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名前を呼んで

 

 ある日の昼下がり、カトリーナは鏡の前で自身とにらめっこをしていた。

 何度か咳払いをし、ごくりと喉を鳴らす。


「だんなさま」


 小さな口が言葉を紡ぐと、カトリーナの鼓動がたちまち速くなった。

 だがこれはあくまでも前哨戦。本番はこれからだ。


「ディ……ディート……リヒ……さま」


 言いながらカトリーナの顔は熱くなり、湯だってまるで蒸気が出そうになった。


 カトリーナの懐妊が発覚して一週間ほどが経過した。

 自覚すると悪阻症状が始まり、そのたびおろおろとしながら手厚く看護するディートリヒに苦笑しながらの日々だった。

 カトリーナの中で、子を授かったのだからディートリヒのことは名前で呼ぼうと決心していた。

 いつもの「だんなさま」も良いが、二人きりになれば個を大切にしたかった。時折勢いで呼んだときは驚きながらも嬉しそうに笑顔を向けてくれる彼の様子にも気づいていた。


 だが意識すると呼べなかった。気恥ずかしさが先にきて、どうしても口にできなかったのだ。

 けれど今のうちに慣れておかねば子が育つ。

 自然に呼べるよう、カトリーナは時折こうして名を呼ぶ練習を重ねていた。


「別に呼ばないなら呼ばなくてもいいかもしれないけれど、だん……ディートリヒ……様が喜ぶから仕方ないじゃない」


 誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、近くにいた侍女のソニアとエリンをなんとも言えない気持ちにさせた。

 二人から見れば、夫の名を呼ぶカトリーナも嬉しそうに顔を綻ばせているので意識せずにさらっと言えばいいのに、とやきもきさせる。


「でも、子が生まれたらそっちばかりに気が行ってだん……ディ……ディートリヒ……様が拗ねてしまうかもしれないし」


 なんとか慣れようと思えば思うほど、顔に熱が集まっていく。

 鼓動は速くなり、頭の中が真っ白になってどうしたらいいか分からなくなる。

 だんなさまのままでいいではないの、という悪魔と、だんなさまを喜ばせたいという天使がカトリーナの周りをくるくると回っているようで落ち着かない。

 次第にカトリーナはなぜこんな小さなことで悩まなければならないのか、と最早自分でも分からなくなってしまった。


「奥様、あまり悩まれるとお体に毒ですよ。少し休憩をなさってはいかがでしょうか?」

「ソニア……ゔぅ、そうね。そうすることにするわ」


 カトリーナの言葉にエリンは退室した。

 ソニアに促され、鏡の前から移動して柔らかなソファに沈み込むと、体が強張っていたのが力が抜けてほぅ、と息を吐いた。


「ねえソニア」

「はい、なんでしょう?」

「どうしたら意識せずに名前を呼べるようになるかしら?」


 クッションを抱き締めて呟く様はまるで幼子のようだ、とソニアは思う。

 こんなとき友人や姉妹、母親など身近な女性に聞くものだろうが、カトリーナは社交を再開できていない。

 ゆえにカトリーナの相談相手はもっぱら侍女たちを筆頭にした伯爵家の使用人たちだった。


「こればかりは慣れ、でございますかね」

「慣れ……」

「今すぐでなくとも、毎日呼べばいずれは慣れるものでございますよ」


 ソニアの言葉に「慣れ……」と反芻する。

 使用人たちは主のためにこうして小さなことでも努力するカトリーナを心から応援していた。


「お待たせいたしました」

「エリン、ありがとう」


 カトリーナはエリンが淹れたお茶で喉を潤し、もう一度夫の名を紡いだ。


「ソ、ソニア、エリン、ディ……ディートリヒ……様」

「なぜ私たちの名前まで」

「だ、だって、そうした方が意識しないで呼べるかな、って」

「それでしたら最後に言うのではなく、間に挟むのはいかがでしょうか?」


 ソニアが言うには、最後に言うぞ、と身構えるからこそ逆に意識してしまうのではないか、とのこと。

 確かに一理あると考えたカトリーナは、気を取り直してお茶で喉を潤し、咳払いをして再び紡いだ。


「エリン、ディー……トリヒ……様、ソニアっ!」

「まだまだ固いですね」

「ううう、もうだんなさまのままでいいのではないかしら」


 夫の名を呼ぶだけで顔を真っ赤にして身悶える主に、二人の侍女は面映い気持ちになっていく。

 だがここで甘やかしてはカトリーナの気持ちとしても納得がいかないだろう、と心ゆくまで練習に付き合うつもりだ。


「奥様がそれでよろしければ『だんなさま』のままでもよろしいかと存じます」

「よくないわ! いい、ソニア。妻が妊娠すると子に取られるかもしれないと拗ねる殿方がいらっしゃるそうだわ。ディートリヒ様は懐深くていらっしゃるからそうはならないかと思うけれど、これがいいきっかけになると思うの。

 名前を呼ぶって個人を見てるってことよ。だんなさまでも悪くないとは思うけれど、ディートリヒ様は私をカトリーナと呼ぶわ。お妻様とは呼ばない。だから私は……」


 恥ずかしくなって途中からそばにあったクッションを掴んで顔を隠し、早口でまくしたてる間に、目の前に誰かが座ったのにも気づかない。

 顔を上げた瞬間、緩んでしまう口元を隠して顔を赤らめるディートリヒの姿を認め、カトリーナは口を大きく開けたまま目の前の存在に頭の中が真っ白になった。


「だん……だん、なん、うそ、まって」

「カトリーナ」

「あのっ、これはっ、その! ちがうのよ!」


 顔を真っ赤にして抵抗する姿に愛おしさが募り、ディートリヒは立ち上がりカトリーナの隣へ座り直した。


「仕事が早上がりできたから帰って来てみれば、妻の可愛らしい姿を見れるなんて……今日はいい日だな」

「お、お早いおかえりでしたら先触れを出してくださいませんと!」

「すまない。先触れを出す間も惜しかったんだ」


 クッションで叩いて抵抗してはみるものの、当然のように敵わない。

 妻からのささやかな反撃を甘んじて受けるディートリヒの頬は緩みっぱなしだ。


「練習してくれていたんだな」

「私にかかればこれくらい、大したことございませんの」

「では本人の目の前で練習の成果を見せてもらおうかな」

「〜〜っ、まだ、そのときではございませんわ!」


 クッションがぽかぽかと拳に変わっても、やはり何のダメージも与えられない。

 悔しくなりながらカトリーナはこれ以上は無駄だわ、と抵抗をやめた。


「いつか呼んでくれると嬉しい」

「永遠に来ないかもしれませんわよ?」

「それはそれできみが『だんなさま』と呼ぶのを聞けるからね。どちらにしろ嬉しいことしかないな」


 この男は自分が何をしても喜び、それを余すことなく伝えてくるからカトリーナとしてはなんとか反撃したいところだが。


「ディートリヒ様を喜ばせてやる必要なんてありませんわ!」


 ぷん! と顔を赤らめてそっぽを向いた妻に、今度はどうやって喜びを伝えようか、と苦笑しながら「永遠に勝てないな」と呟きながら抱き締める。

 それを聞いたカトリーナは、頬を緩ませて満足げに愛しの夫の胸に安心してもたれたのだった。



 受賞記念に久しぶりに二人を書いてみました。

 相変わらずイチャイチャしてますね。

 発売日等が決まりましたらまた記念にSSを掲載予定です。

 皆様の応援ありがとうございます!



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