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マダムリグレットと亡き母の愛

 

 ランゲ伯爵邸の使用人たちは、奥方が購入を決定してくれたハンドクリームを就寝前に塗る事が日課となっていた。

 それぞれが自分で選んだ香りで、月の特定日までに希望を出せば翌月届く仕組みである。

 使用人待機室にサンプルも置いてあるので香りや気分を変えたい時などで使用可能だ。


「奥様の提案で購入頂いたハンドクリーム、とてもよく効きますわ。ほら、荒れた手がつるつるになりました」


 じゃーん、と、奥方付侍女エリンが自身の手をカトリーナに見せた。

 水仕事もありカサカサしていた手はつるつるすべすべになり、ささくれかけていた箇所も傷一つ見つからない。

 それは購入するきっかけとなったソニアの手も同じだった。


「それは良かったわ。私に触れる手がカサカサしてたら嫌だから購入したけれど、あなたたちに喜ばれるなら私としても嬉しいわ」

「マダムリグレットと言えばあまり聞いた事はありませんでしたが、奥様よくご存知でしたね」

「公爵家で使用していたの。侍女長がここが良いと言ってたのよ」


 オールディス公爵家侍女長は、アドルフの乳母をしていた女性で高齢ではあるが働き者であった。

 カトリーナの母マリアンヌが嫁いで来てから奥方付となり、身の回りの世話をしていたのだ。


「ではマダムリグレット製の化粧品でお揃えしましょうか」

「そうですね。馴染み深いものが良いでしょうし、何か思い入れもあるのかもしれません」

 

 侍女二人の提案もあり、自身の肌に合う化粧品が良いからとカトリーナもマダムリグレットへ行く事にした。



「外出? ……心配だから一緒に行くよ」


 ディートリヒに外出したいと伝えると一緒に着いてくると言い出した。心配性だなぁ、とカトリーナは苦笑したが、何かあった時の護衛としてと考えれば良いか、と思い直した。


 外出の日は次のディートリヒの休日に決まった。



 それから馬車に乗りマダムリグレットの店へと向かう。

 馬車には向かい合わせに座ったが、二人とも沈黙したままだった。


(な、何を話せば……)


 何か気の利いた会話をしなければ、とカトリーナは一人ぐるぐると思考を巡らせる。


「きょ、今日はいいお天気ですね!」


 会話に困ったらお天気の話、はよくある事だが。


「ああ、……過ごしやすい、天気だな」


 窓の外を見れば晴れ間は無く、厚い雲に覆われている。


「そ、そうね。暑くもなく寒くもないわ。うん。いいお天気」


 再び訪れる沈黙。次の会話の糸口を探りたいがカトリーナには無理そうだった。


「そう言えば」


 諦めかけた頃、ディートリヒが口を開いた。


「はい!なんでしょうか!」

「マダムリグレットはどこの家の経営だったかな」


 ディートリヒの言葉はこれから行くマダムリグレットの事を聞くものだった。まさか知らないとは思わなかったが、カトリーナはまんざらでもないように答えた。


「あら、旦那様はご存知ありませんの?

 マダムリグレットはクルーガー子爵家の経営する商会ですわ。

 主に女性用化粧品を取り扱っておりますの。

 広告を担ってらっしゃるのはリーベルト侯爵夫人なんですが、夫人は元はと言えばクルーガー子爵家出身なのです」

「そうか。君はさすがだな。その辺りの知識は無かったから助かるよ。ありがとう」

「こっ、これくらい、どうって事ありませんわよ!」


 ちょっとばかり得意気に話せたのは王太子妃教育の一環で貴族名鑑を覚えたからだ。

 特に高位貴族と王族の付き合いは深くなる。早めに親密になるには背景を把握している方が信頼を得やすい。

 リーベルト侯爵家の事を覚える際、妻であるフィーネ夫人の出身も調べたところクルーガー子爵家──マダムリグレットに行き着いたのだ。


 高位貴族に嫁いだフィーネ夫人が広告塔となる事で、マダムリグレットは徐々に知名度を挙げているのである。


 それからカトリーナは下位貴族にも目を通し関係性を覚えた。何が会話のきっかけになるか分からないからだ。



 会話もできたところで馬車はマダムリグレットに到着した。


 ディートリヒが先に降り、手を差し出す。


「ありがとぅ……」


 男性が女性をエスコートするのは普通の事だと自身に言い聞かせてカトリーナはその手を取った。

 夫の大きな手に自身の小さなほっそりとした手を重ねると、柔らかく包まれる。

 馬車を降りてからは腕に手を添えた。


(動揺してはダメよ、ただのエスコートだから)


 そう言い聞かせ淑女の笑みを浮かべるが、なぜか胸の高鳴りは大きくなるばかりだった。



「いらっしゃいませ、ランゲ伯爵夫妻様」


 マダムリグレットの入り口を潜れば従業員が一斉に出迎えた。


「伯爵夫人、こちらへどうぞ」

「伯爵様はご一緒されますか?」


 手慣れた従業員が二人を店内へと誘導する。

 結局一緒に、個別対応ができる一室に案内された。


 ソファでくつろいでいると、ノックがして一人の貴婦人が入室した。



「マリ……アンヌ……さま?」


 貴婦人はぽつりと呟き、ハッと口元を押さえた。

 その声にカトリーナは立ち上がり、一礼をする。


「……っ、マダムリグレットへようこそいらっしゃいました。

 フィーネ・リーベルトと申します。ランゲ伯爵夫妻様、どうぞお顔をお上げになって」


 息を飲み、ゆっくりと自己紹介をした貴婦人は、マダムリグレットの宣伝を担うリーベルト侯爵夫人だった。


「カトリーナ……、ランゲと申します。こちらは夫のディー……トリヒ、です。今日は宜しくお願いします」


 途中つっかえながらもカトリーナも自己紹介をした。

 妻に紹介され、ディートリヒも息を飲みながら一礼する。必要な事とはいえ夫として紹介してくれた事に戸惑った。


 それからカトリーナは様々な化粧品を試し、自身の肌に合うものを購入していく。

 美容部員のアドバイスを侍女と共に熱心に聞き入っていたようだった。



 一通り買い揃え、お暇する前に出されたお茶を飲んでいる時。


「……カトリーナ様は、本当にお母様似ですのね…」


 フィーネがぽつりと、呟いた。


「リーベルト夫人は母をご存知ですか?」


 カトリーナに問われ、フィーネは少し寂しげに頷いた。


「私の事はフィーネと。

 ……お母様のマリアンヌ様とは、学園時代に仲良くさせて頂きました」


 フィーネ曰く。


 元々侯爵家と子爵家の婚約で当時の彼女は他の令嬢から疎まれていた。時折複数の令嬢から絡まれる事もあったのだと言う。


「ある時助けて下さったのがマリアンヌ様でした。今の夫に見初められて自信が無かった私を叱咤して下さいましたの」


 フィーネは当時を懐かしむように目を細めた。


「マダムリグレットの商品を一番贔屓にして下さったのはマリアンヌ様でしたわ」


 寂しげに、微笑む。


「……だから、侍女長はマダムリグレットの化粧品を推していたんですね……」


 カトリーナがぽつりと呟いた。


 三歳の時に亡くなった母の記憶は朧気で、必要としている時にいない母を恨めしく思う事もあった。

 けれど、周りの者は母の事を感じられるよう、カトリーナに接していたのだと遅まきに感じていた。

 彼女が寂しくならないように。


「マリアンヌ様は貴女の事を心配していたわ。

 手紙にはいつも娘が可愛いって書かれてあったもの」

「……え」

「カトリーナ様、これだけは忘れないで。

 貴女はマリアンヌ様に望まれて産まれて来たの。

 だから、自分は愛されていない、なんて考えないでね」

「……っ」


 フィーネに言われ、カトリーナはぎゅっとドレスを握った。


 婚約者から疎まれ、実家や友人から見放され、孤独を感じていた彼女は『愛されている』実感を持てないでいる。

 今だって亡き母の話を聞いてもいまいちピンと来ない。


 顔を俯けていると、隣に座っていたディートリヒがそっと手を重ねてきた。

 驚いて見やると、優しく微笑まれる。


 あまりにも優しい瞳に、カトリーナの目頭が熱くなる。


(……私は、もしかしたら、誰かが差し伸べてくれていた手に気付いていなかったのかもしれない)



 王太子妃教育の賜物でもあるが、今まで無意識に誰かに頼る事を避け、常に気を張り続けなければならなかった。

 独りで解決しなければいけないと思い込んでいた。


 けれど。


(頼っていいのかな)


(寂しいって、言ってもいいのかな)



(誰かに愛されていると思っても、いいのかな)



 それはカトリーナに芽生えた、新しい気持ち。

 包まれた手が温かくて、それが何だか嬉しくて。


 カトリーナからその手を離そうとは思わなかった。



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