薄衣一枚の姿で寝息を立てている。

 昨夜、一度果てると体力の限界だったのか、カトリーナは気絶するように眠った。

 情事の後始末をして、ディートリヒも隣に横たわり、カトリーナを抱き寄せて幸せな気持ちのまま眠った。


 そして朝目覚め、己のやってしまった事を改めて自覚して自己嫌悪に陥ったのである。


(あんなに手を出さないと誓ったのに)


 記憶が無いカトリーナに手を出すまいと決心したが、当のカトリーナから誘惑され、あっさり陥落した自分が情けなかった。

 しかも相手は怪我人。そんな相手に手を出してしまった自分を恥じた。


 知っている。

 カトリーナが自分との婚姻を命じられた時、逃げ出した事。

 分かっている。

 記憶が戻れば今のままではいられないだろう。


 だからこそ、彼女を丁重に扱い、いつ記憶が戻っても良いように白い結婚を通そうと思ったのだ。

 例え嫌われていても、束の間一緒にいた思い出があればこの先十分だと思った。


 とは言え手を出してしまったものは仕方無い。

 まさかカトリーナから誘惑されるなど夢にも思わなかったのだ。

 未だ夢の中にいる妻の顔を見ながら、束の間の幸せを堪能しようと思い直す事にした。



「……ん……」


 衣擦れの音がして、ディートリヒはハッとした。


「起きたか。気分はどうだ?」

「あ……えと、大丈夫……です」


 少しずつ覚醒したカトリーナは、昨夜の事を思い出したのかもぞもぞと掛け布で顔を隠した。

 その仕草が可愛くて愛おしくて、ディートリヒは再び臨戦態勢になるところだったが流石に自重した。


「身体は痛くないか?」

「少し、痛いくらいですが、平気です」


 掛布に入り込んだその声はくぐもっているが、口調ははっきりしていた。


「今日は君の事を話そうか。とはいえ私は午前中は騎士団に行かねばならないから昼過ぎからになるが」

「騎士団……? ですか? 騎士様でしたの?」

「ああ、これでも副団長をやっているよ」

「どうりで、この傷……」


 布団の中からカトリーナが手を伸ばす。

 触れた先にあるのはディートリヒの顔の傷だ。

 触れられた瞬間、ディートリヒの肩が跳ねた。


「……っ、すみません……」

「いや……大丈夫だ」


 ディートリヒがカトリーナに記憶が無いと実感した瞬間だった。

 もし記憶があれば、この傷に触れる真似などしないだろう。

 社交界において顔の美醜は分かりやすい判断材料だ。

 見目麗しい異性に惹かれるし、逆は嘲笑の的になる。


 カトリーナはこの傷を嫌っていた。

 美貌を武器としている彼女からしたら顔に大きな傷があるなど許せないのだろう。

 話題を逸らしていたのも、見たくないからだったのかもしれない。


「記憶が……無いんだな……」


 ぽつりと漏れた言葉はカトリーナの耳に届き、その言葉に申し訳なさげに微笑んだ。


「とりあえず、朝食にしよう。歩けるかい?」

「あ、はい、………っぁ」


 立ち上がろうとして、カトリーナはある事に気付き顔を赤らめた。


「あの……すみません……………どなたか、女性の方を呼んで……」


 消え入りそうな声で訴える。


「どこか悪いのか? やはり医者を呼ぶか!?」

「いえ、いえ、そうでは無くて! あの……着替えを…」



 昨夜、無事に初夜を済ませたカトリーナは未だ寝衣のままだった。ディートリヒに至っては上半身は何も纏っていない。

 その事に気付いたディートリヒは、顔を真っ赤にした。その様は湯気が出そうな程だった。


「す、すまない! 侍女を呼ぼう。食事もここに運ばせる。君は待っててくれ」


 慌ててベッドから降り、脱ぎ捨てた夜着を羽織る。

 ちらりとその様子を見たカトリーナは、大きな背中と引き締まった筋肉を見て再び掛布を被った。



 その後朝食を終え、騎士団に向かうディートリヒを見送るとカトリーナは侍女の手を借りながら自室に引き上げた。

 念の為もう一度医師に見てもらおうと手配され、診察を受ける。


「ふむ。あまり気負わずに。心穏やかにお過ごし下さい」


 医師は丁寧に診察し、異常なしと伝え帰って行った。


「奥様大丈夫ですよ。旦那様はじめ、私達が付いてますからね!」

「これから宜しくお願いしますね」


 昨夜湯浴みを手伝った二人の侍女はエリンとソニアと名乗りにっこり笑う。少しでも奥方に安心してもらおうと思っていた。

 カトリーナも一人でいるより誰かがいてくれた方が心強いと思い、侍女に頼る事にした。



 昼過ぎにディートリヒは帰宅した。


「ただいま戻った。カトリーナ、大事ないか?」

「おかえりなさいませ。大丈夫です」

「早速だけど、話をしようか」

「お願いします」


 ソニアにティーセットを準備してもらい下がらせてからディートリヒは説明した。


「君の名前はカトリーナ・オールディス。オールディス公爵の娘だ。オールディス公爵はここアーレンス王国の宰相で、現在国王陛下と諸外国に視察に行かれている」


「カトリーナ……オールディス……」

「そして君は、アーレンス王国王太子の婚約者だった。……破棄されてしまったがね」


 改めて自分の身の上を聞かされたが、カトリーナに実感は無い。

 王太子の顔を見て、隣にいる女性の腰を抱いているのを見てざわついた気はしたがすぐに忘れた。

 今ではその程度のものだったのだろうと思っている。


 それからどの程度記憶が失われているかの擦り合わせをした。

 どうやら失ったのは人間関係の部分で、文字は書けるし日常生活にも問題無い事が分かった。


「それで……君と私は王太子の命で結婚させられた。反対はしたが、力及ばず、すまない。

 婚姻届は既に貴族院に提出されたあとだった」

「そのあたりは大丈夫です。あの王太子よりあなたの方が良い人だと思います」


 にこりと微笑んだカトリーナを見て、ディートリヒは複雑な気持ちだった。


(記憶が無いからそう言ってくれるが……)


 記憶が戻れば、どういう反応をするだろうかと考えるだけでつきりと胸が痛む。


 いっそのこと、記憶が戻らなければ。


 それが頭を過ぎって頭を振った。


(だめだ。それは……)


「……旦那様のお名前はディートリヒ様でよろしいですか?」


 カトリーナに問われ、柔らかく微笑む。


「そうだ。ディートリヒ・ランゲ。伯爵の位を賜っている。王国騎士団の副団長でもある」

「それでしたら、一つ、間違っておりますわ」

「えっ?」


 間違いに心当たりが思い浮かばず、ディートリヒはきょとんとした。


「私、カトリーナ・ランゲになりましたのよね?」

「……っ…」


 何気ない言葉はディートリヒの心臓を跳ねさせた。

 確かに二人は望まぬ形とはいえ結婚したのだ。

 二人の場合、カトリーナがランゲ家に嫁いだ形になる。なので『カトリーナ・オールディス』ではなく、正しくは『カトリーナ・ランゲ』になった。

 カトリーナの主張は正しい。


「そっ、そうだな、うん。君は、カトリーナ・ランゲだ」


 ディートリヒはその名を噛み締めた。

 初夜を済ませたのに。

 今更ながら結婚したのだと実感が湧いてくる。



 もし、もしもカトリーナの記憶が戻ったら。

 嫌がるだろうか。再びオールディスに戻りたいと言うだろうか。

 ……自分はその時、手放せるだろうか。


 何度考えても、答えは出ている。



 例え戻っても、戻らなくても。


 ディートリヒの気持ちは一つなのだ。


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